揺るがぬ指針
村落の人々は、誰一人として生き残っていなかった。
そう、自来也は思った。
壊れた戸。
撒き散らされた血。
肉片。
肉塊。
人の形を辛うじて留めたものですら、もう生者の側にはいない。風が通るたび、血と土と臓物の匂いが混じって、鼻の奥へまとわりつく。戦場の死体には慣れている。だが、これは違った。戦いの末ではない。逃げ惑い、喰われ、散らされた痕だ。
全滅。
そう結論づけかけた、その時だった。
「いる」
オビトが、ぽつりと呟いた。
自来也は反射的に振り向いた。
「何?」
「……声」
少年はそう言って、耳を澄ませるように目を細めた。
最初、自来也には何も聞こえなかった。風の音と、壊れた家が軋む音だけだ。だがオビトは迷わない。血溜まりの間を縫うように歩き出す。肉片も、肉塊も、砕けた器も、躊躇なく踏み越えていく。
その光景があまりにも異様で、自来也は思わず叫んでいた。
「お前、平然と進むな!!」
するとオビトがぴたりと振り返り、人差し指を口元へ当てた。
しー。
その仕草ひとつで、五月蝿い、静かにしろ、と言外に叩きつけてくる。
自来也は口をつぐんだ。
何なんだこいつは、本当に。
ついさっきまで半身を奪われても止まらず、見えぬ化物へ狂気じみた攻撃を叩き込んでいた少年が、今は獣道に入った猟師みたいに、音を殺して村を歩いている。
耳を澄ます。
今度は、自来也にもかすかに聞こえた。
とても弱く、か細い鳴き声。
息を潜めていて、限界だけが漏れるような、幼い声だ。
自来也の表情が変わる。
まさか、と胸の奥で思う。
この惨状で、まだ。
オビトは一軒の家屋の前で足を止めた。
戸は壊れている。
土壁は抉れ、柱には血が飛んでいる。
中へ踏み込む。
自来也もすぐ後ろへ続いた。
家の中は、外と同じか、それ以上に酷かった。手前の間には男と思われる遺体が倒れていた。正面からガリガリと削られたように抉られていて、もはや顔の判別もつかない。少し離れた場所には女と思われるものがある。こちらはもう、辛うじて手先が残っているだけだった。
自来也が息を止める。
オビトはそこを通り過ぎた。
視線は遺体ではなく、その奥に向いている。
さらに奥の間へ入ると、床板の一角がずれていた。半ば壊されかけながら、完全には開いていない。そこから、さっきのか細い声がしていた。
「……ここか」
自来也が低く呟く。
オビトは膝をつき、床板へ手をかけた。右腕だけで慎重にずらす。まだ少し顔色は悪いが、手元はぶれない。
下に、穴があった。
地下の小さな保管穴だ。
そこに、赤ん坊を抱えて震えている四歳くらいの女の子がいた。
生きている。
その事実だけで、一瞬、家の中の空気が変わった。
女の子は涙で顔をぐしゃぐしゃにして、歯を鳴らすように震えている。腕の中の赤ん坊は、もう泣く力も尽きかけているのか、弱く小さく啼くだけだ。
「あ……」
自来也の口から、かすかに息が漏れた。
本当に、いた。
全滅ではなかった。
オビトの表情が、そこで初めて少し緩む。
「ああ」
小さく、安堵の混じった声だった。
「土が守ったのか」
その呟きの意味を、自来也はすぐには理解できなかった。だがオビトには分かっているらしい。穴の縁に手を置き、周囲の土を見ている。
ここは供え物を保管する場所なのだろう。
米や野菜、酒、そういうものを納めるための小さな地下穴。土の香りが濃い。湿ってはいるが、妙に澄んでいる。村人たちが山の神へ捧げるものを置いてきた場所だからか、血と穢れに塗れてなお、ここだけ空気が違っていた。
純粋な自然の匂い。
穢れの薄い、守られた土。
だから無堕は触れられなかったのだろう。
オビトはそう感じていた。
遅かった。
気づくのが遅くて、助けられなかった命がたくさんある。
それでも、守れた命がここにあった。
胸の奥で、倭助の言葉が重なる。
手の届く範囲でいい。
救える奴は救っとけ。
全部じゃなくていい。
手が届くなら、ちゃんと手を伸ばしなさい。
両方の声が、今の自分の中で一つになる。
オビトの顔に浮かんだ表情は、とても柔らかかった。
ほっとしたように、力を抜いた笑みではない。
泣きそうなくらい優しくて、でも泣かないでいる顔だった。
自来也は、その表情を見て、意識が少し変わるのを感じた。
さっきまであの化物と狂気じみた戦い方をしていた奴とは思えない。
同じ顔だ。
同じ少年だ。
なのに、そこへ宿るものがあまりにも違いすぎる。
喰われるのも構わずに殴りにいく目と、子どもを見て安堵する目が、同じところへある。その落差が、自来也には妙に引っかかった。
この少年は、何を持ってして戦うのか。
そこで初めて、自来也は純粋な興味を覚えた。
オビトは穴の縁へしゃがみ込み、なるべく低く、優しい声で話しかける。
「もう大丈夫」
女の子がびくりと肩を震わせる。
「怖かったな」
返事はない。
あるはずもない。
だが、赤ん坊を抱く腕が少しだけ強くなる。失うまいとしているのだろう。その必死さが痛々しい。
「その子、貸せるか」
オビトが手を伸ばすと、女の子は一瞬だけ身を引いた。だが、その目がオビトの顔を見て止まる。無表情に近い。血まみれだ。ゴーグルもずれている。普通なら怖がられてもおかしくない姿だ。
それでも、女の子は逃げなかった。
たぶん、声だ。
揺れを抑えた、静かな声。
それがかろうじて信じられるものに聞こえたのだろう。
オビトは赤ん坊を受け取り、そっと抱き直した。右腕一本だけでも、その手つきは妙に慣れている。首を支え、揺らしすぎず、呼吸を確かめる。
自来也はそこで、また少しだけ妙な顔になった。
何でそんなに手慣れておる。
だが今はそこを問う場ではない。
オビトは赤ん坊を軽くあやしながら、自来也の方を振り向いた。
「毛布とか、水とか、あるなら」
「あ、ああ」
自来也がようやく我に返る。
急いで辺りを見回し、まだ使えそうな布と、水の入った器を探しに動く。その背を見送りながら、オビトは女の子へ目線を戻した。
「もう何も来ない」
それは断言だった。
実際、無堕は祓った。
もうこの場へ戻ることはない。
女の子の唇が、小さく震える。
「……おかあ、さん」
かすれた声だった。
オビトの喉が、少しだけ詰まる。
だがそこで否定もしない。嘘をついて希望を繋ぐには、この子の目はもう現実を見すぎていた。
代わりに、オビトはただ低く言った。
「今は、生きるぞ」
それだけだ。
四歳の子へ向けるには重い言葉だ。けれど、今はそれしか要らない。泣くのはあとでいい。抱きしめてやるのも、安心させるのも、そのあとだ。まずは生きてここを出ることが先だ。
自来也が戻ってくる。
水と布を渡しながら、オビトを見た。
「お前」
「ん?」
「何でそこまでできる」
問いは、思っていたより静かだった。
オビトは一瞬だけ視線を落とした。
赤ん坊はまだ小さく泣いている。
女の子は地下穴の縁を握りしめている。
その二人を気遣いながら、オビトは答えた。
「手が届くなら、助けるって決めてるから」
火影へ語ったことと、同じだった。
夢とか、称号とか、その前の話だ。
「全部は無理でも、目の前にいるやつを放っておきたくない」
自来也は黙って聞いている。
オビトは、赤ん坊の顔を布で軽く拭いながら続けた。
「強いなら、人を助けろって言葉があって」
「手の届く範囲でいいから、救えるやつは救っとけって」
それは誰の言葉か、は言わない。
言えない。
でも、自分の中で芯になってるものを隠す気もなかった。
「気づくのが遅くて、助けられなかった」
村の惨状へ一瞬だけ視線が流れる。
「それでも、守れた命があるなら、ちゃんと手を伸ばしたい」
自来也は、返す言葉を失ったように黙った。
七歳の子どもが言うには、あまりにもまっすぐで、あまりにも重い。だが嘘ではないのだと、その声がよく分かった。理屈で飾った正しさじゃない。自分の中へ根づいている、生きる指針そのものなのだろう。
「……お前さんは」
自来也が低く呟く。
「何を背負っとるんじゃろうな」
オビトはそれに答えなかった。
答えられない、の方が正しいかもしれない。
背負っているものは多い。
前々世も、前世も、今世も、全部混ざっている。
でも今は、それを言葉にするより先に、この子たちを連れ出す方が大事だ。
オビトは地下穴へ右手を伸ばした。
「上がれるか」
女の子は、しばらくじっとその手を見ていた。
それから、小さく頷いて、その手を取った。
その瞬間だけ、オビトの表情はまたひどく柔らかくなった。
揺るがない。
何があっても、そこだけは変わらない。
自来也は、血塗れの家の中で、その少年の指針を見た気がした。
そう、自来也は思った。
壊れた戸。
撒き散らされた血。
肉片。
肉塊。
人の形を辛うじて留めたものですら、もう生者の側にはいない。風が通るたび、血と土と臓物の匂いが混じって、鼻の奥へまとわりつく。戦場の死体には慣れている。だが、これは違った。戦いの末ではない。逃げ惑い、喰われ、散らされた痕だ。
全滅。
そう結論づけかけた、その時だった。
「いる」
オビトが、ぽつりと呟いた。
自来也は反射的に振り向いた。
「何?」
「……声」
少年はそう言って、耳を澄ませるように目を細めた。
最初、自来也には何も聞こえなかった。風の音と、壊れた家が軋む音だけだ。だがオビトは迷わない。血溜まりの間を縫うように歩き出す。肉片も、肉塊も、砕けた器も、躊躇なく踏み越えていく。
その光景があまりにも異様で、自来也は思わず叫んでいた。
「お前、平然と進むな!!」
するとオビトがぴたりと振り返り、人差し指を口元へ当てた。
しー。
その仕草ひとつで、五月蝿い、静かにしろ、と言外に叩きつけてくる。
自来也は口をつぐんだ。
何なんだこいつは、本当に。
ついさっきまで半身を奪われても止まらず、見えぬ化物へ狂気じみた攻撃を叩き込んでいた少年が、今は獣道に入った猟師みたいに、音を殺して村を歩いている。
耳を澄ます。
今度は、自来也にもかすかに聞こえた。
とても弱く、か細い鳴き声。
息を潜めていて、限界だけが漏れるような、幼い声だ。
自来也の表情が変わる。
まさか、と胸の奥で思う。
この惨状で、まだ。
オビトは一軒の家屋の前で足を止めた。
戸は壊れている。
土壁は抉れ、柱には血が飛んでいる。
中へ踏み込む。
自来也もすぐ後ろへ続いた。
家の中は、外と同じか、それ以上に酷かった。手前の間には男と思われる遺体が倒れていた。正面からガリガリと削られたように抉られていて、もはや顔の判別もつかない。少し離れた場所には女と思われるものがある。こちらはもう、辛うじて手先が残っているだけだった。
自来也が息を止める。
オビトはそこを通り過ぎた。
視線は遺体ではなく、その奥に向いている。
さらに奥の間へ入ると、床板の一角がずれていた。半ば壊されかけながら、完全には開いていない。そこから、さっきのか細い声がしていた。
「……ここか」
自来也が低く呟く。
オビトは膝をつき、床板へ手をかけた。右腕だけで慎重にずらす。まだ少し顔色は悪いが、手元はぶれない。
下に、穴があった。
地下の小さな保管穴だ。
そこに、赤ん坊を抱えて震えている四歳くらいの女の子がいた。
生きている。
その事実だけで、一瞬、家の中の空気が変わった。
女の子は涙で顔をぐしゃぐしゃにして、歯を鳴らすように震えている。腕の中の赤ん坊は、もう泣く力も尽きかけているのか、弱く小さく啼くだけだ。
「あ……」
自来也の口から、かすかに息が漏れた。
本当に、いた。
全滅ではなかった。
オビトの表情が、そこで初めて少し緩む。
「ああ」
小さく、安堵の混じった声だった。
「土が守ったのか」
その呟きの意味を、自来也はすぐには理解できなかった。だがオビトには分かっているらしい。穴の縁に手を置き、周囲の土を見ている。
ここは供え物を保管する場所なのだろう。
米や野菜、酒、そういうものを納めるための小さな地下穴。土の香りが濃い。湿ってはいるが、妙に澄んでいる。村人たちが山の神へ捧げるものを置いてきた場所だからか、血と穢れに塗れてなお、ここだけ空気が違っていた。
純粋な自然の匂い。
穢れの薄い、守られた土。
だから無堕は触れられなかったのだろう。
オビトはそう感じていた。
遅かった。
気づくのが遅くて、助けられなかった命がたくさんある。
それでも、守れた命がここにあった。
胸の奥で、倭助の言葉が重なる。
手の届く範囲でいい。
救える奴は救っとけ。
全部じゃなくていい。
手が届くなら、ちゃんと手を伸ばしなさい。
両方の声が、今の自分の中で一つになる。
オビトの顔に浮かんだ表情は、とても柔らかかった。
ほっとしたように、力を抜いた笑みではない。
泣きそうなくらい優しくて、でも泣かないでいる顔だった。
自来也は、その表情を見て、意識が少し変わるのを感じた。
さっきまであの化物と狂気じみた戦い方をしていた奴とは思えない。
同じ顔だ。
同じ少年だ。
なのに、そこへ宿るものがあまりにも違いすぎる。
喰われるのも構わずに殴りにいく目と、子どもを見て安堵する目が、同じところへある。その落差が、自来也には妙に引っかかった。
この少年は、何を持ってして戦うのか。
そこで初めて、自来也は純粋な興味を覚えた。
オビトは穴の縁へしゃがみ込み、なるべく低く、優しい声で話しかける。
「もう大丈夫」
女の子がびくりと肩を震わせる。
「怖かったな」
返事はない。
あるはずもない。
だが、赤ん坊を抱く腕が少しだけ強くなる。失うまいとしているのだろう。その必死さが痛々しい。
「その子、貸せるか」
オビトが手を伸ばすと、女の子は一瞬だけ身を引いた。だが、その目がオビトの顔を見て止まる。無表情に近い。血まみれだ。ゴーグルもずれている。普通なら怖がられてもおかしくない姿だ。
それでも、女の子は逃げなかった。
たぶん、声だ。
揺れを抑えた、静かな声。
それがかろうじて信じられるものに聞こえたのだろう。
オビトは赤ん坊を受け取り、そっと抱き直した。右腕一本だけでも、その手つきは妙に慣れている。首を支え、揺らしすぎず、呼吸を確かめる。
自来也はそこで、また少しだけ妙な顔になった。
何でそんなに手慣れておる。
だが今はそこを問う場ではない。
オビトは赤ん坊を軽くあやしながら、自来也の方を振り向いた。
「毛布とか、水とか、あるなら」
「あ、ああ」
自来也がようやく我に返る。
急いで辺りを見回し、まだ使えそうな布と、水の入った器を探しに動く。その背を見送りながら、オビトは女の子へ目線を戻した。
「もう何も来ない」
それは断言だった。
実際、無堕は祓った。
もうこの場へ戻ることはない。
女の子の唇が、小さく震える。
「……おかあ、さん」
かすれた声だった。
オビトの喉が、少しだけ詰まる。
だがそこで否定もしない。嘘をついて希望を繋ぐには、この子の目はもう現実を見すぎていた。
代わりに、オビトはただ低く言った。
「今は、生きるぞ」
それだけだ。
四歳の子へ向けるには重い言葉だ。けれど、今はそれしか要らない。泣くのはあとでいい。抱きしめてやるのも、安心させるのも、そのあとだ。まずは生きてここを出ることが先だ。
自来也が戻ってくる。
水と布を渡しながら、オビトを見た。
「お前」
「ん?」
「何でそこまでできる」
問いは、思っていたより静かだった。
オビトは一瞬だけ視線を落とした。
赤ん坊はまだ小さく泣いている。
女の子は地下穴の縁を握りしめている。
その二人を気遣いながら、オビトは答えた。
「手が届くなら、助けるって決めてるから」
火影へ語ったことと、同じだった。
夢とか、称号とか、その前の話だ。
「全部は無理でも、目の前にいるやつを放っておきたくない」
自来也は黙って聞いている。
オビトは、赤ん坊の顔を布で軽く拭いながら続けた。
「強いなら、人を助けろって言葉があって」
「手の届く範囲でいいから、救えるやつは救っとけって」
それは誰の言葉か、は言わない。
言えない。
でも、自分の中で芯になってるものを隠す気もなかった。
「気づくのが遅くて、助けられなかった」
村の惨状へ一瞬だけ視線が流れる。
「それでも、守れた命があるなら、ちゃんと手を伸ばしたい」
自来也は、返す言葉を失ったように黙った。
七歳の子どもが言うには、あまりにもまっすぐで、あまりにも重い。だが嘘ではないのだと、その声がよく分かった。理屈で飾った正しさじゃない。自分の中へ根づいている、生きる指針そのものなのだろう。
「……お前さんは」
自来也が低く呟く。
「何を背負っとるんじゃろうな」
オビトはそれに答えなかった。
答えられない、の方が正しいかもしれない。
背負っているものは多い。
前々世も、前世も、今世も、全部混ざっている。
でも今は、それを言葉にするより先に、この子たちを連れ出す方が大事だ。
オビトは地下穴へ右手を伸ばした。
「上がれるか」
女の子は、しばらくじっとその手を見ていた。
それから、小さく頷いて、その手を取った。
その瞬間だけ、オビトの表情はまたひどく柔らかくなった。
揺るがない。
何があっても、そこだけは変わらない。
自来也は、血塗れの家の中で、その少年の指針を見た気がした。
【〆栞】