六道仙人
その老人は、気づけばいる。
最初はただ、見えてしまうだけだった。
白い衣。杖。枯れ木みたいに細いくせに、どこか山そのものみたいな重さを纏った佇まい。声をかけられるわけでもなく、何かを教えられるわけでもなく、ただ遠くからこちらを見ていることが多かった。
観測者。
そんな言葉が一番近い。
理解者ではない。事情を知り尽くした導き手でもない。ただ、普通ではないものを前にして、何度も足を止めては見つめてくる、困惑した観測者。
それが、俺にとっての六道仙人だった。
四歳の春先、珍しく祖母が長く昼寝をしている日だった。
家の中は静かで、風の音だけが障子の隙間を擦っていた。俺は縁側に座って、膝を抱えるでもなく、ぼんやり庭先を見ていた。庭といっても広くはない。祖母が手入れしている草木と、洗い桶と、日向へ干された布と、そういう生活の気配があるだけだ。
平和だった。
だから逆に、気配が落ちた瞬間によく分かった。
「あ」
思わず、そう漏れた。
六道仙人がいた。
今日は最初から姿を隠す気もないらしい。縁側の先、庭と家の境目あたりへ立っている。いつも通り静かな顔で、妙に仙人らしくて、なのにこちらからすればすっかり見慣れた老人でもある。
目が合う。
老人は数拍、黙っていた。
何だ、と内心で少し構える。こういう沈黙のあと、ろくでもない質問が飛んでくる確率が高い。
案の定、来た。
「お主は、この世界で何を為す」
声音は低く、静かだった。
責めるでも、試すでもない。ただ、まっすぐに問う声だった。
俺は瞬きを一つした。
何を為す。
でかいな、おい。
世界とかそういう単位で聞くの、やめてもらっていいだろうか。こっちはまだ四歳児である。見た目だけじゃなく、今は実際できることも限られている。急にそういうスケール感で来られると、いろいろ飛ばしすぎだ。
だが六道仙人は続けた。
「お主の心にあるものを教えよ」
……何が知りたいんだ。
心にあるもの?
問い返したかったが、相手の顔を見てやめた。
ああ、この人は本当に知りたいんだな、と分かったからだ。力の正体ではなく、術の理屈でもなく、何を抱えてここに立っているのか、その芯を見たいのだろう。
何が、心にあるのか。
胸の奥が少しだけ沈む。
そんなもの、きれいに一つへまとまっているはずがない。
奥底には、今も沈んでいる。
罪の意識。
後悔。
懺悔。
あれだけ世界を壊そうとして、あれだけ人を巻き込んで、それでも最後に少し救われたからって、なかったことにはならない。リンの死で狂って、九尾襲撃を起こして、暁を動かして、第四次忍界大戦を引き起こして、無限月読へ世界を沈めようとした。あの時の自分がやったことは、何一つ軽くならない。
だから、沈んでいる。
底の方に、重く。
けれど同時に、そこから掬い上げられた心もある。
そのことを、俺は知っている。
虎杖悠仁。
あいつの顔が浮かんだ。
あの、真っ直ぐで、どうしようもなく放っておけなくて、何度へし折られても立ち上がる目。迷って、苦しんで、それでも最後に手を伸ばすやつ。
「自分が死ぬ時のことは分からんけど 生き様で後悔はしたくない」
そう言った時の声が、胸のどこかへ今も残っている。
「証明しろ 俺は 呪術師だ」
あの叫びも。
「俺は部品だ 術師が呪いを祓い続けるための 部品」
それすら言い切った痛みも。
俺は、あそこまで自分を削る生き方を、そのまま真似したいわけじゃない。だが、根っこのところで掴まれたものがある。
生き様で後悔したくない。
それは、もう俺の中に根を張っている。
釘崎野薔薇の顔も浮かぶ。
あいつは、いつだって踏み込んでくるのが雑で、まっすぐで、遠慮がないくせに、妙なところで本質を外さなかった。
「不幸なら何しても許されんのかよ。じゃあ何か? 逆に恵まれた人間が後ろ指差されりゃ満足か?」
あの啖呵を聞いた時、胸の悪い逃げ道を一つ塞がれた気がした。
不幸だから仕方ない、なんて言い訳で人を傷つけていいわけがない。
痛かった。
でも、必要だった。
伏黒恵の静かな目も思い出す。
「少しでも多くの善人が平等を享受できる様に 俺は不平等に人を助ける」
あいつらしい言い方だと思った。
理屈っぽくて、不器用で、でも芯はどうしようもなく優しい。全員を救えないと知った上で、それでも選んで助ける。その在り方は、きれいごとだけでは済まない現実の中で、ずいぶん真っ当だった。
そして、五条悟。
あの人の言葉は、軽く聞こえるくせに、妙に残る。
「若人から青春を取り上げるなんて 許されていないんだよ 何人たりともね」
そう言って前へ立った背中。
「大丈夫 僕 最強だから」
あの無茶苦茶な断言。
冗談みたいに言って、でも本気で背負って、本当に矢面へ立ち続けた人だった。
最強であることの責任。
強い者が前へ出る意味。
若い世代から奪わせないという意地。
あの人の背中から受け取ったものは、たぶん想像以上に大きい。
虎杖の真っ直ぐさ。
倭助の遺した言葉。
伏黒の不器用な選別。
野薔薇の現実感。
五条先生の責任。
全部、混ざっている。
とりわけ、精神の根っこに根差したのは、やっぱり虎杖の方だった。
『オマエは強いから 人を助けろ』
あの言葉の重さを、俺は知っている。
『手の届く範囲でいい 救える奴は救っとけ 迷っても感謝されなくても とにかく助けてやれ』
それは、あまりにもシンプルで、だからこそ逃げられない。
不撓不屈の精神なんて、立派な名前をつけなくてもいい。
ただ、折れても立つ。
間違えても、まだ手を伸ばす。
生き様に後悔したくねぇんだ。
その思いだけは、今も胸の中心にある。
だから俺は、助ける。
手の届く範囲で、救える奴は救う。
それがまず一つ。
それから、夢。
夢は――火影になること。
その言葉を胸の内へ浮かべた瞬間、少しだけ喉が詰まるような感覚があった。
前々世では憧れだった。
無邪気で、真っ直ぐで、何も知らない頃の夢だった。
でも今は違う。
五条悟の指針を知ってしまった今、火影はただ上に立つことじゃない。前へ出ることだ。背負うことだ。壊れたものを引き受けることだ。若いやつらから奪わせないことだ。次の世代へ、ちゃんと繋ぐことだ。
木の葉を、家として守ること。
帰る場所を、失わせないこと。
俺のうちはは、裏葉に満ちたうちはだ。
そんな言葉が、ふと心の底から浮かんだ。
表から外れたもの。
こぼれ落ちたもの。
それでも、確かに同じ根から生まれたもの。
前世で知った“裏葉”のぬくもりは、今も消えていない。そして今世で暮らしているこの家もまた、一族の中心から少し外れた、息のしやすい家だ。
俺は、そういうものを知っている。
外れたものを、なかったことにしない家。
落ちた葉を、それでも葉だと認めるぬくもり。
だからたぶん、俺が火影になるなら、そういうものごと守りたいのだと思う。
静かに息を吐く。
六道仙人は黙って聞いていた。
いや、俺は一言も喋っていない。実際には、庭先を見たまま、少し長く黙っていただけだ。けれどこの老人は、たぶん言葉そのものより、その沈黙の中に浮くものを見ている。
それでも、全部が全部伝わるわけではないだろう。
だから俺は、四歳児なりの言葉を探した。
少し考えて、ゆっくり口を開く。
「……たすける」
幼い声だった。
でも、震えはなかった。
六道仙人の眉が、わずかに動く。
「ての、とどく……とこ、から」
うまく回らない舌で、それでも続ける。
「すくえる、やつ……すくう」
言い終えると、妙に静かになった。
風の音がした。
庭の草が、わずかに揺れた。
六道仙人はしばらく何も言わなかった。こちらを見つめるその目には、いつもの困惑とは違う色が混じっていた。驚き、とまではいかない。もっと静かな、何かを受け止める時の顔だ。
やがて老人は、低く息を吐いた。
「そうか」
短い一言だった。
だが、それで十分だった。
老人は少しだけ目を細める。
「重いものを抱えておるな」
図星すぎて、ちょっと困る。
いやまあ、そりゃそうだろう。二つ前と一つ前の人生をまるごと抱えている時点で軽くはない。けれど、同情されたいわけじゃない。背負ってるから何だ、で終わる話でもない。
俺が黙っていると、六道仙人はさらに続けた。
「それでも、お主はまだ手を伸ばすと言うか」
その声には、ほんの僅かに感心のようなものが混ざっていた。
俺は小さく肩を竦めた。
だって、そうしないと今度こそ後悔する。
そう顔で言ったつもりだったが、どこまで伝わったかは分からない。
それでも、六道仙人はもう一度息を吐いて、静かな顔へ戻った。
そして――
「忍者学校へ入る頃には、わしは一度退こう」
いつものように静かな顔で、そう言った。
俺は目を瞬く。
退く?
六道仙人は庭先へ視線を流したまま、ゆっくり続けた。
「これから先は、お主自身で進む時じゃ。……もっとも」
そこでわずかに目を細める。
「その歩み、見届けることはやめぬがな」
何だそれ。
退くのか、見届けるのか、どっちだ。
いや、言いたいことは分かる。今みたいにこうして頻繁に姿を見せることはしない、ということだろう。節目までの観測者であって、その先は前へ出すぎない。だが、完全に目を離すつもりもない。
この老人らしいと言えば、らしかった。
少し距離を取って、でも見失わない。
そういう立ち位置なのだろう。
俺はしばらくその言葉を噛みしめてから、小さく頷いた。
それでいい、と思った。
この人がずっと隣にいるのは、それはそれで困る。いろいろ困る。フガクの横に並ばれた時のシュールさを思い出しても、たぶん適度な距離感の方が平和だ。
だが、完全にいなくなると言われたら、それはそれで少し妙な気分になっただろう。
見届けることはやめぬ。
その言葉は、たぶん思っていたよりあたたかかった。
六道仙人はもう何も言わなかった。
気配が少しずつ薄れていく。
最後にもう一度だけこちらを見て、老人は静かに消えた。
庭先には風だけが残る。
俺はしばらくそこを見つめていたが、やがて膝へ顎を乗せるようにして、小さく息を吐いた。
何かを誓った気分でもない。
劇的に変わったわけでもない。
ただ、胸の中にあるものを、一度ちゃんと確かめた気がした。
罪もある。
後悔もある。
消えないものもある。
それでも、助ける。
手の届く範囲で、救える奴は救う。
そして、いつか火影になる。
四歳児が縁側で抱えるには、だいぶ重い決意だ。
でもまあ、今さらか。
俺はゆっくり立ち上がった。
家の中から、祖母の起きる気配がする。そろそろ水でも汲んでこようか。そういう小さなことからだ。大きな夢も、結局は今この家で動くところから始まる。
そんなことを思いながら、俺は縁側を降りた。
六道仙人が退くまで、あと少し。
その間に、俺は俺の足で歩く準備をしなければならない。
まあ、たぶん。
もうだいぶ、始まっているんだけどな。
最初はただ、見えてしまうだけだった。
白い衣。杖。枯れ木みたいに細いくせに、どこか山そのものみたいな重さを纏った佇まい。声をかけられるわけでもなく、何かを教えられるわけでもなく、ただ遠くからこちらを見ていることが多かった。
観測者。
そんな言葉が一番近い。
理解者ではない。事情を知り尽くした導き手でもない。ただ、普通ではないものを前にして、何度も足を止めては見つめてくる、困惑した観測者。
それが、俺にとっての六道仙人だった。
四歳の春先、珍しく祖母が長く昼寝をしている日だった。
家の中は静かで、風の音だけが障子の隙間を擦っていた。俺は縁側に座って、膝を抱えるでもなく、ぼんやり庭先を見ていた。庭といっても広くはない。祖母が手入れしている草木と、洗い桶と、日向へ干された布と、そういう生活の気配があるだけだ。
平和だった。
だから逆に、気配が落ちた瞬間によく分かった。
「あ」
思わず、そう漏れた。
六道仙人がいた。
今日は最初から姿を隠す気もないらしい。縁側の先、庭と家の境目あたりへ立っている。いつも通り静かな顔で、妙に仙人らしくて、なのにこちらからすればすっかり見慣れた老人でもある。
目が合う。
老人は数拍、黙っていた。
何だ、と内心で少し構える。こういう沈黙のあと、ろくでもない質問が飛んでくる確率が高い。
案の定、来た。
「お主は、この世界で何を為す」
声音は低く、静かだった。
責めるでも、試すでもない。ただ、まっすぐに問う声だった。
俺は瞬きを一つした。
何を為す。
でかいな、おい。
世界とかそういう単位で聞くの、やめてもらっていいだろうか。こっちはまだ四歳児である。見た目だけじゃなく、今は実際できることも限られている。急にそういうスケール感で来られると、いろいろ飛ばしすぎだ。
だが六道仙人は続けた。
「お主の心にあるものを教えよ」
……何が知りたいんだ。
心にあるもの?
問い返したかったが、相手の顔を見てやめた。
ああ、この人は本当に知りたいんだな、と分かったからだ。力の正体ではなく、術の理屈でもなく、何を抱えてここに立っているのか、その芯を見たいのだろう。
何が、心にあるのか。
胸の奥が少しだけ沈む。
そんなもの、きれいに一つへまとまっているはずがない。
奥底には、今も沈んでいる。
罪の意識。
後悔。
懺悔。
あれだけ世界を壊そうとして、あれだけ人を巻き込んで、それでも最後に少し救われたからって、なかったことにはならない。リンの死で狂って、九尾襲撃を起こして、暁を動かして、第四次忍界大戦を引き起こして、無限月読へ世界を沈めようとした。あの時の自分がやったことは、何一つ軽くならない。
だから、沈んでいる。
底の方に、重く。
けれど同時に、そこから掬い上げられた心もある。
そのことを、俺は知っている。
虎杖悠仁。
あいつの顔が浮かんだ。
あの、真っ直ぐで、どうしようもなく放っておけなくて、何度へし折られても立ち上がる目。迷って、苦しんで、それでも最後に手を伸ばすやつ。
「自分が死ぬ時のことは分からんけど 生き様で後悔はしたくない」
そう言った時の声が、胸のどこかへ今も残っている。
「証明しろ 俺は 呪術師だ」
あの叫びも。
「俺は部品だ 術師が呪いを祓い続けるための 部品」
それすら言い切った痛みも。
俺は、あそこまで自分を削る生き方を、そのまま真似したいわけじゃない。だが、根っこのところで掴まれたものがある。
生き様で後悔したくない。
それは、もう俺の中に根を張っている。
釘崎野薔薇の顔も浮かぶ。
あいつは、いつだって踏み込んでくるのが雑で、まっすぐで、遠慮がないくせに、妙なところで本質を外さなかった。
「不幸なら何しても許されんのかよ。じゃあ何か? 逆に恵まれた人間が後ろ指差されりゃ満足か?」
あの啖呵を聞いた時、胸の悪い逃げ道を一つ塞がれた気がした。
不幸だから仕方ない、なんて言い訳で人を傷つけていいわけがない。
痛かった。
でも、必要だった。
伏黒恵の静かな目も思い出す。
「少しでも多くの善人が平等を享受できる様に 俺は不平等に人を助ける」
あいつらしい言い方だと思った。
理屈っぽくて、不器用で、でも芯はどうしようもなく優しい。全員を救えないと知った上で、それでも選んで助ける。その在り方は、きれいごとだけでは済まない現実の中で、ずいぶん真っ当だった。
そして、五条悟。
あの人の言葉は、軽く聞こえるくせに、妙に残る。
「若人から青春を取り上げるなんて 許されていないんだよ 何人たりともね」
そう言って前へ立った背中。
「大丈夫 僕 最強だから」
あの無茶苦茶な断言。
冗談みたいに言って、でも本気で背負って、本当に矢面へ立ち続けた人だった。
最強であることの責任。
強い者が前へ出る意味。
若い世代から奪わせないという意地。
あの人の背中から受け取ったものは、たぶん想像以上に大きい。
虎杖の真っ直ぐさ。
倭助の遺した言葉。
伏黒の不器用な選別。
野薔薇の現実感。
五条先生の責任。
全部、混ざっている。
とりわけ、精神の根っこに根差したのは、やっぱり虎杖の方だった。
『オマエは強いから 人を助けろ』
あの言葉の重さを、俺は知っている。
『手の届く範囲でいい 救える奴は救っとけ 迷っても感謝されなくても とにかく助けてやれ』
それは、あまりにもシンプルで、だからこそ逃げられない。
不撓不屈の精神なんて、立派な名前をつけなくてもいい。
ただ、折れても立つ。
間違えても、まだ手を伸ばす。
生き様に後悔したくねぇんだ。
その思いだけは、今も胸の中心にある。
だから俺は、助ける。
手の届く範囲で、救える奴は救う。
それがまず一つ。
それから、夢。
夢は――火影になること。
その言葉を胸の内へ浮かべた瞬間、少しだけ喉が詰まるような感覚があった。
前々世では憧れだった。
無邪気で、真っ直ぐで、何も知らない頃の夢だった。
でも今は違う。
五条悟の指針を知ってしまった今、火影はただ上に立つことじゃない。前へ出ることだ。背負うことだ。壊れたものを引き受けることだ。若いやつらから奪わせないことだ。次の世代へ、ちゃんと繋ぐことだ。
木の葉を、家として守ること。
帰る場所を、失わせないこと。
俺のうちはは、裏葉に満ちたうちはだ。
そんな言葉が、ふと心の底から浮かんだ。
表から外れたもの。
こぼれ落ちたもの。
それでも、確かに同じ根から生まれたもの。
前世で知った“裏葉”のぬくもりは、今も消えていない。そして今世で暮らしているこの家もまた、一族の中心から少し外れた、息のしやすい家だ。
俺は、そういうものを知っている。
外れたものを、なかったことにしない家。
落ちた葉を、それでも葉だと認めるぬくもり。
だからたぶん、俺が火影になるなら、そういうものごと守りたいのだと思う。
静かに息を吐く。
六道仙人は黙って聞いていた。
いや、俺は一言も喋っていない。実際には、庭先を見たまま、少し長く黙っていただけだ。けれどこの老人は、たぶん言葉そのものより、その沈黙の中に浮くものを見ている。
それでも、全部が全部伝わるわけではないだろう。
だから俺は、四歳児なりの言葉を探した。
少し考えて、ゆっくり口を開く。
「……たすける」
幼い声だった。
でも、震えはなかった。
六道仙人の眉が、わずかに動く。
「ての、とどく……とこ、から」
うまく回らない舌で、それでも続ける。
「すくえる、やつ……すくう」
言い終えると、妙に静かになった。
風の音がした。
庭の草が、わずかに揺れた。
六道仙人はしばらく何も言わなかった。こちらを見つめるその目には、いつもの困惑とは違う色が混じっていた。驚き、とまではいかない。もっと静かな、何かを受け止める時の顔だ。
やがて老人は、低く息を吐いた。
「そうか」
短い一言だった。
だが、それで十分だった。
老人は少しだけ目を細める。
「重いものを抱えておるな」
図星すぎて、ちょっと困る。
いやまあ、そりゃそうだろう。二つ前と一つ前の人生をまるごと抱えている時点で軽くはない。けれど、同情されたいわけじゃない。背負ってるから何だ、で終わる話でもない。
俺が黙っていると、六道仙人はさらに続けた。
「それでも、お主はまだ手を伸ばすと言うか」
その声には、ほんの僅かに感心のようなものが混ざっていた。
俺は小さく肩を竦めた。
だって、そうしないと今度こそ後悔する。
そう顔で言ったつもりだったが、どこまで伝わったかは分からない。
それでも、六道仙人はもう一度息を吐いて、静かな顔へ戻った。
そして――
「忍者学校へ入る頃には、わしは一度退こう」
いつものように静かな顔で、そう言った。
俺は目を瞬く。
退く?
六道仙人は庭先へ視線を流したまま、ゆっくり続けた。
「これから先は、お主自身で進む時じゃ。……もっとも」
そこでわずかに目を細める。
「その歩み、見届けることはやめぬがな」
何だそれ。
退くのか、見届けるのか、どっちだ。
いや、言いたいことは分かる。今みたいにこうして頻繁に姿を見せることはしない、ということだろう。節目までの観測者であって、その先は前へ出すぎない。だが、完全に目を離すつもりもない。
この老人らしいと言えば、らしかった。
少し距離を取って、でも見失わない。
そういう立ち位置なのだろう。
俺はしばらくその言葉を噛みしめてから、小さく頷いた。
それでいい、と思った。
この人がずっと隣にいるのは、それはそれで困る。いろいろ困る。フガクの横に並ばれた時のシュールさを思い出しても、たぶん適度な距離感の方が平和だ。
だが、完全にいなくなると言われたら、それはそれで少し妙な気分になっただろう。
見届けることはやめぬ。
その言葉は、たぶん思っていたよりあたたかかった。
六道仙人はもう何も言わなかった。
気配が少しずつ薄れていく。
最後にもう一度だけこちらを見て、老人は静かに消えた。
庭先には風だけが残る。
俺はしばらくそこを見つめていたが、やがて膝へ顎を乗せるようにして、小さく息を吐いた。
何かを誓った気分でもない。
劇的に変わったわけでもない。
ただ、胸の中にあるものを、一度ちゃんと確かめた気がした。
罪もある。
後悔もある。
消えないものもある。
それでも、助ける。
手の届く範囲で、救える奴は救う。
そして、いつか火影になる。
四歳児が縁側で抱えるには、だいぶ重い決意だ。
でもまあ、今さらか。
俺はゆっくり立ち上がった。
家の中から、祖母の起きる気配がする。そろそろ水でも汲んでこようか。そういう小さなことからだ。大きな夢も、結局は今この家で動くところから始まる。
そんなことを思いながら、俺は縁側を降りた。
六道仙人が退くまで、あと少し。
その間に、俺は俺の足で歩く準備をしなければならない。
まあ、たぶん。
もうだいぶ、始まっているんだけどな。
【〆栞】