特級呪霊

木ノ葉の里から少し外れた山間部に、小さな村落があった。

深い山々へ抱かれるように家々が寄り添い、朝は煙が細く立ち上り、夕には祠へ供え物が置かれる。山の神を崇める一方で、そこに棲むものを恐れてもいた。だから祠には、花も、米も、酒も絶やさない。豊穣と平穏を願うのと同じだけ、怒りに触れぬよう祈って生きてきた。

慎ましいが、穏やかな暮らしだった。

少なくとも、戦が近くへ来るまでは。

第三次忍界大戦は、里に属さぬ小さな村にとっても、遠い話では済まなかった。忍同士の戦いは山を裂き、木を折り、時に村のすぐ外れまで血を飛ばした。名も知らぬ男たちの死体が転がり、焼けた土の匂いが風に乗った。

その後、何かが残った。

誰もそれを言葉にはできなかったが、山の空気は少しずつ変わっていった。夜道の暗がりが深くなり、祠の周辺だけ風が冷たくなり、家畜が怯え、子どもが意味もなく泣くことが増えた。

それでも、人は暮らしていくしかない。

祠への供えも途切れなかった。

その日も、老夫婦が朝のうちに供え物を持って山へ入った。

帰ってこなかった。

昼を過ぎても、夕に差しかかっても、姿が見えない。年寄りだとはいえ、慣れた道だ。日が落ちる前には必ず戻ってくる。そう知っていたからこそ、村の空気は目に見えてざわついた。

隣家の若い男が、探しに行くと言った。

「大丈夫だ、すぐ見つかる」

そう言って笑った顔は、たぶん自分を安心させるためのものだったのだろう。

彼もまた、帰ってこなかった。

そこでようやく、村人たちは“明らかな異変”として恐れ始めた。

山へ近づくな。
日が落ちる前に戸を閉めろ。
祠には明日、皆で行こう。

そう話していた夕刻だった。

影が落ちた。

最初に誰が悲鳴を上げたのかは、もう分からない。

ただ、次の瞬間にはあちこちから喉を裂くような声が上がっていた。家の前にいた女が子を抱えたまま後ろへ転び、薪を割っていた男が斧を落とし、誰かが「あれ」と震えた声で指を差す。

目の前にいた人が、突然、消えた。

消えたように見えた。

実際には違う。

何かに食いちぎられたのだ。

胴の上が、音もなく持っていかれた。下半身だけがその場へ残り、遅れて血が噴いた。血飛沫をまともに浴びた男が、何が起きたのかも分からぬまま尻餅をつき、口を開けたまま震えた。

何かいる。

ナニカがいる。

そして、それは姿を現した。

黒い影のような体だった。

輪郭が曖昧なくせに、そこにいると分かる。獣のようでも、人のようでもない。その正面に、能面じみた白い顔だけが浮いていた。目は落ち窪み、口は耳元まで裂け、血まみれの口縁を長い舌がぬらりと舐める。

到底、人ではない。

見たことがない。
なのに、見えてしまう。

なぜ見えるのか。

それはたぶん、今この瞬間、自分が死にかけているからだ。人が本当に追い詰められた時だけ、触れてはいけないものが輪郭を持つ。そんな理屈を知る者はこの村にはいなかったが、理由はそれで十分だった。

今、死ぬ。

そう本能が理解してしまうほど、その化け物は近かった。

尻餅をついた男が、ようやく息を吸う。

逃げるより先に、喉から空気が漏れた。

「ひ――」

最後まで声にはならなかった。

バクン、と。

頭が食いちぎられた。

村は地獄になった。

走る者。
転ぶ者。
戸を閉める者。
家族の名を叫ぶ者。

だが、そのどれもが遅い。化け物は影のように滑り、跳び、噛みついた。捕まえるというより、削り取るような殺し方だった。肉と骨が散り、赤黒いものが土へ広がる。山の神へ向けて供えられるはずだった米と酒が、血に混じって泥へ落ちた。

祠の方角から、さらに冷たい風が吹いた。

それは飢えていた。

偶然そこへ現れたのではない。

長く、長く、待っていたのだ。

血を。
恐怖を。
穢れを。

忍同士の争いで撒かれたもの。
山へ残された死。
村人たちが言葉にせず飲み込んだ不安。
それらが澱のように積もり、底で腐り、ようやく形を得た。

村の誰も、その名を知らない。

ただ、そこにいたものは、オビトの知る分類で言えば、上級呪霊――いや、特級下層へ片足をかけた化け物だった。

名を、無堕という。

領域は持たない。

だが、持たぬから弱いわけではない。

領域を持たぬまま、飢えと食欲だけでここまで育った怪異は、むしろ性質が悪い。知恵ではなく本能で狩る。だから躊躇がない。だから止まらない。

村の外れで、最後の戸が叩き破られた頃。

木ノ葉ではまだ、誰もその惨劇を知らなかった。

山間の小村が、血と肉を撒き散らしながら沈んでいく。

その事実だけが、夜の底で静かに積み重なっていく。

そしてその匂いは、遠からず、木ノ葉の忍を呼ぶことになる。


〆栞
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