異能の才

第二話「異能の才」

夜蛾正道の説明は、思ったよりも慎重だった。

裏葉家の居間には、先ほどまで夕方の光が差していた。けれど、話が始まる頃には窓の外が少しずつ青く沈み、綾乃が部屋の灯りを点けた。テーブルの上には、冷めた茶と、夜蛾が持参した書類と、場違いなほど可愛らしい紙袋が置かれている。

オビトはその紙袋を横目で見て、そっと向きを直した。後輩がくれたクッキーだ。どう考えても、呪いやら高専やらという話の隣に並べるには浮いている。けれど、今さら片付けるのも妙だった。

夜蛾は、その紙袋には触れずに書類を一枚広げた。

「まず、君が見ていた黒い靄や虫のようなものについてだが、こちらでは一般に“呪い”と呼ぶ」

オビトは無言で頷いた。

呪い。

言葉としては聞いたことがある。人を恨む気持ち。悪い願い。口にすれば縁起が悪いもの。だが、夜蛾の言い方はもっと具体的だった。あの黒いものたちは、ただの比喩ではなく、形を持って人に害を及ぼすものとして扱われているらしい。

「人の負の感情から生じる。普通の人間には見えないことが多いが、影響は受ける。弱いものなら体調不良や違和感で済むこともある。強いものになれば、人を殺す」

綾乃の手が膝の上で強く握られた。

宗一郎は黙っている。だが、その沈黙は穏やかではなかった。前回、禪院家と加茂家の名が出た時と同じ、奥歯を噛むような気配がある。

オビトはテーブルの木目を見下ろした。

やはり、危なかったのだ。

幼い頃、綾乃の背に伸びていた黒い靄。園庭で泣いている子へ寄っていった虫のようなもの。通学路の角に溜まっていた嫌な気配。名前も仕組みも分からなかったが、危険だと感じた判断は間違っていなかった。

夜蛾は続けた。

「それらを祓う者たちがいる。呪いに対処し、人を守る仕事だ。そのための力を持つ者を育てる場所が、高専になる」

「……学校なんですね」

「建前としてはな。実際には、学びながら任務にも出る。安全な場所とは言えない」

夜蛾は言葉を濁さなかった。

その点は、少し好感が持てた。大丈夫だ、安全だ、君のためだと甘い言葉ばかり並べる相手よりは信用できる。危険だと最初に言う相手なら、少なくともこちらを子ども扱いして何も見せないつもりではない。

ただ、宗一郎の眉間の皺は深くなった。

「任務に出るって、夜蛾さん。十五の子どもを?」

「段階は踏みます。今すぐ危険地帯に放り込むわけではありません」

「そういう話をしてるんじゃない」

低い声だった。オビトは父を見た。宗一郎は夜蛾を見据えている。その横顔は知らない大人のものだった。いつもの、息子の一挙一動で泣きそうになる父ではない。

「オビトは、今まで普通に暮らしてきたんです。少なくとも俺たちは、そうさせたかった」

「分かっています」

「なら――」

「だが、もう普通の外側から見つかっている」

夜蛾の声も低かった。

宗一郎は言葉を止める。綾乃がわずかに息を呑んだ。夜蛾は二人の反応を受け止めながら、視線をオビトへ戻した。

「君が力を使った痕跡は、あちこちに残っている。目立たないように動いていたつもりかもしれないが、見る者が見れば分かる。仙台のこの一帯だけ、呪いの溜まり方が不自然に薄い。小さなものが祓われ続けた跡もある」

「……そんなに分かるもんですか」

「通常なら、ここまで広範囲に継続して痕跡を残せる術師は限られる。まして君は、誰に教わったわけでもない」

オビトは少し黙った。

教わったわけではない。

それは、今世に限ればそうだ。けれど、自分には前世の経験がある。体内を流れる力を練り、流し、形にする感覚。戦う時の呼吸。危険を読む目。自分が赤ん坊の頃から黒いものに対抗できた理由の大半は、おそらくそこにある。

ただ、それをそのまま話すわけにはいかない。

前世などと言えば、余計な混乱を生む。夜蛾がどう受け取るかも分からない。宗一郎と綾乃に、これ以上一度に抱えさせるには重すぎる。

だからオビトは、言える範囲だけを選んだ。

「最初は、赤ん坊の頃です」

夜蛾の動きが止まった。

宗一郎と綾乃も、同時にオビトを見る。

「……赤ん坊?」

夜蛾の声が、ほんの少し掠れた。

「はい。母さんの背中に、黒いのが近づいてて。俺、動けなかったし、喋れなかったから、どうにかしようとして……血が針みたいに飛んで、それで潰しました」

沈黙が落ちた。

夜蛾は絶句していた。険しい顔のまま、言葉を失っている。宗一郎は口を開きかけて閉じ、また開き、結局何も言えない。綾乃は、顔色を変えてオビトの腕へ視線を落とした。

あの頃、小さな傷があった場所だ。

「……待て」

夜蛾が額に手を当てた。

「赤ん坊の頃から、呪いを祓っていたのか」

「たぶん、その呪いってやつなら」

「たぶんではない。今の話が本当なら、そうだ」

「見かけたやつ潰してただけです」

夜蛾は頭を抱えた。

本当に、両手でこめかみを押さえた。

「見かけたやつを潰してただけで、地域一帯がここまで澄むか」

「いや、でも、見かけたら潰すしかなくないですか。危ないなら」

「その判断を赤ん坊がするな」

「無理ですよ。母さんに近づいてたんで」

綾乃が小さく息を吸った。

「オビト」

その声に、オビトは少し肩を竦めた。

怒られると思った。隠していたことも、怪我をしていたことも、危ないものに一人で手を出していたことも、全部。だが綾乃は怒る前に泣きそうな顔をしていて、オビトは逆に何も言えなくなった。

宗一郎は、ぎゅっと拳を握っている。

「何で……いや、そうか。喋れなかったんだよな」

「まあ、赤ん坊だったし」

「赤ん坊が家族を守ろうとするな……!」

「それは、言われても」

「父さんは今、どういう顔をすればいいか分からない」

「俺も分かんねぇよ」

宗一郎は本当に困った顔をした。怒りたいのに、怒る相手が幼い頃の息子で、その理由が家族を守ろうとしたからだ。叱ればいいのか、抱きしめればいいのか、泣けばいいのか、全部混ざっている。

夜蛾は深く息を吐き、どうにか教師の顔へ戻った。

「……実際に見せられるか」

宗一郎と綾乃が同時に夜蛾を見た。

「ここでですか」

「安全な範囲で、だ。危険性と制御を確認したい。もちろん、無理にとは言わない」

オビトは少し考えた。

見せた方が早い。どうせ話すだけでは伝わらない。隠し続ける段階は、もう過ぎたのだろう。夜蛾が本当に高専の教師なら、自分が何をできるのか知らないまま進学の話を進める方が危ない。

ただ、居間で火を出すのはどう考えてもよくない。

「庭なら」

オビトが言うと、宗一郎が即座に反応した。

「庭!?」

「家の中で火はまずいだろ」

「火って言ったか、今」

「父さん、落ち着いて」

「落ち着ける情報量じゃない」

綾乃が静かに立ち上がった。

「庭に出ましょう。火を使うなら、バケツも用意するわ」

「母さんも落ち着いてるようで落ち着いてないよな」

「ええ、かなり動揺しているわ」

「素直」

そう言いながらも、綾乃は台所へ向かい、本当に水を張ったバケツを持ってきた。宗一郎は消火器の位置を確認し、庭の鉢植えを少し移動させた。夜蛾は黙ってその様子を見ている。たぶん、こういう形で能力確認が始まるとは思っていなかったのだろう。

裏葉家の庭は広くはない。だが、簡単な確認をするには十分だった。夕方の風が柵の隙間を抜け、花壇の葉を揺らしている。オビトは靴を履き替え、庭の真ん中に立った。

まずは血を見せるのが一番分かりやすい。

そう思ったが、綾乃の顔を見ると少し躊躇した。赤ん坊の頃の傷の話をした直後に血を出せば、母親の心臓に悪い。

「ほんの少しだけ」

「オビト」

「大丈夫。今は制御できる」

オビトは指先に意識を集めた。

身体の内側を巡る力を、血へ触れさせる。指の腹に小さな赤が滲み、それが丸い滴になった。滴は地面に落ちる前に細く伸び、針の形を取る。空中に浮いた赤い針が、夕方の光を受けて鈍く光った。

綾乃が息を呑む。

宗一郎は目を見開いた。

夜蛾は表情を変えない。だが、その視線は鋭くなっていた。針の形、浮遊の安定、オビトの呼吸、出血量を見ている。

「飛ばします」

オビトはそう告げ、庭の隅に置いた古い木片へ血針を放った。針は空気を裂き、木片に深く刺さる。すぐに形を崩し、ただの血の跡になった。

「……血を媒介にしているな」

夜蛾が低く言った。

「出血量は少ないが、使い方を誤れば身体への負担が出る。赤ん坊の頃からこれを?」

「最初はもっと雑でした。痛かったし、すぐ眠くなった。だから最近は、こっちの方が多いです」

オビトはバケツの水へ手を向けた。

水面が揺れる。少量の水が浮き上がり、細い糸のように伸びた。血を操る感覚を、そのまま水へ移す。水糸は庭の空気の中を滑り、木片の周囲を軽く縛った。次に形を変え、針になり、薄い膜になり、小さな刃になって木片の端を削る。

宗一郎が、ぽかんと口を開けた。

「オビト、水まで……?」

「血より目立たないし、楽なんだよ」

「目立たない……?」

「いや、今のは十分目立つぞ」

夜蛾の指摘はもっともだった。

オビトは少し気まずくなって、水をバケツへ戻した。水面がちゃぷんと揺れる。綾乃はバケツとオビトを交互に見て、ようやく小さく息を吐いた。

「いつから、そんなふうに?」

「幼稚園くらい。血だと怪我するし、母さんたちに心配かけるから、水で代わりにできないかなって」

「できないかなって思って、できたの?」

「何回か失敗したけど」

「何回かで済んだのか」

宗一郎が乾いた声で呟いた。夜蛾も似たような顔をしている。

次に火を見せる時は、さすがに少し離れた。綾乃がバケツを持ち、宗一郎が消火器に手を伸ばせる位置へ立つ。夜蛾は念のため、オビトの斜め横に移動した。

「本当に少しだけです」

「少しでいい」

夜蛾の声がやけに重い。

オビトは掌を上へ向けた。

身体の内側にある熱を、指先ではなく掌へ集める。印もない。口から吐くわけでもない。前世の火遁とは違う。けれど、火そのものへの抵抗はなかった。小さな火が、ぽっと掌の上に灯る。

宗一郎が固まった。

綾乃はバケツを握りしめた。

夜蛾の目が細くなる。

「熱量の制御は?」

「大きくしようと思えばできます。でも、燃え広がる場所では使わないです」

「当然だ」

「ですよね」

火を消す。掌には火傷もない。オビトはそのまま指先へ意識を移し、小さく雷を走らせた。ぱち、と静電気のような音が鳴る。もう一度、今度は少し強く。青白い火花が指の間で弾けた。

宗一郎が一歩近づきかけ、綾乃に止められた。

「危ないから」

「いや、でも」

「危ないから」

「はい」

父親は素直に止まった。

オビトは少し笑いそうになりながら、雷を消した。夜蛾はしばらく黙っていた。庭に沈黙が降りる。遠くで車の音がして、近所の家から夕飯の匂いが漂ってきた。

あまりに普通の住宅街の中で、見せたものだけが普通ではない。

夜蛾は、ようやく口を開いた。

「複数の性質を扱っている」

「らしいですね」

「らしい、では済まない。血、水、火、雷。どれも制御は未熟な部分があるが、独学でこの段階に至っている時点で異常だ」

「褒められてます?」

「危険性を指摘している」

「ですよね」

夜蛾は眉間を押さえた。

「君は自分の力の規模を理解していない。扱いを誤れば、君自身も周囲も傷つける。だが、才能そのものは疑いようがない。だからこそ、管理と教育が必要になる」

管理、という言葉に宗一郎の目が鋭くなる。

夜蛾はすぐに言い直した。

「縛りつけるという意味ではない。暴走しないための知識と訓練だ」

「それなら分かります」

オビトは素直に頷いた。

実際、危険なのは分かっている。前世で力の使い方を間違えた自覚はある。今世では同じことをするつもりはないが、知らない仕組みの力を独学で扱い続ける危うさも理解できる。

ただ、夜蛾が頭を抱えたくなる理由も少し分かった。

赤ん坊の頃から見かけた黒いものを潰し、幼稚園で水を使い、小学校で火と雷を試し、中学まで地域の気配を薄くしていた。口に出すと、確かにだいぶおかしい。

「でも、ほんとに見かけたやつ潰してただけです」

「それを今後、軽く言うな」

「はい」

「返事はいいんだな」

「言ってる意味は分かるんで」

「分かっていてやっているのが問題だ」

夜蛾の疲れた声に、宗一郎が少しだけ同情した顔をした。綾乃はまだ驚きが抜けていないようだったが、オビトが無事だと分かるにつれ、表情に別の感情が滲んできた。

心配と、安堵と、何かを知りたがる色。

そして、もう一つ。

オビトは言い辛くなった。

血、水、火、雷は見せた。だが、まだ一番話しにくいものが残っている。これを見せるべきかどうか、ずっと迷っていた。夜蛾の前で見せれば、高専側へ確実に情報が渡る。両親に見せれば、今まで隠していた秘密がさらに増える。

けれど、どうせ力を学ぶなら避けて通れない。

何より、これだけを隠して後から発覚する方がまずい。

「……あと、もう一つあります」

夜蛾の表情が固まった。

「まだあるのか」

「あります」

「何だ」

「目、です」

宗一郎と綾乃が同時にオビトの顔を見た。

オビトは一度、深く息を吸った。普通の黒い視界を、奥に沈める。身体の内側で、懐かしい感覚が目に集まった。赤が開く。世界の輪郭が変わる。夕方の風の流れ、夜蛾の呼吸、両親の微細な動きが、ひどく鮮明に見えた。

赤い眼に、巴が浮かぶ。

庭の空気が止まった。

夜蛾が絶句した。

宗一郎も綾乃も、言葉を失っている。

オビトは視線を逸らさずに立っていた。見慣れたはずの家族の顔が、写輪眼を通すと違って見える。驚き、動揺、警戒ではない何か。夜蛾の方には、確かに警戒と分析がある。だが、両親の反応は少し違った。

先に声を漏らしたのは、綾乃だった。

「綺麗……」

オビトは固まった。

次に宗一郎が、ほとんど息のように呟いた。

「かっこいい……」

オビトはさらに固まった。

夜蛾も固まった。

しばらく、誰も動かなかった。

風だけが庭を抜け、花壇の葉を揺らしている。オビトは赤い眼のまま、両親を見た。綾乃は目を潤ませている。怖がってはいない。むしろ、初めて見た息子の秘密を、宝物でも見るような顔で見つめている。

宗一郎に至っては、完全に感極まっていた。

「オビト」

「……はい」

「何で」

父の声が震える。

「何で、こんなにかっこいい目を、父さんにもっと早く見せてくれなかったんだ……!」

「そこ!?」

思わず声が裏返った。

綾乃も一歩近づく。

「お母さんも見たかったわ。こんなに綺麗な目、隠していたなんて」

「母さんまで!?」

「どうして教えてくれなかったの」

「いや、普通、怖がるとか心配するとか、そっちじゃないのかよ!」

「心配はしてる」

宗一郎が真顔で言った。

「でも、かっこいいものはかっこいい」

「開き直るな」

「赤いんだぞ。模様まである。オビトに似合ってる」

「似合ってるで済む話じゃねぇだろ!」

綾乃は頬に手を添え、しみじみと言った。

「黒い目も素敵だけれど、赤い目も綺麗ね」

「評価の方向がおかしい!」

オビトは完全に置いていかれていた。

写輪眼を見せたら、何を聞かれるのか。どう説明するのか。夜蛾にどう見られるのか。両親が怖がったらどうするのか。いろいろ考えていた。考えていたのに、返ってきたのは「綺麗」と「かっこいい」だった。

想定外にもほどがある。

夜蛾正道は、庭の端で本気で困惑していた。教師として赤い眼の異常性を確認し、警戒し、分析しなければならない。実際、その目には明らかな異質さがある。術式なのか、体質なのか、既存の分類に収まるものなのかも判断できない。

だというのに、両親が親馬鹿全開で詰め寄っている。

「……裏葉」

夜蛾が低く呼んだ。

オビトは助けを求めるように振り返った。

「はい」

「その眼で、何が見える」

ようやくまともな質問が来た。

「動きがよく見えます。人の呼吸とか、力の流れみたいなものも。黒いのも、普通の目より見やすい。相手がどう動くかも、少し読みやすいです」

夜蛾の表情が一段険しくなった。

「常時か」

「いえ。出したり戻したりできます」

「戻せるのか」

「はい」

オビトは意識して写輪眼を引っ込めた。赤が黒へ戻る。世界の情報量が少し落ち、夕方の庭がいつもの柔らかさへ戻った。

宗一郎が露骨に残念そうな顔をした。

「戻った……」

「父さん」

「もう少し見たい」

「だから反応がおかしいって」

「おかしくない。息子の目がかっこよかったら見たいだろ」

「一般論みたいに言うな」

綾乃も少し困ったように笑った。

「でも、本当に綺麗だったの。ねえ、また見せてくれる?」

「……必要な時なら」

「必要がなくても、少しだけ」

「母さん」

「だめ?」

だめ、と言い切れない自分が腹立たしい。

オビトは片手で顔を覆った。夜蛾はそれを見て、深く、長く息を吐いた。

「この家は……」

そこから先は言わなかった。

言わなかったが、だいたい顔に出ていた。突然の親馬鹿の暴走に巻き込まれた高専教師は、ただただ困惑している。

能力確認はそこで打ち切られた。

夜蛾は、今日見た内容を必要最小限で扱うと約束した。特に赤い眼については、外へ漏れれば確実に面倒が増えると判断したらしい。御三家への情報共有についても、少なくとも夜蛾個人が不用意に流すつもりはないと明言した。

宗一郎はそれでも何度も念を押した。

綾乃も静かに確認を重ねた。

オビトは、二人が自分の知らない言葉や立場を理解していることを感じ取りながら、まだ聞いていない話の多さを思った。

夜蛾が帰る頃には、外はすっかり暗くなっていた。

玄関で靴を履いた夜蛾は、オビトを一度振り返った。

「高専の話は、急いで決めなくていい。だが、時間があるわけでもない。御三家が直接動く前に、こちらとしても手を打つ必要がある」

「分かりました」

「そして、力の使用は控えろ。特に血と火だ」

「見かけたら?」

「まず大人へ連絡しろ」

「連絡先知らないです」

夜蛾は無言で名刺を差し出した。

オビトはそれを受け取った。連絡先の書かれた紙を見下ろし、少しだけ妙な気分になる。黒いものを見つけたら潰す。それが今までの当たり前だった。これからは、誰かに知らせるという選択肢が加わるらしい。

夜蛾は最後に、宗一郎と綾乃へ頭を下げた。

「また来ます」

「その時は、先に連絡をください」

宗一郎が言う。

「もちろんです」

扉が閉まり、夜蛾の気配が門の外へ遠ざかっていく。車の音が聞こえ、それもやがて消えた。

家の中に、静けさが戻った。

けれど、以前と同じ静けさではなかった。

居間に戻ると、宗一郎はソファに座り込んだ。綾乃は台所で茶を淹れ直し、今度は三人分の湯呑みをテーブルに置いた。夜蛾の分はない。家族だけの時間になったのだと、そのことではっきり分かった。

後輩から貰ったクッキーも、綾乃が皿に出した。こんな話の後に食べるものではない気もしたが、宗一郎が一枚手に取って真剣な顔で齧った。

「美味い」

「だろ」

「誰から?」

「今聞くのかよ」

「今なら聞いていい空気かと思って」

「違ぇよ」

綾乃が小さく笑った。緊張が少し和らぐ。それを待っていたように、宗一郎は湯呑みを両手で包んだ。

「オビト」

「うん」

「話さなきゃいけないことがある」

その声に、オビトは背筋を伸ばした。

宗一郎は、いつもの父親の顔で、けれど逃げない目をしていた。

「夜蛾さんの前でも言ったけど、父さんは昔、禪院家にいた」

綾乃が静かに続ける。

「私は、加茂家にいたの」

禪院家。加茂家。

さっき聞いたばかりの名が、今度は両親自身の口から語られる。オビトは黙って聞いた。

「どちらも、呪いに関わる古い家よ。力や血筋を重んじる家。良いところがまったくなかったとは言わないわ。でも、私たちには合わなかった」

「合わなかった、で済ませるにはだいぶ面倒な家だったけどな」

宗一郎が少し苦笑する。だが、その目は笑っていない。

「術式、才能、家の利益。そういうものが人より先に来る場所だった。俺はそれが嫌で、綾乃も嫌で、だから出た」

「駆け落ちみたいなものね」

綾乃が柔らかく言うと、宗一郎は少し照れたように目を逸らした。

「みたいなものっていうか、まあ、そうだな」

「父さんと母さんが?」

オビトは思わず聞き返した。

宗一郎は急に顔を赤くした。

「そこに食いつくか?」

「いや、だって」

「父さんと母さんは大恋愛だぞ」

「自分で言うな」

「事実だ」

綾乃は否定しなかった。ただ、少し恥ずかしそうに茶を飲んだ。その様子を見て、オビトは妙に力が抜けた。重い話のはずなのに、この二人だとどこか家の空気に戻ってしまう。

だが、内容は軽くない。

宗一郎は表情を引き締めた。

「俺たちは家を出て、裏葉家として暮らすことを選んだ。お前が生まれてからは、なおさら戻る気なんてなかった。お前は禪院の子でも加茂の子でもない。俺たちの子だ」

「でも、俺の血とか力が、その家に関係してるかもしれないんだろ」

「そうだな」

宗一郎は誤魔化さなかった。

綾乃がオビトを見つめる。

「あなたが血を操る力を持っているなら、私のいた家は強く反応すると思う」

血。

オビトは自分の指先を見た。

赤ん坊の頃、母を守ろうとして飛び出した針。幼い頃から黒いものを潰してきた力。今まで、自分の中で単に血を操るものとして扱ってきた。それが、母方の家と結びつく。

妙な感覚だった。

「母さんの家は、そういう力を?」

「ええ。血を扱う術を大切にしている家よ。だから、あなたの力を知れば、放っておかない人たちがいる」

「禪院家の方は?」

「身体の強さや、戦う力に興味を持つだろうな。あとは、男の子であることも」

宗一郎の声に、嫌悪が滲んだ。

オビトはそれを聞いて、少し目を伏せる。血筋、性別、才能、家への帰属。さっき夜蛾が口にした言葉の重さが、少しずつ輪郭を持つ。

「……面倒くせぇな」

「面倒くさいぞ」

宗一郎は即答した。

「しかも、かなり面倒くさい」

「そこは否定してほしかった」

「嘘はよくない」

綾乃が苦笑する。

「でも、怖がらせたいわけじゃないの。あなたが何を選んでも、私たちはあなたの味方よ。ただ、知らないままでは危ない。夜蛾さんの言うことにも、一理ある」

宗一郎は悔しそうに頷いた。

「高専が完全に信用できるとは言わない。あの人個人は、まあ、悪い人ではなさそうだったけどな。でも、少なくとも禪院や加茂に直接行くよりはマシだ」

「俺、行くって決めたわけじゃないけど」

「ああ。家族で考える」

宗一郎は、そこだけは強く言った。

「裏葉家としてな」

その言葉に、オビトの胸が温かくなる。

裏葉家として。

禪院でも、加茂でもなく。

前世の名と同じ音を持つ、今世の家の名。父と母が選び、自分を育ててくれた場所。そこからどう進むかを決める。

「……俺は、知りたい」

オビトは湯呑みを見つめながら言った。

「黒いのが何なのか。俺の力が何なのか。知らないまま使い続けるのは危ないって、夜蛾さんの言う通りだと思う。あと、父さんたちに何か来るなら、知らないままじゃ守れない」

宗一郎が何か言いかけた。

オビトはその前に続ける。

「でも、一人で勝手に決めない。ちゃんと相談する」

宗一郎は、少しだけ目を見開いた。

綾乃が静かに微笑む。

「ええ。そうして」

「進路希望調査、第一希望に高専って書くことになるのかな」

「まだ早い」

宗一郎が即座に言った。

「父さん、三十枚くらい質問事項を書く」

「多い」

「少なくしたら二十枚」

「多いって」

「息子の進路だぞ」

「担任泣くぞ」

「担任にも説明が必要だな」

本気で言っている顔だった。オビトは思わず笑った。綾乃も湯呑みを持ったまま肩を震わせている。

さっきまで、知らない世界の入り口に立たされているような気分だった。今も状況は変わっていない。むしろ、これからもっと面倒になる予感がある。

それでも、この家で話せるなら大丈夫だと思えた。

夜は深まっていく。

裏葉家の食卓には、冷めかけた茶とクッキーと、進路希望調査票とは別の書類が並んでいた。けれど、三人はそれを囲みながら、何度も言葉を重ねた。

怖いこと。

知らなかったこと。

隠していたこと。

これから決めること。

そのどれもが簡単ではなかったが、少なくとも一人で抱えるものではなくなった。

同じ頃、別の場所でも、裏葉オビトの名は紙の上に載っていた。

薄暗い和室で、禪院直毘人は報告書を眺めていた。そこには、仙台在住の少年の名と、父母の旧姓、確認された力の断片が記されている。血を扱う。禪院由来の身体素体が疑われる。高専の夜蛾正道が接触した可能性あり。

直毘人は盃を傾け、目だけで文字を追った。

「宗一郎の倅か」

面白がるような声だった。

力ずくで奪うには、もう少し見極めがいる。高専が先に動いたなら、こちらもただ待つわけにはいかない。禪院の血を引き、加茂の力を持つ可能性がある少年。しかも、家の外で育った。

扱いを間違えれば面倒だが、面倒なものほど酒の肴にはなる。

別の部屋では、禪院扇が報告を聞いて顔を険しくしていた。

「外で育った子に、何の価値がある」

そう吐き捨てながらも、その声には苛立ちがあった。価値がないなら、苛立つ必要もない。禪院の血を持つ男児が外にいて、しかも高専に拾われかねない。その事実が気に入らないのだ。

「戻すべきだろう。禪院の血を、外で好きにさせる理由はない」

一方、加茂家でも空気は割れていた。

赤血操術の可能性がある少年。その母がかつて家を出た女であること。父方に禪院の血を持つこと。高専が接触したこと。報告は短いが、火種としては十分だった。

「赤血を禪院に取られるわけにはいかない」

そう言う者がいた。

「下手に表へ出せば、余計な連想を招く」

別の者が渋い顔をする。

「本人の意思など後でよい。まずはこちらの管理下へ置くべきだ」

また別の声が、低く言った。

その中で、綾乃の名を聞いてわずかに目を伏せた者もいた。だが、その声は小さく、会議の場ではすぐに押し流された。

夜蛾正道が動いた。

その事実は、二つの古い家の中で、思った以上に重く受け止められていた。高専が保護する前に接触すべきだという意見が出る。いや、強引に動けば反発を招くという声もある。まずは様子を見るべきだとする者、書類を送るべきだとする者、宗一郎と綾乃へ直接連絡を取るべきだとする者。

裏葉オビト本人の知らないところで、名前だけが先に歩き始めていた。

翌朝、オビトはいつも通り制服に袖を通した。

昨夜の話が夢でないことは、机の上に置かれた夜蛾の名刺と、高専の書類が証明している。進路希望調査票も、その横にある。普通の紙と、普通ではない紙。どちらも自分の未来に関わるものだと思うと、妙に笑えてきた。

階下へ降りると、宗一郎がいつもより真面目な顔で朝食を並べていた。綾乃は弁当を包みながら、いつも通り「忘れ物はない?」と声をかける。

普通の朝だった。

少なくとも、家の中は。

「行ってきます」

玄関を出ると、風が頬を撫でた。

通学路は澄んでいる。けれど、その澄んだ空気の外側で、何かが動き始めている気がした。黒い靄ではない。虫のような嫌な気配でもない。もっと人間らしく、もっと面倒なもの。

オビトは鞄を肩に掛け直し、小さく息を吐いた。

「……何か来るな、これ」

その予感は、たぶん外れない。

道の先で、見慣れない黒い車が一台、ゆっくりと角を曲がった。


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