旅に危険は付き物
じりじりと歩き始めて、体感で三十分程が経った。ゆっくりとした歩調ではそれほど距離は稼げていないけど、暗いこともあって既に私達が落ちてきた穴は全く見えなくなっている。
ここがどれだけ広いかは分からないけど、私達が落ちたところから一階にあったこの地下一階へ続く脇道はそんなに離れていない筈だから出口までは遠くないと思う。
場所さえ分かればそこまで走り抜けてしまいたいのだけど。
「……なんか物音がする」
「ポケモン……いや、人の足音か?」
「っ! 人がいるなら出口まで案内してもらえるかも!」
歩いている間は皆黙り込んでいたのに、なにかに気付いたらしいレンゲとアリマサの言葉にヒカリが興奮したように声をあげた。ヒカリの少女特有の甲高い響きが天井に跳ね返って、ぼわんと広がっていく。
ヒカリはハッと口元を手で押さえたけれど、時すでに遅し。にわかに空気がざわついて、さっき嫌という程聞いた羽ばたきが耳に届く。ズバットの翼の音。それも、複数だ。
冷や汗が頬を伝う。まだ距離はありそうだが、今のヒカリの声でズバット達はこちらを目指しているようで羽ばたきが徐々に大きくなっていく。正確な数は分からないけれど、十は軽く超えていそうな音が迫ってくる。
地の利は向こうにあるし、何よりズバットは超音波を使った索敵に優れたポケモンだ。一匹二匹なら戦えるだろうけど、さっきみたいに集団で押し寄せられたら一溜まりもない。出口が分からないこの状況で、アリマサとレンゲが戦闘不能になってしまったらかなりまずい。
咄嗟に周囲を見渡してみたが、今居る場所に隠れられそうな所は無さそうだった。この場を今すぐに離れた方がいいと判断して、私はヒカリの腕をとる。
「走ろう、ヒカリ」
「え?」
「あんな数のポケモンに襲われたら今の私達じゃ勝てない。道に迷ってでも逃げた方がいいと思う」
「う、うん!」
走り出したアリマサの火を目印に、私とヒカリは洞窟の中を駆ける。強く噛み締めた奥歯が嫌な音をたてて、思わず頭を振りたくなった。
刺すような鋭い痛みが足から脳までを突き抜けて、視界は真っ白だ。何も見えない。ヒカリの腕を掴んだのははぐれてしまわないようにじゃない、私が何も見えない状態でも走れるようにだった。
片足の感覚が全く無くて、嫌な汗が全身を濡らしている。
「っ、誰だ!」
アリマサの足音が少し前で止まり、私達は荒く息を吐き出しながらゆっくりと走るのをやめた。ぎしりと足の骨が軋んだような気がして背筋が冷える。なにかあったのだろうか。一度止まってしまうと足の痛みに意識が引っ張られて、動ける自信が無くなってしまうのに。
朧気に周囲が見えるようになってくる。耳の中に心臓があるかのように鼓動が大きく脈打つのが耳障りでならない。
遅れて来たレンゲが後ろから駆け寄ってきて、ヒカリのすぐ後ろにつくのが見えた。
ピリピリとした空気を放つのはアリマサとレンゲか、それともアリマサの睨み付ける先にいる何かか。
アリマサの誰何の声に応えるように目の前の通路の先で何かが動いた。
「……人か?」
小さな、けれどよく通る低い声。私達の誰とも違う声は、ヒカリの翻訳機を通さず直接耳に届く。
姿は薄暗いせいでよく見えないが、どうやら人がいるらしい。声からして大人の男性のようだ。
この人が道を知っていれば。いやもしトレーナーだったなら、ズバットを追い払ってくれたりしないだろうか。
そう思って口を開こうとした瞬間、背後から複数の力強い羽ばたきが聞こえてきた。──あれは、加速しようとする時の羽ばたきじゃなかっただろうか。
「あの! わたし達ズバットに追い掛けられてて……!」
「そのようだな。出口まで案内しよう」
話が早ければ動作も早い。姿が見えない距離に居たというのに、ヒカリが言い切る前にはもう男性は私達のすぐ目の前に立っていた。
暗い色の少し長めの髪、その隙間から覗く瞳は薄暗い中でも鮮やかな紅。酷く端整な顔立ちをした男に一目見ただけでピンとくる。
この人、ポケモンだ。
無表情の男が突然目の前に現れたせいかヒカリの身体が強張る。アリマサとレンゲは警戒心を露わにして低く唸り声をあげているが、目の前に立つ男はそんなこと歯牙にもかけずピクリとも動かない能面のような表情でこちらを見下ろしていた。
ひやりとした気配に彼を信用していいのかと疑問が頭を擡げる。羽の音が近い。どうする。どうすればいい。私達を追い詰めようとするざわめきは真っ直ぐこちらを見据えている。思考する余裕は、ほんの少しも与えられない。
「出口まで、連れて行ってもらえますか」
「ああ。……だがお前達の足では追い付かれそうだな。抱えてもいいだろうか」
「それは……」
思わぬ申し出に言葉が詰まった。流石に会って間もない見知らぬ男に抱えられるのは、と強く戸惑いを覚える。正体も分からないポケモン。彼のトレーナーがどんな人物かも、その立ち姿からは窺うことは出来ない。彼は、信用出来る?
隣に居るヒカリを見れば怯えるように視線を彷徨わせていた。視線が向けられるのは、背後。ヒカリが気にしているのは、目の前の男ではなく、追い掛けて来ているだろう見えないポケモン。
「お願いして、いいですか」
迷って、考えて、私はこの男を信じることにした。言葉が通じそうにないズバットより、会話が成立している彼の方をとった。私自身がもう一度さっきのように走るのは難しいと思ったからというのもある。怪しいからと断ったところで、今の私じゃ結局ズバットからもこの男からも逃げられそうにない。無駄なだけだ。
それに、走ったせいかヒカリの顔には疲労の色が濃い。彼が移動手段になってくれるというのなら利用させてもらおう。……彼が、よからぬ事を企む悪人でないことを祈る。
「失礼」
まずは私のようだ。一声かけてからすっと屈んだ男の腕が私の膝を抱え、ふわりと浮き上がる。私の体重など感じていないような動きだ。体幹がしっかりしているんだろうな、と思いつつ、彼がポケモンならそれも当然のことかと納得する。人間とポケモンでは身体能力が違い過ぎるのだから。
次いでヒカリの足をガッと抱え立ち上がると、男は予備動作少なく走り出す。驚いたようなズバットの鳴き声が背後から聞こえた。
私の時と違って些か乱暴にも思える動きに、風圧に耐えながら怪訝に思う。ズバットが近寄ってきていたから? それなら私を抱えるのも丁寧にしなくて良い筈。なぜ私とヒカリでこうも違うのか。
細く目を開いてヒカリを見れば、男の肩にしがみついて固く目を瞑っていた。足元を凄い勢いでアリマサとレンゲが走っている。ズバットは……分からない。風圧で羽音は聞こえないし暗い中では姿を見ることは出来ない。
なぜヒカリは必死な様子なのに私は周囲を確認する余裕があるのかと考えて、────ハッと気付いた。
私とヒカリでは体勢が違う。私は丁寧に抱えられたからか姿勢が安定しているが、ヒカリはそうじゃない。男にしがみついていなければ落ちるかもしれないような不安定な姿勢なのだ。ならその違いは何故なのか。私とヒカリで違うところは。
(足の、痛みか)
男の腕が掛かっている場所は酷く痛む所を避けるように回されている。偶然の可能性もあるが、もしこの男が私が隠している足の痛みに気付いていて、気を遣って丁寧に抱えてくれたというのなら説明がつくんじゃないだろうか。だって、ただズバットから逃げるだけなら、手を引いて走るのでも良かった筈だ。
「もうじき出口だ」
結構なスピードで進む中、男のよく通る声が耳に届いた。前を向いて目を凝らすと灯りがあるのか一箇所だけぼんやりと明るい場所があって、男が目指すその出口らしき場所に誰かが立っているのが見える。長い金の髪の、恐らく女性。
「おかえり、ルカ。……その子達が急に現れた気配の持ち主?」
「ああ」
少しハスキーな艶のある声だった。あっという間に出口まで辿り着いた男は女性の前で足を止める。彼がポケモンだという予想が当たっているなら、この女性がトレーナーなのかもしれない。
さらりと流れる綺麗な金の髪には変わった髪飾りが付けられ、こんな薄暗い洞窟には不似合いな黒い洒落た服にハイヒールという出で立ちは物凄く浮いて見える。けれど周囲を警戒する鋭利な刃物のような雰囲気は、彼女をただの街中を歩くお洒落な女性とは違う存在だと示していた。こういうのを、只者では無い、と言うのかもしれない。強いトレーナーというのはこんな雰囲気を纏っているのか。
「キミ達酷い格好じゃない! 怪我は大丈夫? 擦り傷が多いみたいだけど……」
「あ、大丈夫です! わたしもお姉ちゃんも歩けるので……あ、もう降ろしてもらっても大丈夫ですよ!」
私達の様子に気付いた女性が慌てたように駆け寄ってくる。コツコツとヒールの音が鋭く響き、甘い香りがふわりと漂った。きゅっと吊り上がった眦は気が強そうだが、私達を心配しているような眉を下げた表情だと可愛らしく見える。
ヒカリが男の腕から降りようと動いた。けれど男はヒカリを降ろさないようにかそっとヒカリを抱え直す。
疑問符を浮かべるようにヒカリがきょとんと瞬いた。
「こんなところで道に迷っていたなら気を張り続けて緊張しているだろう。緊張は痛みを鈍らせる。自分で気付いていないだけで怪我をしているかもしれないから、ポケモンセンターまで俺が運んでいく」
やっぱりこの男は、私が足の痛みに耐えていることに気付いていそうだ。そして恐らく、それを私がヒカリに隠そうとしていることにも。
何故だろう。何故この男は、私の意を汲んでヒカリに気付かれないよう立ち回ってくれるのか。そんなことをしても彼に利があるわけではないだろうに。
「そうね、それがいいわ。あのヒコザルとコリンクはキミ達のポケモンよね? みんなまとめてポケモンセンターまで送るわ」
にこりと安心させるように微笑んだ女性がちらりと私を見て、そして追い付いてきたアリマサとレンゲに気付いてそう言った。
二匹は警戒心を解いていないようで、鳴き声もあげずじっと女性を見ていた。鳴き声をあげられたら翻訳機が反応してしまうからその方が良いけれど。
──ああ、だんだん頭が働かなくなっていく。足が酷く熱い。
何とか周りの音は聞こえているけれどずっと耳鳴りがしているし、なんだか周りの景色の見え方がおかしかった。周囲は暗く茶色い土壁だらけのはずなのに、白っぽくてたまにチカチカと火花が散る。
女性に促されて男が歩き出し、視界に入る景色が流れ始める。
「キミ達どうやってこの地下に来たの? 今はここ塞いであるのだけど」
「あ、実は、上でズバットに追い掛けられて逃げてたら、地面に穴が空いて落ちちゃったんです」
「穴? それでこんなに土まみれなの……酷い怪我が無いのが奇跡だわ。大変な目に遭ったのね」
女性が話し掛けるのにヒカリが答える。会話は全部ヒカリに任せてもいいだろうか。何か話しかけられても今の私はまともな答えを返せる自信がない。
「あたし達はここの調査に来ていたの。この下の地下通路で大きなひび割れが見つかってね、多分クロガネゲート内でも異常が起きてるんじゃないかってことで調べようとしていたのだけど……」
私達の土まみれの姿を見て女性は痛ましそうに眉を下げたようだ。
「もう少し早く調査を始めるべきだったわね。……ちょうど今この地下に居た人達に出てもらったところだったのよ。これから上にいる人達にもここを出るよう呼び掛けようとしていたのだけど……」
地下通路にひび。つまり地盤が弛んでいる可能性があったのか。そこをズバットに追いかけられた私達が走り回り、運悪く私とヒカリが地面を踏み抜いてしまった、ということなのだろう。
「えっと、あの、ちかつうろってなんですか?」
「あら知らない? このシンオウ地方の地面の下には、巨大な迷路のような空間が広がっているのよ。道具があれば誰でも地下に行けて、土の中に埋まっているものを発掘出来るの」
ヒカリの質問に女性は朗らかな声で答えた。ぼやけた視界でも彼女が分かりやすく笑みを浮かべているのが分かる。ころころと表情の変わる人だ。多分こちらの不安を解いて落ち着かせるためになるべく笑みを浮かべてくれているのだと思う。
顔立ちは気が強そうに見えるのに、ふわりと微笑む姿はとても優しそうに見えた。最初の鋭い雰囲気はなりを潜めていて、これがギャップというものだろうか、と昔何かの雑誌で見た言葉を思い出す。
そのまま女性とヒカリの会話は他愛のない世間話に移ったようだ。
ポケモンセンターまではあとどれ位掛かるんだろう。
意識がふわふわと飛んで行ってはまた戻ってくるのを繰り返していて、耳に入ってくる会話は所々飛んで聞こえる。
足が酷く熱くて、なんだか膨らんでいるような、足だけがどこか遠くに行ってしまったようなおかしな感覚がしていた。
早く、ポケモンセンターに着いてほしい。
私の意識が戻って来れなくなる前に。
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