観察と見識
六道仙人は、長く長く、人の世を見てきた。
生まれ、育ち、争い、失い、それでも何かを遺そうともがく者たちを、数え切れぬほど見てきた。忍宗が形を変え、チャクラが術となり、願いが武へ、武が戦へ、戦がまた新たな怨みを呼ぶ。その流れの果てを、ただ遠くから見続けるしかない時間は、もはや長いという言葉ですら足りぬほどだった。
それでも、稀にいる。
見過ごせぬ者が。
理の外側に引っ掛かる者が。
うちはオビトという少年は、その最たるものだった。
最初に見つけた時、まだ赤ん坊だった。
小さく、脆く、泣き声も弱々しい、どこにでもいるような乳飲み子。うちはの家に生まれた、ただの子ども――そう見えるはずだった。
だが、見えた。
見えてしまった。
向こうからも、こちらが。
その時点で、まずおかしい。
六道仙人は、誰彼構わず視認される存在ではない。血を濃く継ぐとか、感覚が鋭いとか、そういう次元ではなく、もっと別の層で触れている者でなければ、そもそも“そこにいる”と気づきもしない。
なのに、その赤子は見た。
しかも偶然視界に入ったのではなく、きちんと認識し、見返してきた。
それが最初の違和だった。
一歳になれば、違和はさらに濃くなった。
成長速度が妙に早い。
身体そのものが異様というわけではない。むしろ表向きには、幼子として自然な範囲に収めようとしているようにすら見える。だが、行動の節々に基準のズレがあった。視線の置き方。物を見る順番。周囲の大人の動きを読む速さ。危険を避ける勘。何より、妙に賢い。
知っている顔だった。
自分が何かを知っていると知っている者の、目だった。
子どもがただ早熟なだけなら、ああはならない。理解しているだけでなく、理解を隠そうとする気配があった。しかも隠し方が、どこか稚拙だ。子どもとして自然に見せようとして、逆に不自然になる。無知を装うには、知りすぎていた。
そして、力があった。
チャクラだけではない。
そこにあるのは確かにチャクラの流れだ。うちはの血に連なる目の資質も感じる。だが、それだけでは説明のつかぬ、異なる質の“何か”が混ざっていた。
チャクラ体系では説明しきれぬ別種のもの。
六道仙人はそれを、知らない。
名も知らぬ。由来も知らぬ。どのような理に属するかも断言できぬ。ただ分かるのは、それが異物でありながら、無理やりねじ込まれた不純物ではないということだった。
その子の魂の奥深くへ、既に沈み、なじみ、根を張っている。
後から付いた異常ではない。
もはや、その子を構成する一部としてそこにある異質さ。
それが、厄介だった。
二歳になれば、赤い瞳が開いた。
写輪眼。
それ自体はうちはならばあり得る。戦乱の世であれば早熟も珍しくはない。だが、この子のそれは早すぎた。しかも、ただ開いたのではない。迷いの少ない、完成度の高い開き方をしていた。
二歳で、赤い瞳。
それだけでも異常だというのに、視線の静けさがなお悪い。
怯えも混乱も薄い。
自分の目に何が起きているか、完全ではなくとも理解しているような、そんな目をしていた。
そして三歳。
花が咲いた。
赤い瞳の中で、巴がほどけ、ねじれ、形を変え、万華鏡が現れた。
三歳で万華鏡。
六道仙人は、さすがに絶句した。
うちはの歴史を知っている。眼が何を糧に開くかも知っている。深い喪失、強い感情、魂のひずみ、重い痛み。そのどれを経ればそこへ至るかも知っている。
だからこそ、分かる。
三歳児が持っていていい瞳ではない。
あれは幼子の目ではなく、もっと長く、もっと重いものを見てきた者の目だ。
怖い、とさえ思った。
実際、口にも出た。
本人も鏡を見て、同じことを思っていたようだったが。
その奇妙な一致に少しだけ気が抜けたのも事実だが、それで異常が薄れるわけではない。むしろ、自分の異様さを客観視してなお平然としていること自体が、やはり普通ではなかった。
そして、三歳の少年は力を試し始めた。
六道仙人は見ていた。
血を操るような術。
いや、途中からは水だった。水桶の水、水たまり、空気中の湿り気まで掴み、流し、縛り、刃とし、弾けさせ、貫いた。血に似た理でありながら、血ではない媒体へ置き換え、何食わぬ顔で成立させてみせた。
見たことのない術だった。
水遁、と言い張るつもりなのだろう、と察しはついたが、あれは通常の水遁とは明らかに違う。成形も収束も速すぎる。粘度の変化、軌道の制御、貫通力の乗せ方、何もかもが異常に洗練されていた。
続いて、不可視の斬撃。
風の動きはある。風遁の範疇に見えなくもない。だが、見えない刃を最小限の所作で走らせ、必要なものだけを切り分けるその精度は、やはり尋常ではない。術の性質だけ見れば忍術へ寄せられている。だが成立の仕方が、どうにも違う。
高火力の火もそうだ。
火遁の形を取ってはいる。だが、あれは危うい。圧縮と解放の噛み合わせがあまりに異常で、一歩誤れば周囲ごと呑み込む災害になる。少年自身もその危うさは分かっているらしく、すぐに試行を止めたのは賢明だった。
拳もまた奇妙だった。
一打のあと、遅れてもう一つ衝撃が走る。肉体の運びと力の伝わり方がずれている。体術の延長に見せかけて、内部の理屈が一段多い。あれもまた、見たことのない組み立てだった。
そのうえ、時折、空間にわずかな歪みが生じる。
黒い閃光じみたものが、拳の一撃に沿って迸ることがある。常時ではない。本人も意図して抑えている節がある。だが出た時の歪みは、チャクラの打撃だけでは説明しづらい異質さを伴っていた。
さらに、怪我の修復。
己の手を切り、その傷を即座に戻す。
それだけでも十分常軌を逸しているというのに、他者へも干渉した。傷ついた鳥へ手をかざし、損なわれた部分を戻した。
医療忍術に近いようでいて、違う。
術式の展開がない。印もない。練り上げる過程も短すぎる。何より、自己修復と他者修復がほとんど同じ呼吸で成立していることが異常だった。
まだ見せていない力もあるだろう。
六道仙人はそう見ていた。
あの赤い万華鏡の奥には、まだ別の札がある。隠している。出しどころを見極めている。その慎重さもまた、子どもらしくない。
だが、驚くべきは力の多さだけではない。
そのほとんどすべてが、印を必要としないことだった。
忍の術は、印を結ぶことで己の内外をつなぎ、形を定め、術へ至る。熟達すれば省略もできるが、あれほど多種多様な現象を、あれほど自然に、印なしで立ち上げるのは常道ではない。
忍術ではない、と六道仙人は思う。
そう告げたこともある。
だが少年は、赤い目でじっと見返し、まるで「いいえ、忍術です」とでも言いたげな顔をした。
あれはずるい。
三歳児の顔で、ああいう頑固さを見せられると、妙に反論しづらい。
結局その時は、六道仙人の方が黙るしかなかった。
だからこそ思う。
うちはオビトという少年は、忍の世界に生きていながら、忍だけではない。
うちはの血を持つ。
写輪眼を持つ。
万華鏡を持つ。
チャクラを巡らせる。
そこまでは確かに、この世界の理の内側だ。
だが、同時にそれだけでは説明しきれぬ異物がある。
魂の中に、別種の理が沈んでいる。
その名は分からぬ。
どのような世界に連なるものかも分からぬ。
ただ、チャクラ体系の外側から来た“何か”が、この子の魂に混ざっていることだけは確かだった。
理解者にはなれぬ。
知識が足りぬからだ。
この異質さを、既存の言葉へ正確に当てはめることはできない。
だから六道仙人は、ただの観測者であるしかない。
異物を前にした、困惑する観測者。
それが一番正しい立場だった。
しかし、観測しているうちに、一つだけ見えてきたことがある。
少年は、力を誇示したいのではない。
隠そうとしている。
だが、前々世のように自分を閉ざすためではない。普通の子どもとして生きたいのだ。年相応に見られたい。浮かずにいたい。だからこそ調整しようとして、しかし調整の基準がずれているせいで、逆に“妙にできる子ども”として目立ちかねない。
あれは滑稽でもあり、哀れでもあり、少しだけ救いでもあった。
自らを異物だと知りながら、なお日常の内側へ収まろうとしている。
その足掻き方は、少なくとも世界を拒む者のものではない。
守ろうとしているのだろう、と六道仙人は思う。
まずは手の届く範囲を。
家を。
祖母を。
今、己の周囲にある小さなものを。
そういう向きで力を抱えているように見える。
それがいつまで崩れずに済むかは分からない。
うちはの瞳は、えてして痛みと共に深まる。
異物の力は、えてして破綻を招く。
この世界は、子どもを子どものまま生かしてはくれない。
だからこそ、危うい。
危ういが――見ていたい、とも思った。
長い時を越えてなお、初めて見るものだったからだ。
三歳の少年の奇跡。
そう呼ぶには、あまりにも不穏で、あまりにも異質で、あまりにも危うい。けれど、それでも奇跡という言葉を当てたくなるほど、うちはオビトという少年は常道の外にいた。
縁側の先で、その少年は額のゴーグルへ触れていた。
目を隠すための、小さな工夫。
隠しきれるとは思えぬ。
だが隠そうとする、その意志だけは本物だ。
六道仙人は静かに息を吐いた。
まったく、難儀な子よのう、と心の中で呟く。
理解はできぬ。
だが、見失うわけにもいかぬ。
あの少年はこの先、必ず何かを動かす。
壊すにせよ、繋ぐにせよ、あまりに異質な力と魂を持ちすぎている。
ならば、今しばらくは見よう。
観察し、困惑し、見極める。
それが、今の己にできる唯一のことだった。
遠くで、少年がふとこちらを見た。
見えている。
やはり、その目は届く。
赤い瞳の奥に、幼子らしからぬ静けさを宿したまま、うちはオビトは六道仙人を真っ直ぐに見返していた。
その目を受け止めながら、仙人はまた一つ、静かに確信する。
この子は、普通ではない。
そしてたぶん――普通であろうとして、また失敗する。
その未来だけは、やけにはっきり見えるのだった。
生まれ、育ち、争い、失い、それでも何かを遺そうともがく者たちを、数え切れぬほど見てきた。忍宗が形を変え、チャクラが術となり、願いが武へ、武が戦へ、戦がまた新たな怨みを呼ぶ。その流れの果てを、ただ遠くから見続けるしかない時間は、もはや長いという言葉ですら足りぬほどだった。
それでも、稀にいる。
見過ごせぬ者が。
理の外側に引っ掛かる者が。
うちはオビトという少年は、その最たるものだった。
最初に見つけた時、まだ赤ん坊だった。
小さく、脆く、泣き声も弱々しい、どこにでもいるような乳飲み子。うちはの家に生まれた、ただの子ども――そう見えるはずだった。
だが、見えた。
見えてしまった。
向こうからも、こちらが。
その時点で、まずおかしい。
六道仙人は、誰彼構わず視認される存在ではない。血を濃く継ぐとか、感覚が鋭いとか、そういう次元ではなく、もっと別の層で触れている者でなければ、そもそも“そこにいる”と気づきもしない。
なのに、その赤子は見た。
しかも偶然視界に入ったのではなく、きちんと認識し、見返してきた。
それが最初の違和だった。
一歳になれば、違和はさらに濃くなった。
成長速度が妙に早い。
身体そのものが異様というわけではない。むしろ表向きには、幼子として自然な範囲に収めようとしているようにすら見える。だが、行動の節々に基準のズレがあった。視線の置き方。物を見る順番。周囲の大人の動きを読む速さ。危険を避ける勘。何より、妙に賢い。
知っている顔だった。
自分が何かを知っていると知っている者の、目だった。
子どもがただ早熟なだけなら、ああはならない。理解しているだけでなく、理解を隠そうとする気配があった。しかも隠し方が、どこか稚拙だ。子どもとして自然に見せようとして、逆に不自然になる。無知を装うには、知りすぎていた。
そして、力があった。
チャクラだけではない。
そこにあるのは確かにチャクラの流れだ。うちはの血に連なる目の資質も感じる。だが、それだけでは説明のつかぬ、異なる質の“何か”が混ざっていた。
チャクラ体系では説明しきれぬ別種のもの。
六道仙人はそれを、知らない。
名も知らぬ。由来も知らぬ。どのような理に属するかも断言できぬ。ただ分かるのは、それが異物でありながら、無理やりねじ込まれた不純物ではないということだった。
その子の魂の奥深くへ、既に沈み、なじみ、根を張っている。
後から付いた異常ではない。
もはや、その子を構成する一部としてそこにある異質さ。
それが、厄介だった。
二歳になれば、赤い瞳が開いた。
写輪眼。
それ自体はうちはならばあり得る。戦乱の世であれば早熟も珍しくはない。だが、この子のそれは早すぎた。しかも、ただ開いたのではない。迷いの少ない、完成度の高い開き方をしていた。
二歳で、赤い瞳。
それだけでも異常だというのに、視線の静けさがなお悪い。
怯えも混乱も薄い。
自分の目に何が起きているか、完全ではなくとも理解しているような、そんな目をしていた。
そして三歳。
花が咲いた。
赤い瞳の中で、巴がほどけ、ねじれ、形を変え、万華鏡が現れた。
三歳で万華鏡。
六道仙人は、さすがに絶句した。
うちはの歴史を知っている。眼が何を糧に開くかも知っている。深い喪失、強い感情、魂のひずみ、重い痛み。そのどれを経ればそこへ至るかも知っている。
だからこそ、分かる。
三歳児が持っていていい瞳ではない。
あれは幼子の目ではなく、もっと長く、もっと重いものを見てきた者の目だ。
怖い、とさえ思った。
実際、口にも出た。
本人も鏡を見て、同じことを思っていたようだったが。
その奇妙な一致に少しだけ気が抜けたのも事実だが、それで異常が薄れるわけではない。むしろ、自分の異様さを客観視してなお平然としていること自体が、やはり普通ではなかった。
そして、三歳の少年は力を試し始めた。
六道仙人は見ていた。
血を操るような術。
いや、途中からは水だった。水桶の水、水たまり、空気中の湿り気まで掴み、流し、縛り、刃とし、弾けさせ、貫いた。血に似た理でありながら、血ではない媒体へ置き換え、何食わぬ顔で成立させてみせた。
見たことのない術だった。
水遁、と言い張るつもりなのだろう、と察しはついたが、あれは通常の水遁とは明らかに違う。成形も収束も速すぎる。粘度の変化、軌道の制御、貫通力の乗せ方、何もかもが異常に洗練されていた。
続いて、不可視の斬撃。
風の動きはある。風遁の範疇に見えなくもない。だが、見えない刃を最小限の所作で走らせ、必要なものだけを切り分けるその精度は、やはり尋常ではない。術の性質だけ見れば忍術へ寄せられている。だが成立の仕方が、どうにも違う。
高火力の火もそうだ。
火遁の形を取ってはいる。だが、あれは危うい。圧縮と解放の噛み合わせがあまりに異常で、一歩誤れば周囲ごと呑み込む災害になる。少年自身もその危うさは分かっているらしく、すぐに試行を止めたのは賢明だった。
拳もまた奇妙だった。
一打のあと、遅れてもう一つ衝撃が走る。肉体の運びと力の伝わり方がずれている。体術の延長に見せかけて、内部の理屈が一段多い。あれもまた、見たことのない組み立てだった。
そのうえ、時折、空間にわずかな歪みが生じる。
黒い閃光じみたものが、拳の一撃に沿って迸ることがある。常時ではない。本人も意図して抑えている節がある。だが出た時の歪みは、チャクラの打撃だけでは説明しづらい異質さを伴っていた。
さらに、怪我の修復。
己の手を切り、その傷を即座に戻す。
それだけでも十分常軌を逸しているというのに、他者へも干渉した。傷ついた鳥へ手をかざし、損なわれた部分を戻した。
医療忍術に近いようでいて、違う。
術式の展開がない。印もない。練り上げる過程も短すぎる。何より、自己修復と他者修復がほとんど同じ呼吸で成立していることが異常だった。
まだ見せていない力もあるだろう。
六道仙人はそう見ていた。
あの赤い万華鏡の奥には、まだ別の札がある。隠している。出しどころを見極めている。その慎重さもまた、子どもらしくない。
だが、驚くべきは力の多さだけではない。
そのほとんどすべてが、印を必要としないことだった。
忍の術は、印を結ぶことで己の内外をつなぎ、形を定め、術へ至る。熟達すれば省略もできるが、あれほど多種多様な現象を、あれほど自然に、印なしで立ち上げるのは常道ではない。
忍術ではない、と六道仙人は思う。
そう告げたこともある。
だが少年は、赤い目でじっと見返し、まるで「いいえ、忍術です」とでも言いたげな顔をした。
あれはずるい。
三歳児の顔で、ああいう頑固さを見せられると、妙に反論しづらい。
結局その時は、六道仙人の方が黙るしかなかった。
だからこそ思う。
うちはオビトという少年は、忍の世界に生きていながら、忍だけではない。
うちはの血を持つ。
写輪眼を持つ。
万華鏡を持つ。
チャクラを巡らせる。
そこまでは確かに、この世界の理の内側だ。
だが、同時にそれだけでは説明しきれぬ異物がある。
魂の中に、別種の理が沈んでいる。
その名は分からぬ。
どのような世界に連なるものかも分からぬ。
ただ、チャクラ体系の外側から来た“何か”が、この子の魂に混ざっていることだけは確かだった。
理解者にはなれぬ。
知識が足りぬからだ。
この異質さを、既存の言葉へ正確に当てはめることはできない。
だから六道仙人は、ただの観測者であるしかない。
異物を前にした、困惑する観測者。
それが一番正しい立場だった。
しかし、観測しているうちに、一つだけ見えてきたことがある。
少年は、力を誇示したいのではない。
隠そうとしている。
だが、前々世のように自分を閉ざすためではない。普通の子どもとして生きたいのだ。年相応に見られたい。浮かずにいたい。だからこそ調整しようとして、しかし調整の基準がずれているせいで、逆に“妙にできる子ども”として目立ちかねない。
あれは滑稽でもあり、哀れでもあり、少しだけ救いでもあった。
自らを異物だと知りながら、なお日常の内側へ収まろうとしている。
その足掻き方は、少なくとも世界を拒む者のものではない。
守ろうとしているのだろう、と六道仙人は思う。
まずは手の届く範囲を。
家を。
祖母を。
今、己の周囲にある小さなものを。
そういう向きで力を抱えているように見える。
それがいつまで崩れずに済むかは分からない。
うちはの瞳は、えてして痛みと共に深まる。
異物の力は、えてして破綻を招く。
この世界は、子どもを子どものまま生かしてはくれない。
だからこそ、危うい。
危ういが――見ていたい、とも思った。
長い時を越えてなお、初めて見るものだったからだ。
三歳の少年の奇跡。
そう呼ぶには、あまりにも不穏で、あまりにも異質で、あまりにも危うい。けれど、それでも奇跡という言葉を当てたくなるほど、うちはオビトという少年は常道の外にいた。
縁側の先で、その少年は額のゴーグルへ触れていた。
目を隠すための、小さな工夫。
隠しきれるとは思えぬ。
だが隠そうとする、その意志だけは本物だ。
六道仙人は静かに息を吐いた。
まったく、難儀な子よのう、と心の中で呟く。
理解はできぬ。
だが、見失うわけにもいかぬ。
あの少年はこの先、必ず何かを動かす。
壊すにせよ、繋ぐにせよ、あまりに異質な力と魂を持ちすぎている。
ならば、今しばらくは見よう。
観察し、困惑し、見極める。
それが、今の己にできる唯一のことだった。
遠くで、少年がふとこちらを見た。
見えている。
やはり、その目は届く。
赤い瞳の奥に、幼子らしからぬ静けさを宿したまま、うちはオビトは六道仙人を真っ直ぐに見返していた。
その目を受け止めながら、仙人はまた一つ、静かに確信する。
この子は、普通ではない。
そしてたぶん――普通であろうとして、また失敗する。
その未来だけは、やけにはっきり見えるのだった。
【〆栞】