風、示す道
夜蛾正道が東京へ戻ったのは、裏葉家を訪ねた翌日の朝だった。
前夜のうちに簡易の報告は入れていた。だが、紙面や電話口だけで済ませていい内容ではない。仙台在住の中学三年生。父方と母方に御三家の血を持つ可能性があり、幼少期から独力で呪いを祓い続けていた少年。血、水、火、雷に似た複数の力を扱い、さらに赤い眼を有する。
そのうち、最後の一つだけは、報告書の扱いを分けた。
夜蛾は机に向かい、筆を止める。高専内に置かれた一室は、外の喧騒から切り離されたように静かだった。窓の外には木々が揺れ、まだ朝の冷えが残っている。
赤い眼。
巴の浮かぶ、異様な眼だった。
単なる視力強化ではない。動きを読む、呪力の流れを捉える、対象の起こりを見抜く。本人の口ぶりからして、まだ隠していることがあるとは断定できない。だが、本人が把握しきれていない可能性は高い。あの年齢で、あれほど複数の力を独学で扱っている時点で、本人の自己申告だけでは全容など測れなかった。
そして何より、御三家に漏らすには危うすぎる。
夜蛾は赤い眼についての詳細を、通常の報告書には書かなかった。確認者を限り、口頭で伝える分も最小限にする。東京高専側でも、扱う者は絞らなければならない。禪院家と加茂家がすでに裏葉オビトの存在を把握しているなら、情報は必ず欲しがる。父母の出自、血を扱う力、身体能力。それだけでも十分に火種だ。
そこへ、あの眼まで加わる。
「……面倒なことになるな」
呟きは、誰に向けたものでもなかった。
だが、放置はできない。本人は危険な気配を見かけたら潰す、という雑な判断で十五年近くやってきた。善性は疑わない。むしろ、あの少年は危険なほど人を放っておけない。問題は、その善性を本人が当たり前だと思っていることだ。
赤ん坊の頃から母親を守るために呪いを祓っていた、と平然と言う。
見かけたやつを潰していただけです、と本気で言う。
夜蛾は額を押さえた。
危険だ。才能も危険性もある。だが、それ以上に、あのまま御三家へ渡せば家の都合で磨り潰される可能性が高い。少なくとも、高専で保護し、教育し、本人と家族の意思を確認する時間を確保する必要がある。
夜蛾は書類をまとめ、封をした。
裏葉オビトは、御三家より先に高専で抱える。
それが、東京高専側の当面の方針になった。
その日、仙台の中学校では、進路希望調査票の提出期限が迫っていた。
朝のホームルームで担任が締切を告げた瞬間、教室のあちこちから小さな悲鳴が上がった。まだ書いていない、親に見せていない、第二希望が決まらない。そんな声が飛び交い、担任が黒板の前で苦笑している。
「今日中に出せる人は出してください。まだ相談が必要な人は、放課後に声をかけるように」
オビトは机の上に置いた進路希望調査票を見下ろした。
第一希望欄には、まだ鉛筆で薄く書いた文字がある。
東京。
その先に、高専と続けるかどうかで一度手が止まり、結局、仮の形で書いた。正式な学校名も、受験の仕組みも、まだ何も確定していない。夜蛾から受け取った書類にはいくつもの説明があったが、普通の高校受験とは違う流れになるらしい。
それでも、第一希望欄に東京と書いた瞬間、紙の上に道が現れたような気がした。
同時に、胸の奥が少し重くなった。
仙台を離れる。
裏葉家を離れる。
それがどういうことなのか、まだ実感はない。任務だの呪いだの御三家だのという言葉は重いが、それとは別に、普通に毎朝通っているこの学校や、通学路や、家の食卓から遠ざかるという事実がある。
「裏葉、書けた?」
隣の男子が覗き込もうとして、オビトは調査票を軽く押さえた。
「見るなって」
「えー、いいじゃん。お前どこ行くの?」
「まだ仮」
「仮で東京って見えた」
「見るなって言ったよな」
「マジで東京? え、何で?」
その声に、近くの数人が反応した。斜め前の女子も、驚いたようにこちらを見る。
「裏葉くん、東京行くの?」
「まだ決まったわけじゃない。ちょっと、候補に入っただけ」
「そうなんだ……」
彼女の声が少し沈んだ。オビトはその変化に気づき、どう返すべきか迷った。東京へ行くかもしれないと言っただけで、なぜそんな顔をされるのか。寂しいのだろうか。友人としてなら、確かに急に離れる話は寂しいかもしれない。
「まだ相談中だから。決まったら、ちゃんと言うよ」
「うん」
「進路、そっちは決まったのか?」
「私は、市内の高校にしようかなって。家から近いし」
「いいんじゃねぇかな。通いやすいの、大事だろ」
「……裏葉くんは、通いやすさとか関係なさそうだね」
「いや、関係あるだろ。朝弱いし」
「そうなの?」
「普通に眠い」
そう返すと、彼女は少し笑った。沈んだ空気が和らいだのを見て、オビトもほっとする。
だが、隣の男子はまた乾いた目をしていた。
「お前さあ」
「今度は何だよ」
「いや、いい。東京行ってもそのままでいろ」
「だから何で呆れられてんだ、俺」
「一生分かんなくていい」
まったく分からない。
昼休みには、後輩のクッキーの話がなぜか広がっていた。昨日の廊下で受け取っていたところを、何人かに見られていたらしい。購買へ向かう途中、同級生に肩を組まれた。
「裏葉、昨日の一年の子、どうだった?」
「どうって、クッキー美味かった」
「感想そこ?」
「他に何があるんだよ」
「手作りだぞ」
「だから美味かったって」
「お前、すごいな」
「菓子作れるの普通にすごいだろ」
「いや、そうだけど、そうじゃなくて」
話が噛み合わない。
購買の列に並んでいると、噂の後輩が友人と一緒に通りかかった。目が合った瞬間、彼女は分かりやすく固まる。オビトは片手を上げた。
「昨日の、ありがとな。美味かった」
「ほ、本当ですか!」
「うん。家族にも好評だった」
「家族……」
「あ、勝手に出して悪かったか? ちゃんと俺も食べたけど」
「い、いえ! 大丈夫です!」
彼女は顔を真っ赤にして何度も頷いた。隣の友人が口元を押さえて震えている。オビトはまた何か間違えたのかと少し不安になったが、後輩が嬉しそうだったので、とりあえずよしとした。
その様子を見ていた同級生が、ぼそりと言った。
「東京行く前に刺されないようにな」
「何に?」
「鈍感に」
「鈍感は刺すものじゃないだろ」
「そういうとこ」
日常は、いつも通り流れている。
進路希望調査票に東京と書いても、教室は教室のままだった。笑い声があり、昼休みのパンの匂いがあり、誰かの消しゴムが転がり、先生の足音が廊下を通る。黒板の端には提出物の締切が書かれ、窓からは春の風が入ってくる。
このまま、普通の高校へ進む道もある。
オビトは、何度もそう思った。
知らない世界へ行かず、夜蛾の名刺も書類も机の奥へしまい、今まで通り見えるものだけを潰していく。家から通える高校に進み、普通に授業を受け、普通に卒業する。それができるなら、宗一郎と綾乃も安心するかもしれない。
けれど、黒い靄は人を殺すこともある、と夜蛾は言った。
自分の力は、知らないまま使い続けるには危ういとも。
そして御三家が動く。
その言葉を思い出すと、普通の道は少しずつ霧の向こうへ遠ざかる。選びたいかどうかとは別に、もう見つかってしまった。自分だけならともかく、父と母を巻き込むなら、知らないふりはできない。
放課後、担任に呼ばれた。
「裏葉、進路希望のことで少し話せるか」
「はい」
職員室ではなく、空き教室だった。担任はオビトの調査票を手に、薄く書かれた第一希望欄を見ている。
「東京、と書いてあるな。具体的な学校名はまだか?」
「ちょっと特殊なところで、家族と相談中です。正式に書けるようになったら出します」
「そうか。急に東京というのは、何か理由があるのか?」
担任の声は穏やかだった。詮索ではなく、心配している。オビトは少し言葉に迷った。
呪いが見えるからです。御三家とかいう面倒な家に狙われそうです。東京の高専で保護されるかもしれません。
言えるわけがない。
「……自分にできることを、ちゃんと知れる場所かもしれなくて」
担任は目を瞬かせた。
「できること?」
「はい。今まで何となくやってきたことを、ちゃんと学べるかもしれない。まだ分かんないですけど」
「そうか」
担任はしばらくオビトを見ていた。
「裏葉は、昔から人の世話を焼く方だったな」
「そうですか?」
「そうだよ。転んだ子を起こす、委員の仕事を手伝う、揉め事の間に入る。本人は当たり前みたいな顔をしているが、なかなかできることじゃない」
「いや、目の前で困ってたら、普通に手伝うだろ」
担任は少し笑った。
「その普通を、どこで活かすかだな」
その言葉は、思ったより胸に残った。
自分の普通。放っておけないこと。見えたら潰すこと。困っているなら手を伸ばすこと。前世からずっと、良くも悪くも変わっていないもの。
担任は調査票を返した。
「家族とよく話しなさい。正式な学校名が分かったら、また教えてくれ」
「はい」
教室を出ると、廊下に夕方の光が差していた。
オビトは一人で帰路についた。
春の風は、少し強かった。校門を出ると、制服の裾が揺れ、前髪が額にかかる。いつもなら気にせず歩くところだが、今日は意識して風の動きを追った。
頬を撫でる。背中を押す。路地の奥へ入りかけた空気が、ふっと向きを変える。電線の下を抜け、植え込みの葉を揺らし、道路の端に溜まりかけた淀みを散らす。
オビトは足を止めた。
黒い虫のようなものが、空き地のフェンスの近くにいた。小さい。弱い。人へ害を出すほどではないが、放っておけばどこかへ寄っていくかもしれない。いつもなら水を飛ばして潰す。
だが、その黒い虫は、こちらを避けているのではなかった。
風を避けている。
虫は道路側へ出ようとして、風が吹くと身を縮めるように退いた。別の隙間から這い出そうとして、また空気の流れに押し戻される。まるで見えない柵に触れたかのように、風の通る場所を嫌がっている。
「……俺じゃなくて?」
オビトは小さく呟いた。
試しに、風の弱い方へ少し立ち位置をずらす。黒い虫は、オビトとの距離ではなく、風の流れを見て動きを変えた。やはり避けている。オビトの気配ではなく、空気そのものの動きを嫌がっている。
眉を寄せる。
そんなこと、今まで意識したことはなかった。
通学路が澄んでいるのは、見つけたやつを潰してきたからだと思っていた。実際、それはある。だが、それだけではないのかもしれない。風が淀みを散らしている。黒いものを寄せつけにくくしている。
偶然か。
そう考えようとした時、少し先で自転車のベルが鳴った。
オビトは反射的に顔を上げる。小学生の男の子が、片手でランドセルを押さえながら歩道の端を歩いている。その横を、スピードを出しすぎた自転車が抜けようとしていた。道路の段差。小学生の足元。ランドセルから落ちかけた給食袋。
このままだと、ぶつかる。
オビトが踏み出すより一瞬早く、風が強く吹いた。
給食袋の紐がふわりと浮き、小学生がそれに気を取られて半歩後ろへ下がる。同時に、自転車の前輪が落ち葉の溜まりを踏んでわずかに外へ流れた。ぶつかるはずだった距離が、紙一枚分ずれる。自転車の高校生が慌ててブレーキをかけ、数歩先で止まった。
「す、すみません!」
高校生が振り返って謝る。小学生は何が起きたか分からない顔で瞬きし、それから給食袋を抱え直した。
事故にはならなかった。
オビトは歩道の真ん中で立ち尽くしていた。
今のは、偶然か。
風が吹いた。紐が揺れた。子どもが半歩下がった。自転車の軌道がわずかにずれた。それだけだと言えば、それだけだ。
だが、あまりに噛み合いすぎていた。
「……お前、何なんだよ」
誰にともなく呟く。
風は答えない。ただ、頬を撫でるように吹いた。昔からそうだった。嫌なものが近づく前に空気が揺れる。迷った時、背中を押す。落ち込んだ時、窓から入る風が少しだけ優しい。
今まで、ただの偶然だと思っていた。
けれど、本当にそうなのか。
オビトはしばらくその場に立っていたが、やがて黒い虫がまだフェンスの陰で蠢いているのを見て、指先に水を集めた。空気中の湿り気を細い針に変え、風が押し込んだ隙間へ飛ばす。黒い虫は小さく震え、潰れて消えた。
風が、すうっと軽くなる。
「……後で考えるか」
そう言って歩き出したものの、頭の片隅ではずっと違和感が残っていた。
そしてその違和感を抱えたまま、オビトは学校帰りの道で、見慣れない男に声をかけられた。
住宅街へ入る少し手前、川沿いの道だった。人通りは少ないが、まったくないわけではない。男は黒い車のそばに立っていた。年齢は四十代ほど。身なりは整っているが、学校の先生でも近所の人でもない。立ち方が固く、視線がまっすぐすぎる。
「裏葉オビト様でいらっしゃいますね」
その言い方で、オビトの足が止まった。
様。
嫌な予感がした。
「……どちら様ですか」
「突然のお声がけ、失礼いたします。私は、加茂家より参りました」
加茂。
母が昔いた家の名。
オビトは表情を変えないようにして、相手との距離を測った。黒い靄の気配はない。だが、人間の面倒な気配がする。夜蛾の言っていた接触が、もう来たのだと分かった。
男は丁寧に頭を下げた。
「本日は、綾乃様のご子息であるあなたへ、ご挨拶とお話を――」
「母さんのことを、その名前で呼ぶんですね」
男の言葉が止まった。
オビトは静かに続けた。
「今は裏葉綾乃です。俺の母です」
声を荒げたわけではない。だが、男の目がわずかに揺れた。距離を測り直すような反応だった。
「失礼いたしました。裏葉綾乃様のご子息であるあなたへ、加茂家として一度お話を――」
「俺に直接?」
「はい。あなたの力について、正しく知っていただく必要がございます」
正しく。
その言葉に、オビトは違和感を覚えた。
夜蛾も力を知る必要があると言った。だが、夜蛾の言葉には危険と教育があった。この男の言葉には、どこか所有物の位置を正すような響きがある。
「父さんと母さんには?」
「もちろん、後ほど正式に」
「順番おかしくないですか」
男の口元が少し強張った。
オビトは鞄の肩紐を握り直す。周囲には数人の通行人がいる。車へ近づかない。相手の手元を見る。逃げ道は後ろと右。川沿いなので左は避ける。
風が、頬に当たった。
さっきより少し強い。
「すみません。俺、家に帰る途中なんで」
「長くは取りません。少し車内でお話を」
「嫌です」
即答した。
男が初めて明確に動揺した。丁寧な顔の奥で、想定が外れたらしい気配がある。オビトは少しだけ目を細めた。
「知らない人の車に乗るなって教わってるんで」
「私は加茂家の――」
「俺は加茂家を知りません」
短く切る。
「父さんと母さんを通してください。俺に話があるなら、まず家に連絡を。夜蛾さんにも話します」
夜蛾の名を出した瞬間、男の表情が変わった。
やはり、高専の接触は知られている。
男はすぐに取り繕ったが、遅い。オビトはその反応を見逃さなかった。
「……高専の方から、何か吹き込まれましたか」
「何かを吹き込んでるのは、今そっちに見えますけど」
声が少し低くなった。
男は口を閉じる。
風が二人の間を抜けた。川面が揺れ、遠くでカラスが鳴く。オビトはその風に促されるように、一歩下がった。距離を取る。相手に掴ませない位置。
「失礼します」
それだけ言って、オビトは歩き出した。
背中に視線が刺さる。追ってくる気配はない。だが、諦めたわけでもないだろう。角を曲がったところで、オビトは携帯を取り出した。まだ使い慣れているとは言い難いが、連絡くらいはできる。
まず宗一郎へ。
『加茂家って名乗る人に声かけられた。車に乗れって言われたけど断った。今から帰る』
送信して数秒で電話が鳴った。
「早」
画面には父の名前が出ている。オビトが通話を押すと、宗一郎の声が飛び込んできた。
「オビト!? 今どこだ、怪我は、相手は、車のナンバーは!?」
「落ち着けって。怪我はない。川沿いの道。もう離れた。車のナンバーは見た」
「よく見た! 偉い!」
「褒めるとこか?」
「偉いに決まってるだろ!」
背後で綾乃の声が聞こえた。
「あなた、スピーカーにして。オビト、今から迎えに行くわ。人通りの多い道を通って、コンビニに入って待っていなさい」
母の声は穏やかだったが、完全に戦闘態勢のそれだった。
「分かった」
「一人で対応しようとしないで」
「してない。断って離れた」
「ええ。それでいいわ」
その言葉に、オビトは少し息を吐いた。
電話を切る前に、宗一郎が低い声で言った。
「オビト。絶対に車には乗るな。相手が禪院でも加茂でも、俺たちを通さない話は聞かなくていい」
「うん」
「お前は裏葉家の子だ」
「分かってる」
通話を切った後、オビトは夜蛾にも連絡した。
名刺に書かれた番号へかけると、数コールで繋がった。夜蛾は短く名乗り、オビトの説明を黙って聞いた。車、場所、相手の名乗り、会話の内容。分かる範囲で伝えると、夜蛾の声が一段低くなった。
「接触が早いな」
「早いんですか」
「早い。想定よりもな」
「車には乗ってません」
「それでいい。今後も、相手がどこの家を名乗っても一人で応じるな。必ず家族かこちらを通せ」
「はい」
「今どこだ」
「コンビニに向かってます。母さんたちが迎えに来るって」
「そのまま人目のある場所にいろ。こちらも動く」
通話が切れる。
オビトは携帯をしまい、息を吐いた。
風がまた吹いた。今度は、背中を押すというより、急かすようだった。オビトは素直に歩調を速める。さっきまで澄んでいた通学路の空気が、少しだけ違って感じられた。
黒い靄ではない。
虫のような嫌なものでもない。
人の都合が、風の外側から近づいてくる。
その頃、東京では夜蛾が短く指示を出していた。
裏葉オビトへの直接接触があった。加茂家を名乗る使い。保護の手続きは前倒しにする。赤い眼の情報は引き続き伏せる。御三家側の出方を確認しつつ、裏葉家へ再訪する準備を進める。
机の上には、まだ書きかけの書類が残っている。
夜蛾はそれを見下ろし、眉間の皺を深くした。
もう、悠長に進路相談をしている段階ではない。
高専側の保護は、急がなければならなかった。
前夜のうちに簡易の報告は入れていた。だが、紙面や電話口だけで済ませていい内容ではない。仙台在住の中学三年生。父方と母方に御三家の血を持つ可能性があり、幼少期から独力で呪いを祓い続けていた少年。血、水、火、雷に似た複数の力を扱い、さらに赤い眼を有する。
そのうち、最後の一つだけは、報告書の扱いを分けた。
夜蛾は机に向かい、筆を止める。高専内に置かれた一室は、外の喧騒から切り離されたように静かだった。窓の外には木々が揺れ、まだ朝の冷えが残っている。
赤い眼。
巴の浮かぶ、異様な眼だった。
単なる視力強化ではない。動きを読む、呪力の流れを捉える、対象の起こりを見抜く。本人の口ぶりからして、まだ隠していることがあるとは断定できない。だが、本人が把握しきれていない可能性は高い。あの年齢で、あれほど複数の力を独学で扱っている時点で、本人の自己申告だけでは全容など測れなかった。
そして何より、御三家に漏らすには危うすぎる。
夜蛾は赤い眼についての詳細を、通常の報告書には書かなかった。確認者を限り、口頭で伝える分も最小限にする。東京高専側でも、扱う者は絞らなければならない。禪院家と加茂家がすでに裏葉オビトの存在を把握しているなら、情報は必ず欲しがる。父母の出自、血を扱う力、身体能力。それだけでも十分に火種だ。
そこへ、あの眼まで加わる。
「……面倒なことになるな」
呟きは、誰に向けたものでもなかった。
だが、放置はできない。本人は危険な気配を見かけたら潰す、という雑な判断で十五年近くやってきた。善性は疑わない。むしろ、あの少年は危険なほど人を放っておけない。問題は、その善性を本人が当たり前だと思っていることだ。
赤ん坊の頃から母親を守るために呪いを祓っていた、と平然と言う。
見かけたやつを潰していただけです、と本気で言う。
夜蛾は額を押さえた。
危険だ。才能も危険性もある。だが、それ以上に、あのまま御三家へ渡せば家の都合で磨り潰される可能性が高い。少なくとも、高専で保護し、教育し、本人と家族の意思を確認する時間を確保する必要がある。
夜蛾は書類をまとめ、封をした。
裏葉オビトは、御三家より先に高専で抱える。
それが、東京高専側の当面の方針になった。
その日、仙台の中学校では、進路希望調査票の提出期限が迫っていた。
朝のホームルームで担任が締切を告げた瞬間、教室のあちこちから小さな悲鳴が上がった。まだ書いていない、親に見せていない、第二希望が決まらない。そんな声が飛び交い、担任が黒板の前で苦笑している。
「今日中に出せる人は出してください。まだ相談が必要な人は、放課後に声をかけるように」
オビトは机の上に置いた進路希望調査票を見下ろした。
第一希望欄には、まだ鉛筆で薄く書いた文字がある。
東京。
その先に、高専と続けるかどうかで一度手が止まり、結局、仮の形で書いた。正式な学校名も、受験の仕組みも、まだ何も確定していない。夜蛾から受け取った書類にはいくつもの説明があったが、普通の高校受験とは違う流れになるらしい。
それでも、第一希望欄に東京と書いた瞬間、紙の上に道が現れたような気がした。
同時に、胸の奥が少し重くなった。
仙台を離れる。
裏葉家を離れる。
それがどういうことなのか、まだ実感はない。任務だの呪いだの御三家だのという言葉は重いが、それとは別に、普通に毎朝通っているこの学校や、通学路や、家の食卓から遠ざかるという事実がある。
「裏葉、書けた?」
隣の男子が覗き込もうとして、オビトは調査票を軽く押さえた。
「見るなって」
「えー、いいじゃん。お前どこ行くの?」
「まだ仮」
「仮で東京って見えた」
「見るなって言ったよな」
「マジで東京? え、何で?」
その声に、近くの数人が反応した。斜め前の女子も、驚いたようにこちらを見る。
「裏葉くん、東京行くの?」
「まだ決まったわけじゃない。ちょっと、候補に入っただけ」
「そうなんだ……」
彼女の声が少し沈んだ。オビトはその変化に気づき、どう返すべきか迷った。東京へ行くかもしれないと言っただけで、なぜそんな顔をされるのか。寂しいのだろうか。友人としてなら、確かに急に離れる話は寂しいかもしれない。
「まだ相談中だから。決まったら、ちゃんと言うよ」
「うん」
「進路、そっちは決まったのか?」
「私は、市内の高校にしようかなって。家から近いし」
「いいんじゃねぇかな。通いやすいの、大事だろ」
「……裏葉くんは、通いやすさとか関係なさそうだね」
「いや、関係あるだろ。朝弱いし」
「そうなの?」
「普通に眠い」
そう返すと、彼女は少し笑った。沈んだ空気が和らいだのを見て、オビトもほっとする。
だが、隣の男子はまた乾いた目をしていた。
「お前さあ」
「今度は何だよ」
「いや、いい。東京行ってもそのままでいろ」
「だから何で呆れられてんだ、俺」
「一生分かんなくていい」
まったく分からない。
昼休みには、後輩のクッキーの話がなぜか広がっていた。昨日の廊下で受け取っていたところを、何人かに見られていたらしい。購買へ向かう途中、同級生に肩を組まれた。
「裏葉、昨日の一年の子、どうだった?」
「どうって、クッキー美味かった」
「感想そこ?」
「他に何があるんだよ」
「手作りだぞ」
「だから美味かったって」
「お前、すごいな」
「菓子作れるの普通にすごいだろ」
「いや、そうだけど、そうじゃなくて」
話が噛み合わない。
購買の列に並んでいると、噂の後輩が友人と一緒に通りかかった。目が合った瞬間、彼女は分かりやすく固まる。オビトは片手を上げた。
「昨日の、ありがとな。美味かった」
「ほ、本当ですか!」
「うん。家族にも好評だった」
「家族……」
「あ、勝手に出して悪かったか? ちゃんと俺も食べたけど」
「い、いえ! 大丈夫です!」
彼女は顔を真っ赤にして何度も頷いた。隣の友人が口元を押さえて震えている。オビトはまた何か間違えたのかと少し不安になったが、後輩が嬉しそうだったので、とりあえずよしとした。
その様子を見ていた同級生が、ぼそりと言った。
「東京行く前に刺されないようにな」
「何に?」
「鈍感に」
「鈍感は刺すものじゃないだろ」
「そういうとこ」
日常は、いつも通り流れている。
進路希望調査票に東京と書いても、教室は教室のままだった。笑い声があり、昼休みのパンの匂いがあり、誰かの消しゴムが転がり、先生の足音が廊下を通る。黒板の端には提出物の締切が書かれ、窓からは春の風が入ってくる。
このまま、普通の高校へ進む道もある。
オビトは、何度もそう思った。
知らない世界へ行かず、夜蛾の名刺も書類も机の奥へしまい、今まで通り見えるものだけを潰していく。家から通える高校に進み、普通に授業を受け、普通に卒業する。それができるなら、宗一郎と綾乃も安心するかもしれない。
けれど、黒い靄は人を殺すこともある、と夜蛾は言った。
自分の力は、知らないまま使い続けるには危ういとも。
そして御三家が動く。
その言葉を思い出すと、普通の道は少しずつ霧の向こうへ遠ざかる。選びたいかどうかとは別に、もう見つかってしまった。自分だけならともかく、父と母を巻き込むなら、知らないふりはできない。
放課後、担任に呼ばれた。
「裏葉、進路希望のことで少し話せるか」
「はい」
職員室ではなく、空き教室だった。担任はオビトの調査票を手に、薄く書かれた第一希望欄を見ている。
「東京、と書いてあるな。具体的な学校名はまだか?」
「ちょっと特殊なところで、家族と相談中です。正式に書けるようになったら出します」
「そうか。急に東京というのは、何か理由があるのか?」
担任の声は穏やかだった。詮索ではなく、心配している。オビトは少し言葉に迷った。
呪いが見えるからです。御三家とかいう面倒な家に狙われそうです。東京の高専で保護されるかもしれません。
言えるわけがない。
「……自分にできることを、ちゃんと知れる場所かもしれなくて」
担任は目を瞬かせた。
「できること?」
「はい。今まで何となくやってきたことを、ちゃんと学べるかもしれない。まだ分かんないですけど」
「そうか」
担任はしばらくオビトを見ていた。
「裏葉は、昔から人の世話を焼く方だったな」
「そうですか?」
「そうだよ。転んだ子を起こす、委員の仕事を手伝う、揉め事の間に入る。本人は当たり前みたいな顔をしているが、なかなかできることじゃない」
「いや、目の前で困ってたら、普通に手伝うだろ」
担任は少し笑った。
「その普通を、どこで活かすかだな」
その言葉は、思ったより胸に残った。
自分の普通。放っておけないこと。見えたら潰すこと。困っているなら手を伸ばすこと。前世からずっと、良くも悪くも変わっていないもの。
担任は調査票を返した。
「家族とよく話しなさい。正式な学校名が分かったら、また教えてくれ」
「はい」
教室を出ると、廊下に夕方の光が差していた。
オビトは一人で帰路についた。
春の風は、少し強かった。校門を出ると、制服の裾が揺れ、前髪が額にかかる。いつもなら気にせず歩くところだが、今日は意識して風の動きを追った。
頬を撫でる。背中を押す。路地の奥へ入りかけた空気が、ふっと向きを変える。電線の下を抜け、植え込みの葉を揺らし、道路の端に溜まりかけた淀みを散らす。
オビトは足を止めた。
黒い虫のようなものが、空き地のフェンスの近くにいた。小さい。弱い。人へ害を出すほどではないが、放っておけばどこかへ寄っていくかもしれない。いつもなら水を飛ばして潰す。
だが、その黒い虫は、こちらを避けているのではなかった。
風を避けている。
虫は道路側へ出ようとして、風が吹くと身を縮めるように退いた。別の隙間から這い出そうとして、また空気の流れに押し戻される。まるで見えない柵に触れたかのように、風の通る場所を嫌がっている。
「……俺じゃなくて?」
オビトは小さく呟いた。
試しに、風の弱い方へ少し立ち位置をずらす。黒い虫は、オビトとの距離ではなく、風の流れを見て動きを変えた。やはり避けている。オビトの気配ではなく、空気そのものの動きを嫌がっている。
眉を寄せる。
そんなこと、今まで意識したことはなかった。
通学路が澄んでいるのは、見つけたやつを潰してきたからだと思っていた。実際、それはある。だが、それだけではないのかもしれない。風が淀みを散らしている。黒いものを寄せつけにくくしている。
偶然か。
そう考えようとした時、少し先で自転車のベルが鳴った。
オビトは反射的に顔を上げる。小学生の男の子が、片手でランドセルを押さえながら歩道の端を歩いている。その横を、スピードを出しすぎた自転車が抜けようとしていた。道路の段差。小学生の足元。ランドセルから落ちかけた給食袋。
このままだと、ぶつかる。
オビトが踏み出すより一瞬早く、風が強く吹いた。
給食袋の紐がふわりと浮き、小学生がそれに気を取られて半歩後ろへ下がる。同時に、自転車の前輪が落ち葉の溜まりを踏んでわずかに外へ流れた。ぶつかるはずだった距離が、紙一枚分ずれる。自転車の高校生が慌ててブレーキをかけ、数歩先で止まった。
「す、すみません!」
高校生が振り返って謝る。小学生は何が起きたか分からない顔で瞬きし、それから給食袋を抱え直した。
事故にはならなかった。
オビトは歩道の真ん中で立ち尽くしていた。
今のは、偶然か。
風が吹いた。紐が揺れた。子どもが半歩下がった。自転車の軌道がわずかにずれた。それだけだと言えば、それだけだ。
だが、あまりに噛み合いすぎていた。
「……お前、何なんだよ」
誰にともなく呟く。
風は答えない。ただ、頬を撫でるように吹いた。昔からそうだった。嫌なものが近づく前に空気が揺れる。迷った時、背中を押す。落ち込んだ時、窓から入る風が少しだけ優しい。
今まで、ただの偶然だと思っていた。
けれど、本当にそうなのか。
オビトはしばらくその場に立っていたが、やがて黒い虫がまだフェンスの陰で蠢いているのを見て、指先に水を集めた。空気中の湿り気を細い針に変え、風が押し込んだ隙間へ飛ばす。黒い虫は小さく震え、潰れて消えた。
風が、すうっと軽くなる。
「……後で考えるか」
そう言って歩き出したものの、頭の片隅ではずっと違和感が残っていた。
そしてその違和感を抱えたまま、オビトは学校帰りの道で、見慣れない男に声をかけられた。
住宅街へ入る少し手前、川沿いの道だった。人通りは少ないが、まったくないわけではない。男は黒い車のそばに立っていた。年齢は四十代ほど。身なりは整っているが、学校の先生でも近所の人でもない。立ち方が固く、視線がまっすぐすぎる。
「裏葉オビト様でいらっしゃいますね」
その言い方で、オビトの足が止まった。
様。
嫌な予感がした。
「……どちら様ですか」
「突然のお声がけ、失礼いたします。私は、加茂家より参りました」
加茂。
母が昔いた家の名。
オビトは表情を変えないようにして、相手との距離を測った。黒い靄の気配はない。だが、人間の面倒な気配がする。夜蛾の言っていた接触が、もう来たのだと分かった。
男は丁寧に頭を下げた。
「本日は、綾乃様のご子息であるあなたへ、ご挨拶とお話を――」
「母さんのことを、その名前で呼ぶんですね」
男の言葉が止まった。
オビトは静かに続けた。
「今は裏葉綾乃です。俺の母です」
声を荒げたわけではない。だが、男の目がわずかに揺れた。距離を測り直すような反応だった。
「失礼いたしました。裏葉綾乃様のご子息であるあなたへ、加茂家として一度お話を――」
「俺に直接?」
「はい。あなたの力について、正しく知っていただく必要がございます」
正しく。
その言葉に、オビトは違和感を覚えた。
夜蛾も力を知る必要があると言った。だが、夜蛾の言葉には危険と教育があった。この男の言葉には、どこか所有物の位置を正すような響きがある。
「父さんと母さんには?」
「もちろん、後ほど正式に」
「順番おかしくないですか」
男の口元が少し強張った。
オビトは鞄の肩紐を握り直す。周囲には数人の通行人がいる。車へ近づかない。相手の手元を見る。逃げ道は後ろと右。川沿いなので左は避ける。
風が、頬に当たった。
さっきより少し強い。
「すみません。俺、家に帰る途中なんで」
「長くは取りません。少し車内でお話を」
「嫌です」
即答した。
男が初めて明確に動揺した。丁寧な顔の奥で、想定が外れたらしい気配がある。オビトは少しだけ目を細めた。
「知らない人の車に乗るなって教わってるんで」
「私は加茂家の――」
「俺は加茂家を知りません」
短く切る。
「父さんと母さんを通してください。俺に話があるなら、まず家に連絡を。夜蛾さんにも話します」
夜蛾の名を出した瞬間、男の表情が変わった。
やはり、高専の接触は知られている。
男はすぐに取り繕ったが、遅い。オビトはその反応を見逃さなかった。
「……高専の方から、何か吹き込まれましたか」
「何かを吹き込んでるのは、今そっちに見えますけど」
声が少し低くなった。
男は口を閉じる。
風が二人の間を抜けた。川面が揺れ、遠くでカラスが鳴く。オビトはその風に促されるように、一歩下がった。距離を取る。相手に掴ませない位置。
「失礼します」
それだけ言って、オビトは歩き出した。
背中に視線が刺さる。追ってくる気配はない。だが、諦めたわけでもないだろう。角を曲がったところで、オビトは携帯を取り出した。まだ使い慣れているとは言い難いが、連絡くらいはできる。
まず宗一郎へ。
『加茂家って名乗る人に声かけられた。車に乗れって言われたけど断った。今から帰る』
送信して数秒で電話が鳴った。
「早」
画面には父の名前が出ている。オビトが通話を押すと、宗一郎の声が飛び込んできた。
「オビト!? 今どこだ、怪我は、相手は、車のナンバーは!?」
「落ち着けって。怪我はない。川沿いの道。もう離れた。車のナンバーは見た」
「よく見た! 偉い!」
「褒めるとこか?」
「偉いに決まってるだろ!」
背後で綾乃の声が聞こえた。
「あなた、スピーカーにして。オビト、今から迎えに行くわ。人通りの多い道を通って、コンビニに入って待っていなさい」
母の声は穏やかだったが、完全に戦闘態勢のそれだった。
「分かった」
「一人で対応しようとしないで」
「してない。断って離れた」
「ええ。それでいいわ」
その言葉に、オビトは少し息を吐いた。
電話を切る前に、宗一郎が低い声で言った。
「オビト。絶対に車には乗るな。相手が禪院でも加茂でも、俺たちを通さない話は聞かなくていい」
「うん」
「お前は裏葉家の子だ」
「分かってる」
通話を切った後、オビトは夜蛾にも連絡した。
名刺に書かれた番号へかけると、数コールで繋がった。夜蛾は短く名乗り、オビトの説明を黙って聞いた。車、場所、相手の名乗り、会話の内容。分かる範囲で伝えると、夜蛾の声が一段低くなった。
「接触が早いな」
「早いんですか」
「早い。想定よりもな」
「車には乗ってません」
「それでいい。今後も、相手がどこの家を名乗っても一人で応じるな。必ず家族かこちらを通せ」
「はい」
「今どこだ」
「コンビニに向かってます。母さんたちが迎えに来るって」
「そのまま人目のある場所にいろ。こちらも動く」
通話が切れる。
オビトは携帯をしまい、息を吐いた。
風がまた吹いた。今度は、背中を押すというより、急かすようだった。オビトは素直に歩調を速める。さっきまで澄んでいた通学路の空気が、少しだけ違って感じられた。
黒い靄ではない。
虫のような嫌なものでもない。
人の都合が、風の外側から近づいてくる。
その頃、東京では夜蛾が短く指示を出していた。
裏葉オビトへの直接接触があった。加茂家を名乗る使い。保護の手続きは前倒しにする。赤い眼の情報は引き続き伏せる。御三家側の出方を確認しつつ、裏葉家へ再訪する準備を進める。
机の上には、まだ書きかけの書類が残っている。
夜蛾はそれを見下ろし、眉間の皺を深くした。
もう、悠長に進路相談をしている段階ではない。
高専側の保護は、急がなければならなかった。
【〆栞】