狂気
自来也は、瞠目した。
見えなかったはずのものが、見えた。
いや、正確には――死を間近にして、初めて視認したのだ。
肌が粟立つ。
喉が詰まる。
本能が、あれは人の理から外れたものだと悟る。
化物だった。
黒い影のような体。
能面じみた白い顔。
裂けた口。
血を舐める長い舌。
人ではない。
獣でもない。
忍が扱う術や忍獣とも違う、もっと得体の知れぬ何か。
そして、その化物と戦う少年に、自来也はさらに息を飲んだ。
オビトが、踏み込む。
見えぬ敵の懐へ、自分から飛び込むように。
無茶だ、と自来也は思った。思ったが、その感想が形になる前に、化物の反撃の方が速かった。触手が左右から閉じ、裂けた口が大きく開く。
次の瞬間、少年の身体に衝撃が襲った。
音が、物語る。
肉が断たれる、生々しい音。
骨が軋み、砕ける音。
湿ったものが引き千切られる音。
左肩から腕が、噛みちぎられるようにして奪われた。
赤が飛ぶ。
夜の闇に、血だけが異様に鮮やかだった。
自来也は焦った。
「オビト!!」
助けねば。
そう、頭でははっきり理解している。今すぐ飛び込んで、あの子を引き剥がし、抱えてでも下がるべきだ。七歳の子どもが、肩口から腕を奪われたのだ。助かるかどうかすら怪しい。普通ならそこで終わっている。
なのに、本能が一歩を拒んでいた。
怖気ではない。
恐怖とも、少し違う。
目の前で起きていることが、あまりにも人の枠から外れすぎていて、身体が“下手に踏み込めば死ぬ”と理解してしまったのだ。しかも、ただの死では済まない。何かもっと、呑み込まれるような終わり方をする。そんな警鐘が、三忍の一人である自来也の本能すら縛った。
その時だった。
少年は、半身を奪われながら、攻撃に転じた。
あり得ない、と自来也は思った。
左肩から先がない。
腹部にも、何かが貫いたのだろう。服の下から、ぼたぼたと血が落ちている。立っているだけでもおかしい。息が乱れ、膝が落ちてもおかしくない。七歳の身体なら、そこで意識を失っても不思議ではない。
だが、オビトは倒れなかった。
痛みに絶叫することもなく、ただ奥歯を噛みしめた。顔色は蒼白で、血が頬に飛んでいる。なのに眼光だけが、妙に冴えていた。怯えも、混乱も、そこにはなかった。
あるのは怒りと、狙いだけだ。
無堕が、喰らった獲物の反応としてその静けさに一瞬だけ揺らぐ。
その一瞬が、致命になった。
オビトの右拳が、闇を裂いた。
黒閃。
空間が、歪む。
拳と“何か”がぶつかる、その刹那だけ、時間の刻み方が狂ったように見えた。呪力と衝撃が極限で一致し、真っ黒な閃光が迸る。
夜が裂けた。
遅れて、凄まじい衝撃が弾ける。
無堕の胴が抉れた。
影の肉がねじ切られ、白い顔がひしゃげ、巨体ごと吹き飛ぶ。黒い閃光が尾を引くように夜気へ残り、祠の石段をいくつも砕きながら、その化物を村の奥へ叩き込んだ。
轟音。
風圧。
血と土が舞い上がる。
自来也は、その一撃に完全に息を呑んだ。
何だ、今のは。
拳だった。
ただの体術ではない。だが忍術でもない。見たことのない、得体の知れぬ一撃。しかも、それを放ったのが、左肩から腕を失い、腹からも血を流している七歳の少年だという事実が、自来也の理解を拒んだ。
オビトは、その場で膝をつきかけて、それでも倒れなかった。
右手だけで地面を掴み、前を見続ける。
左肩の断面からは血が溢れている。腹部の傷も深い。呼吸は乱れている。足元の土へ赤がぽたぽた落ちている。
そんな様で、怯むどころか攻撃に転じるなど、あり得ない。
痛みで思考が飛ぶはずだ。
恐怖で身体が縮むはずだ。
命の危機を前にした子どもなら、泣いてもおかしくない。
それをせず、むしろ踏み込んで、殴って、吹き飛ばした。
まさに狂気の沙汰にしか思えなかった。
自来也の背筋に、ぞくりと寒気が走る。
この少年は、何なんだ。
問いが喉の奥へ刺さる。
七歳。
木ノ葉の子。
うちはの少年。
早熟で、妙にできるとは聞いていた。
だが、それだけでは到底足りない。
あの痛みの中で前へ出ることを選ぶのは、強さだけでは説明できない。何かを壊してでも届かせると決めた人間の戦い方だ。忍でもそういう者はいる。だが、七歳でその域に立つのは異常だ。
無堕が、瓦礫の中から起き上がる。
完全には祓えていない。
黒閃で大きく削れたはずの輪郭が、まだ揺らぎながら形を保っている。再生しているのか、肉をつぎ足しているのか、見ているだけで吐き気のする戻り方だった。
オビトは息を整えようとして――そこでようやく、血の流れが限界に近いことを自分でも理解したらしい。わずかに足元が揺れる。
自来也の身体は、その瞬間ようやく動いた。
今だ、と本能ではなく意志で踏み込む。
見えぬ敵へ向かうのではない。
まずは、オビトを死なせないために。
「下がれ!」
そう叫んで、少年の前へ滑り込もうとする。
だがオビトは、右目だけで自来也を見た。
「来るな!」
怒鳴るでもない。
だが切り捨てるような声だった。
「まだいる!」
分かっている。
こっちには見えない。
だが、いるのだ。
そしてオビトはそれを見ている。
自来也は歯を食いしばって足を止めた。
また一歩、遅れる。
遅れるが、今はそれしかない。見えぬ敵へ無防備に踏み込めば、今度は自分が喰われる。三忍としての経験が、その現実を嫌でも理解させる。
オビトは、揺れる視界の中でも無堕を睨んでいた。
左肩の損失。
腹部の貫通。
流れ続ける血。
それでも、まだ終わらせるつもりでいる。
狂ってる、と自来也は思った。
だが同時に、その狂気の向こうにあるものも、少しだけ見えた気がした。
怒りだ。
喰われた村人たちへの怒り。
目の前の化物への怒り。
これ以上、一人も喰わせないという執念。
それが、痛みより先に身体を動かしている。
無堕が、再び裂けた口を開く。
先ほどまでの余裕はない。黒閃の一撃で、明確に傷つけられた。だが、食欲は消えていない。むしろ、より濃くなっていた。
喰いたい。
この子供を喰えば、もっと上へ行ける。
その執着が、黒い影の輪郭をさらに歪ませる。
村は血に塗れ、月は陰り、七歳の少年は半身を失ってなお立っている。
その光景を、自来也は一生忘れぬだろうと、まだこの時は知らなかった。
見えなかったはずのものが、見えた。
いや、正確には――死を間近にして、初めて視認したのだ。
肌が粟立つ。
喉が詰まる。
本能が、あれは人の理から外れたものだと悟る。
化物だった。
黒い影のような体。
能面じみた白い顔。
裂けた口。
血を舐める長い舌。
人ではない。
獣でもない。
忍が扱う術や忍獣とも違う、もっと得体の知れぬ何か。
そして、その化物と戦う少年に、自来也はさらに息を飲んだ。
オビトが、踏み込む。
見えぬ敵の懐へ、自分から飛び込むように。
無茶だ、と自来也は思った。思ったが、その感想が形になる前に、化物の反撃の方が速かった。触手が左右から閉じ、裂けた口が大きく開く。
次の瞬間、少年の身体に衝撃が襲った。
音が、物語る。
肉が断たれる、生々しい音。
骨が軋み、砕ける音。
湿ったものが引き千切られる音。
左肩から腕が、噛みちぎられるようにして奪われた。
赤が飛ぶ。
夜の闇に、血だけが異様に鮮やかだった。
自来也は焦った。
「オビト!!」
助けねば。
そう、頭でははっきり理解している。今すぐ飛び込んで、あの子を引き剥がし、抱えてでも下がるべきだ。七歳の子どもが、肩口から腕を奪われたのだ。助かるかどうかすら怪しい。普通ならそこで終わっている。
なのに、本能が一歩を拒んでいた。
怖気ではない。
恐怖とも、少し違う。
目の前で起きていることが、あまりにも人の枠から外れすぎていて、身体が“下手に踏み込めば死ぬ”と理解してしまったのだ。しかも、ただの死では済まない。何かもっと、呑み込まれるような終わり方をする。そんな警鐘が、三忍の一人である自来也の本能すら縛った。
その時だった。
少年は、半身を奪われながら、攻撃に転じた。
あり得ない、と自来也は思った。
左肩から先がない。
腹部にも、何かが貫いたのだろう。服の下から、ぼたぼたと血が落ちている。立っているだけでもおかしい。息が乱れ、膝が落ちてもおかしくない。七歳の身体なら、そこで意識を失っても不思議ではない。
だが、オビトは倒れなかった。
痛みに絶叫することもなく、ただ奥歯を噛みしめた。顔色は蒼白で、血が頬に飛んでいる。なのに眼光だけが、妙に冴えていた。怯えも、混乱も、そこにはなかった。
あるのは怒りと、狙いだけだ。
無堕が、喰らった獲物の反応としてその静けさに一瞬だけ揺らぐ。
その一瞬が、致命になった。
オビトの右拳が、闇を裂いた。
黒閃。
空間が、歪む。
拳と“何か”がぶつかる、その刹那だけ、時間の刻み方が狂ったように見えた。呪力と衝撃が極限で一致し、真っ黒な閃光が迸る。
夜が裂けた。
遅れて、凄まじい衝撃が弾ける。
無堕の胴が抉れた。
影の肉がねじ切られ、白い顔がひしゃげ、巨体ごと吹き飛ぶ。黒い閃光が尾を引くように夜気へ残り、祠の石段をいくつも砕きながら、その化物を村の奥へ叩き込んだ。
轟音。
風圧。
血と土が舞い上がる。
自来也は、その一撃に完全に息を呑んだ。
何だ、今のは。
拳だった。
ただの体術ではない。だが忍術でもない。見たことのない、得体の知れぬ一撃。しかも、それを放ったのが、左肩から腕を失い、腹からも血を流している七歳の少年だという事実が、自来也の理解を拒んだ。
オビトは、その場で膝をつきかけて、それでも倒れなかった。
右手だけで地面を掴み、前を見続ける。
左肩の断面からは血が溢れている。腹部の傷も深い。呼吸は乱れている。足元の土へ赤がぽたぽた落ちている。
そんな様で、怯むどころか攻撃に転じるなど、あり得ない。
痛みで思考が飛ぶはずだ。
恐怖で身体が縮むはずだ。
命の危機を前にした子どもなら、泣いてもおかしくない。
それをせず、むしろ踏み込んで、殴って、吹き飛ばした。
まさに狂気の沙汰にしか思えなかった。
自来也の背筋に、ぞくりと寒気が走る。
この少年は、何なんだ。
問いが喉の奥へ刺さる。
七歳。
木ノ葉の子。
うちはの少年。
早熟で、妙にできるとは聞いていた。
だが、それだけでは到底足りない。
あの痛みの中で前へ出ることを選ぶのは、強さだけでは説明できない。何かを壊してでも届かせると決めた人間の戦い方だ。忍でもそういう者はいる。だが、七歳でその域に立つのは異常だ。
無堕が、瓦礫の中から起き上がる。
完全には祓えていない。
黒閃で大きく削れたはずの輪郭が、まだ揺らぎながら形を保っている。再生しているのか、肉をつぎ足しているのか、見ているだけで吐き気のする戻り方だった。
オビトは息を整えようとして――そこでようやく、血の流れが限界に近いことを自分でも理解したらしい。わずかに足元が揺れる。
自来也の身体は、その瞬間ようやく動いた。
今だ、と本能ではなく意志で踏み込む。
見えぬ敵へ向かうのではない。
まずは、オビトを死なせないために。
「下がれ!」
そう叫んで、少年の前へ滑り込もうとする。
だがオビトは、右目だけで自来也を見た。
「来るな!」
怒鳴るでもない。
だが切り捨てるような声だった。
「まだいる!」
分かっている。
こっちには見えない。
だが、いるのだ。
そしてオビトはそれを見ている。
自来也は歯を食いしばって足を止めた。
また一歩、遅れる。
遅れるが、今はそれしかない。見えぬ敵へ無防備に踏み込めば、今度は自分が喰われる。三忍としての経験が、その現実を嫌でも理解させる。
オビトは、揺れる視界の中でも無堕を睨んでいた。
左肩の損失。
腹部の貫通。
流れ続ける血。
それでも、まだ終わらせるつもりでいる。
狂ってる、と自来也は思った。
だが同時に、その狂気の向こうにあるものも、少しだけ見えた気がした。
怒りだ。
喰われた村人たちへの怒り。
目の前の化物への怒り。
これ以上、一人も喰わせないという執念。
それが、痛みより先に身体を動かしている。
無堕が、再び裂けた口を開く。
先ほどまでの余裕はない。黒閃の一撃で、明確に傷つけられた。だが、食欲は消えていない。むしろ、より濃くなっていた。
喰いたい。
この子供を喰えば、もっと上へ行ける。
その執着が、黒い影の輪郭をさらに歪ませる。
村は血に塗れ、月は陰り、七歳の少年は半身を失ってなお立っている。
その光景を、自来也は一生忘れぬだろうと、まだこの時は知らなかった。
【〆栞】