一人で死ぬな
はたけ家の中は、静かすぎた。
人の住む家の静けさじゃない。
息を潜めたみたいな、終わる直前の静けさだった。
門を抜けた瞬間、それが分かった。嫌な確信だった。胸の奥が冷たくなる。遅いかもしれない、という考えが頭を掠めるより先に、身体が動く。
「サクモさん!」
返事はない。
戸を開ける。居間に人の気配はない。奥だ。まっすぐ、迷う暇もなく足を向ける。廊下を蹴る。襖を開けた、その先で――白が見えた。
はたけサクモが、刃を手にしていた。
躊躇の無い顔だった。
覚悟を決めた人間の、静かな顔。
その刹那、もう考えていなかった。
俺は床を蹴った。
「っ!」
振り下ろされるより早く、間へ飛び込む。
刃を掴んだ。
掌に、灼けるような痛みが走る。皮膚が裂け、血が一気に溢れる。けれど離さない。離したら終わる。刃先は止まった。あとほんの少しで届いていた位置で、ぎりぎり止めた。
サクモの目が見開かれる。
「オビト……!」
「っ、何してんだよ!」
息が上がる。
痛い。
でも、それどころじゃない。
俺は刃を握ったまま、睨み上げた。
「死ぬつもりだろ」
誤魔化しはさせない。
今ここで逸らしたら駄目だ。やわらかい言葉で逃がしたら、そのまま沈む。だから、最初から核心へ刃みたいに踏み込むしかなかった。
サクモの喉がわずかに動く。
「……」
言葉が出ないのが、もう答えだった。
俺はさらに力を込めて刃を引いた。掌から血が落ちる。床へ赤がぽたぽた落ちる。でも、ようやくその手から刃が離れる。奪い取るみたいにして畳の上へ弾き、俺はそのままサクモの前へ立った。
「カカシはどうなる」
部屋の空気が止まった。
その一言だけは、真っ直ぐに届いたのが分かった。
サクモの顔が、初めて苦しそうに歪む。
父として――その問いは、あまりにも重い。
俺はそこで一歩も引かなかった。
「任務失敗の責任は消えない」
それは、分かってる。
綺麗事で片づく話じゃない。失ったものは戻らない。里が失ったものも、隊が背負うことになるものも、無かったことにはならない。サクモが苦しんでいる理由だって、ちゃんと現実だ。
「里が失ったものも戻らない」
その現実ごと、俺は言う。
「でも」
息を吸う。
「仲間を助けた判断まで、間違いにするな」
サクモの瞳が揺れた。
そこだと思った。
責められているのは任務失敗だけじゃない。人を助けた判断ごと、否定されている。だからこの人は、自分の全部を間違いだったことにしようとしている。
でも、それは違う。
違うって、言わないと駄目だ。
「損失は取り戻せる」
声が、少し震えた。
「でも命は取り戻せない」
それは、俺が一番知っている。
死んだ後にどれだけ悔やんでも、戻らない。失ってからじゃ遅い。周りがどれだけ泣いても、どれだけ背負っても、死んだ本人は帰ってこない。
俺は掌の血を垂らしたまま、サクモを見た。
「サクモさんが今ここで死んだら、カカシは一生引きずる」
「任務のことも、噂のことも、父親の死も、全部まとめて背負う」
「そんなの駄目だろ」
サクモは顔を伏せた。
肩が、かすかに震えている。
でもまだ足りない気がした。
だから、俺はもう一歩踏み込む。
胸の奥にある言葉を、そのまま引っ張り出した。
「強いなら、人を助けろ」
倭助の言葉だった。
前世で聞いて、ずっと芯に残っている言葉。
「手の届く範囲でいい」
「救える奴は救っとけ」
「迷っても、感謝されなくても」
「とにかく助けてやれ」
言いながら、自分の中で何かが一本に繋がる。
虎杖の生き様。
倭助の言葉。
五条の背中。
前々世で手遅れだったもの。
前世で間に合わなかったもの。
今世で、まだ届くもの。
全部が一つになって、喉を通る。
「死ぬ時は大勢に囲まれて死ね」
そこまで言って、息を吐いた。
「……一人で死ぬな」
その一言だけは、部屋の中へ深く落ちた気がした。
静かだった。
静かすぎて、自分の荒い呼吸の音だけがやけに大きい。掌の痛みも、今さらになってじわじわ戻ってくる。でも動けない。目を逸らせない。
サクモは、しばらく何も言わなかった。
ただ、顔を覆うように片手を当てていた。その沈黙の長さが、逆にどれだけ届いたかを物語っていた。
やがて、ひどく掠れた声が落ちる。
「……参ったな」
それは、白い牙の声じゃなかった。
はたけサクモという、一人の男の、弱った声だった。
「そんなふうに言われるとは、思っていなかった」
「思わせたのはサクモさんだろ」
きつい返しになったが、止められなかった。
サクモは小さく、苦く笑う。
でも、その笑いは死ぬ前のものじゃない。苦しくて、情けなくて、それでもまだここにいる人間の笑いだった。
「オビトくん」
「うん」
「君は……本当に、まっすぐだね」
「そうでもない」
本当にまっすぐなら、もっと早く動いていたかもしれない。
もっと綺麗に助けられたかもしれない。
でも、今はそれを言う場じゃない。
俺は、ただもう一度だけ言った。
「生きろよ」
短く。
でも、はっきりと。
「格好悪くてもいい」
「辛くてもいい」
「責任が重くても、噂が消えなくても、それでも生きろ」
「カカシを置いて、一人で死ぬな」
サクモの肩が、今度ははっきり震えた。
長く押し殺していたものが、そこでようやく崩れたみたいだった。泣いたわけじゃない。声を上げたわけでもない。けれど、張りつめていた糸が切れたのは分かった。
しばらくして、サクモはゆっくり顔を上げた。
目元は赤い。
でも、その目はもう、さっきまでみたいに死へ向いていなかった。
「……ありがとう」
その一言を聞いた瞬間、全身の力が抜けそうになった。
間に合った。
たぶんじゃない。
ちゃんと間に合った。
俺はようやく息を吐いて、膝から崩れそうになるのを堪える。掌の傷が痛む。反転術式を使えばすぐ塞がる。でも、今はまだ、その痛みが残っている方がよかった。ちゃんと止めたんだって、身体が覚えてくれる気がしたから。
サクモは床へ落ちた刃を見て、それから俺の血のついた掌を見た。
「手……」
「平気」
「いや、平気ではないだろう」
そこへ突っ込む余裕が戻ってるなら大丈夫そうだな、と少しだけ思う。
俺は肩を竦めた。
「命に比べりゃ安い」
その返しに、サクモは今度こそ小さく笑った。
ひどく弱ってはいる。
傷ついてもいる。
でも、生きている人の笑いだった。
「カカシには」
サクモがぽつりと呟く。
「何と言えばいいかな」
その問いに、俺は少しだけ考えた。
「すぐ全部うまく言えなくてもいいと思う」
答えながら、自分でもそれが自然に出たことに少し驚く。
「でも、生きて帰ってきたら、ちゃんと家にいてやれ」
「たぶん、それが一番大事だ」
サクモは、静かに頷いた。
「……そうだね」
部屋の空気が、ほんの少しだけ変わっていた。
噂も、悪意も、失ったものも消えない。
でも、今ここで死なないと決まっただけで、世界の形は確かに変わった。
最初の改変。
その重みが、遅れて胸へ落ちてくる。
俺は掌へ目を落として、小さく息を吐いた。
やった。
やってしまった。
でも、これでよかった。
きっと。
「じゃあ」
俺はそっけなく言う。
「飯、食えよ」
サクモが目を瞬く。
「……いきなり現実的だね」
「現実だろ」
「死なないって決めたなら、まず食え」
「あと寝ろ」
「風呂も入れ」
そこまで言うと、サクモは本当に少しだけ困ったように笑った。
「はいはい」
その返事が、妙にありがたかった。
家を出た時、外の空気は冷えていた。
でも、さっきまでとは少し違う冷たさだった。刺すような不吉さじゃなくて、息を吸えば肺がちゃんと動くような冷たさ。
カカシはまだ任務先にいる。
帰ってきても、すぐに全部が良くなるわけじゃないだろう。
噂も消えない。里の悪意も、まだしばらくは残る。
でも、帰る家は残った。
それだけで、十分だと思えた。
俺は一度だけ空を見上げる。
最初の改変は、終わった。
でも、救済ってのはたぶん、ここから先の方が長い。
そう思いながら、それでも胸の奥には、確かな安堵があった。
人の住む家の静けさじゃない。
息を潜めたみたいな、終わる直前の静けさだった。
門を抜けた瞬間、それが分かった。嫌な確信だった。胸の奥が冷たくなる。遅いかもしれない、という考えが頭を掠めるより先に、身体が動く。
「サクモさん!」
返事はない。
戸を開ける。居間に人の気配はない。奥だ。まっすぐ、迷う暇もなく足を向ける。廊下を蹴る。襖を開けた、その先で――白が見えた。
はたけサクモが、刃を手にしていた。
躊躇の無い顔だった。
覚悟を決めた人間の、静かな顔。
その刹那、もう考えていなかった。
俺は床を蹴った。
「っ!」
振り下ろされるより早く、間へ飛び込む。
刃を掴んだ。
掌に、灼けるような痛みが走る。皮膚が裂け、血が一気に溢れる。けれど離さない。離したら終わる。刃先は止まった。あとほんの少しで届いていた位置で、ぎりぎり止めた。
サクモの目が見開かれる。
「オビト……!」
「っ、何してんだよ!」
息が上がる。
痛い。
でも、それどころじゃない。
俺は刃を握ったまま、睨み上げた。
「死ぬつもりだろ」
誤魔化しはさせない。
今ここで逸らしたら駄目だ。やわらかい言葉で逃がしたら、そのまま沈む。だから、最初から核心へ刃みたいに踏み込むしかなかった。
サクモの喉がわずかに動く。
「……」
言葉が出ないのが、もう答えだった。
俺はさらに力を込めて刃を引いた。掌から血が落ちる。床へ赤がぽたぽた落ちる。でも、ようやくその手から刃が離れる。奪い取るみたいにして畳の上へ弾き、俺はそのままサクモの前へ立った。
「カカシはどうなる」
部屋の空気が止まった。
その一言だけは、真っ直ぐに届いたのが分かった。
サクモの顔が、初めて苦しそうに歪む。
父として――その問いは、あまりにも重い。
俺はそこで一歩も引かなかった。
「任務失敗の責任は消えない」
それは、分かってる。
綺麗事で片づく話じゃない。失ったものは戻らない。里が失ったものも、隊が背負うことになるものも、無かったことにはならない。サクモが苦しんでいる理由だって、ちゃんと現実だ。
「里が失ったものも戻らない」
その現実ごと、俺は言う。
「でも」
息を吸う。
「仲間を助けた判断まで、間違いにするな」
サクモの瞳が揺れた。
そこだと思った。
責められているのは任務失敗だけじゃない。人を助けた判断ごと、否定されている。だからこの人は、自分の全部を間違いだったことにしようとしている。
でも、それは違う。
違うって、言わないと駄目だ。
「損失は取り戻せる」
声が、少し震えた。
「でも命は取り戻せない」
それは、俺が一番知っている。
死んだ後にどれだけ悔やんでも、戻らない。失ってからじゃ遅い。周りがどれだけ泣いても、どれだけ背負っても、死んだ本人は帰ってこない。
俺は掌の血を垂らしたまま、サクモを見た。
「サクモさんが今ここで死んだら、カカシは一生引きずる」
「任務のことも、噂のことも、父親の死も、全部まとめて背負う」
「そんなの駄目だろ」
サクモは顔を伏せた。
肩が、かすかに震えている。
でもまだ足りない気がした。
だから、俺はもう一歩踏み込む。
胸の奥にある言葉を、そのまま引っ張り出した。
「強いなら、人を助けろ」
倭助の言葉だった。
前世で聞いて、ずっと芯に残っている言葉。
「手の届く範囲でいい」
「救える奴は救っとけ」
「迷っても、感謝されなくても」
「とにかく助けてやれ」
言いながら、自分の中で何かが一本に繋がる。
虎杖の生き様。
倭助の言葉。
五条の背中。
前々世で手遅れだったもの。
前世で間に合わなかったもの。
今世で、まだ届くもの。
全部が一つになって、喉を通る。
「死ぬ時は大勢に囲まれて死ね」
そこまで言って、息を吐いた。
「……一人で死ぬな」
その一言だけは、部屋の中へ深く落ちた気がした。
静かだった。
静かすぎて、自分の荒い呼吸の音だけがやけに大きい。掌の痛みも、今さらになってじわじわ戻ってくる。でも動けない。目を逸らせない。
サクモは、しばらく何も言わなかった。
ただ、顔を覆うように片手を当てていた。その沈黙の長さが、逆にどれだけ届いたかを物語っていた。
やがて、ひどく掠れた声が落ちる。
「……参ったな」
それは、白い牙の声じゃなかった。
はたけサクモという、一人の男の、弱った声だった。
「そんなふうに言われるとは、思っていなかった」
「思わせたのはサクモさんだろ」
きつい返しになったが、止められなかった。
サクモは小さく、苦く笑う。
でも、その笑いは死ぬ前のものじゃない。苦しくて、情けなくて、それでもまだここにいる人間の笑いだった。
「オビトくん」
「うん」
「君は……本当に、まっすぐだね」
「そうでもない」
本当にまっすぐなら、もっと早く動いていたかもしれない。
もっと綺麗に助けられたかもしれない。
でも、今はそれを言う場じゃない。
俺は、ただもう一度だけ言った。
「生きろよ」
短く。
でも、はっきりと。
「格好悪くてもいい」
「辛くてもいい」
「責任が重くても、噂が消えなくても、それでも生きろ」
「カカシを置いて、一人で死ぬな」
サクモの肩が、今度ははっきり震えた。
長く押し殺していたものが、そこでようやく崩れたみたいだった。泣いたわけじゃない。声を上げたわけでもない。けれど、張りつめていた糸が切れたのは分かった。
しばらくして、サクモはゆっくり顔を上げた。
目元は赤い。
でも、その目はもう、さっきまでみたいに死へ向いていなかった。
「……ありがとう」
その一言を聞いた瞬間、全身の力が抜けそうになった。
間に合った。
たぶんじゃない。
ちゃんと間に合った。
俺はようやく息を吐いて、膝から崩れそうになるのを堪える。掌の傷が痛む。反転術式を使えばすぐ塞がる。でも、今はまだ、その痛みが残っている方がよかった。ちゃんと止めたんだって、身体が覚えてくれる気がしたから。
サクモは床へ落ちた刃を見て、それから俺の血のついた掌を見た。
「手……」
「平気」
「いや、平気ではないだろう」
そこへ突っ込む余裕が戻ってるなら大丈夫そうだな、と少しだけ思う。
俺は肩を竦めた。
「命に比べりゃ安い」
その返しに、サクモは今度こそ小さく笑った。
ひどく弱ってはいる。
傷ついてもいる。
でも、生きている人の笑いだった。
「カカシには」
サクモがぽつりと呟く。
「何と言えばいいかな」
その問いに、俺は少しだけ考えた。
「すぐ全部うまく言えなくてもいいと思う」
答えながら、自分でもそれが自然に出たことに少し驚く。
「でも、生きて帰ってきたら、ちゃんと家にいてやれ」
「たぶん、それが一番大事だ」
サクモは、静かに頷いた。
「……そうだね」
部屋の空気が、ほんの少しだけ変わっていた。
噂も、悪意も、失ったものも消えない。
でも、今ここで死なないと決まっただけで、世界の形は確かに変わった。
最初の改変。
その重みが、遅れて胸へ落ちてくる。
俺は掌へ目を落として、小さく息を吐いた。
やった。
やってしまった。
でも、これでよかった。
きっと。
「じゃあ」
俺はそっけなく言う。
「飯、食えよ」
サクモが目を瞬く。
「……いきなり現実的だね」
「現実だろ」
「死なないって決めたなら、まず食え」
「あと寝ろ」
「風呂も入れ」
そこまで言うと、サクモは本当に少しだけ困ったように笑った。
「はいはい」
その返事が、妙にありがたかった。
家を出た時、外の空気は冷えていた。
でも、さっきまでとは少し違う冷たさだった。刺すような不吉さじゃなくて、息を吸えば肺がちゃんと動くような冷たさ。
カカシはまだ任務先にいる。
帰ってきても、すぐに全部が良くなるわけじゃないだろう。
噂も消えない。里の悪意も、まだしばらくは残る。
でも、帰る家は残った。
それだけで、十分だと思えた。
俺は一度だけ空を見上げる。
最初の改変は、終わった。
でも、救済ってのはたぶん、ここから先の方が長い。
そう思いながら、それでも胸の奥には、確かな安堵があった。
【〆栞】