旅に危険は付き物
揺れる。
揺れて漂っていた意識が引き戻される。
うっすら目を開いたけれど、酷く霞んでいて目の前がよく分からない。
ここはどこだ。体勢は変わっていない。遠くからヒカリの声が聞こえる。思考が散らかっている。
「ここがクロガネシティよ。どう? 隣の街なのに、コトブキとは全然違うでしょう」
「本当ですね! こんなに雰囲気変わるんだ……」
途切れ途切れに耳に入る会話に、ああ、クロガネシティに着いたのか、と思う。それで、どうするんだったっけ。クロガネシティに着いたら、何をしようとしていたのだったか。
再び身体が揺すられる。
これは、私を抱える男の歩みで揺れているのではなく、男が意図的に揺すっているようだ。まるで起こそうとされているような。
ああ、起きろ、ということか。
今度こそしっかりと目を開く。
ぼやけてはいるけれど意識は戻ってきた。既に街中に入っているようで人の気配がそこかしこにある。どことなく暗い色が多く感じられて、もう夜になってしまったのだろうかと疑問に思う。そういえば時計を見ていなかったな。何事も無ければクロガネシティには夕方頃辿り着く予定だったのだけど、ゲート内でどれだけ時間を食っていたのだろうか。
「この街のポケモンセンターはあそこよ。で、ポケモンジムはここ」
「ジム……」
「挑戦、するんでしょ? 新米トレーナーさん」
ぱちり、瞬きをして焦点を合わせた視界に入った女性の指先が向いた方を辿る。
何処か暗いと思っていた色は剥き出しの地面、そして土壁の色だった。建物の色も暗い色で統一されていてパッと見日が沈んだ後のように見えるけれど、少し視線を上げれば紫と橙が不規則に溶けた空にはまだ青色が残っていた。
そんな視界の中で、一際大きく目立つ建物。茶色の屋根を被ったその建物は、なんとなく気遅れしてしまいそうな雰囲気を放ちながら聳えていた。
「お姉ちゃん」
「……なに?」
掠れた声が口から漏れて、ひやりと背筋が冷える。おかしいと思われてないだろうか。痛みを堪えていると気付かれていないだろうか。
……ヒカリは私のことなど見ずに、ただただ目の前の建物を睨むように見詰めていた。
「ポケモンセンターで手当してもらったら、ジムに挑戦してきていい?」
ああ、今のヒカリは、私の怪我になど気付く余裕は無いようだ。カチンと凍ったようになっていた気を弛める。光を湛えた瞳はもうジムのことに夢中でそれ以外は目に入っていないみたいだ。
ふっ、と息を吐き出して、いいよと答える。
「なら早く手当てしてもらっておいで。私はちょっと疲れたから、手当てしてもらったら部屋を借りて待ってる」
「うん!」
元気よく返事をしたヒカリの声を合図に、ジムの前で止まっていた足が動き出す。
ポケモンセンターはもうほんのすぐそこだ。
痛む足はやっぱり熱を持っていて、これはどうやらただ捻っただけではなさそうだと小さく息を吐く。ちゃんと歩けると思っていたけれど、最初は痛みが鈍っていたのか走った時に悪化したのか。それは分からないが、とにかく動かさない方がいいことだけは確かだろう。
私達を助けてくれたこの女性とポケモンらしき男、二人が居てくれて助かった。……あのまま助けがないままだったら、今頃どうなっていたことやら。
ポケモンセンターのドアをくぐり、女性がジョーイさんに向かって声を掛ける。
「クロガネゲートで崩落事故に巻き込まれた子が二人居るわ。急いで診てあげて」
「事故ですか!? 分かりました。ラッキー! 休憩してる子達呼んできて!」
見える範囲に他の利用客は居なくてシンとしていたセンター内だが、ジョーイさんの声にカウンターの奥の方がにわかにざわつき始めた。
ヒカリは殆ど傷はなさそうだし、私もまずそうなのは足だけだからそこまで大袈裟にしなくていいのに。崩落事故なんて言ったらまるで大きな事故でもあったかのようだ。
男の腕から降ろされ、女性に背を押されたヒカリがカウンターの左側奥にある診療室へと歩いていく。スライド式のドアは自動で閉まり、中の声も聞こえてはこない。
それと入れ違いに奥からジョーイさんが二人現れ、一人はポケモンセンターの受付に、もう一人は男に抱えられたままの私の元に駆け寄ってくる。その後ろを何かを持ったラッキー達が着いてくるのが見えた。
「痛むのは足ですか? ちょっと患部を見せてくださいね」
ざっと私の姿を確認したジョーイさんは私の足元にしゃがむと素肌が見えるようにそっと服の裾を捲り上げる。痛みを訴えてくる左足首の内側を中心にして一目見て分かる程度には赤黒く腫れ上がっていて、そこをジョーイさんの指が軽く摩るように触れると鈍っていた痛みが一気に激痛に変わり、私は思わずびくりと身体を跳ねさせた。歯を食いしばっていたおかげで悲鳴は出さずに済んだけれど、再び目の前が真っ白に染まる。見えないが何らかの触診をされているようで鋭過ぎる痛みが何度も続く。
ああ、耳も遠くなったな、なんて他人事みたいに思った。痛みのせいでまた思考が取っ散らかる。
痛みに連動するように胃からぐるぐるとせり上がってくる気配を唾液を呑み込んで誤魔化す。
「ラッキー、タマゴを。骨折の可能性がありますが骨がズレたりはしていないみたいなので、骨を元の位置に戻すといった特別な処置はしなくても大丈夫そうですね。しばらくは痛みが残るでしょうが固定をしっかりすればちゃんと治りますよ」
ラッキーがサッと渡してきたのは、つい先日も飲んだタマゴうみのタマゴだった。この前はタマゴを飲むだけですぐに治ったけれど、今回はそうはいかないらしい。それもそうか、骨折の可能性があるのなら。
「随分と無茶をしたものだ。地下に落ちてから歩いていただろう」
「そんなに酷いものだとは、思ってなかったもので」
「かなりの痛みがあった筈だ。足の軸に異常があるのだから歩けるわけもないのに、わざわざ同行者に隠してまで無茶をするなど理解に苦しむ」
「頑張ればなんとかなるかな、と」
男が溜め息を吐く振動を肩に感じながら、私はにこりと笑ってみせた。
最初は痛くても歩けてはいたのだからきっと少し捻ったぐらいの怪我だった筈なのだ。だからさっき想像した通りズバットから逃げようと走った時に悪化したのだと思う。思い返してみれば無我夢中で走って立ち止まった直後から、歩けそうに無いと身体が悲鳴を上げていた気がする。彼は無茶をしたと言うが、救助してもらえるか私達には分からなかったあの状況では、動かずにいるという選択肢は無かったからあれで良かったのだ。結果的にこうして彼等に助けられているけれど、そんなことあの時の私が予測できるわけがない。
本当に、この男がヒカリに隠してくれて助かった。ヒカリがこの足のことを知れば酷く気に病んだ筈だ。下手すれば最初のジム戦を迎える前に旅をするのをやめると言い出す可能性もあった。
「我慢強いのも考えものね。骨折なんて、大の大人でも泣くような大怪我よ。まさかそれを隠そうとするだなんて」
女性はクロガネゲートの地下で浮かべていたような微笑みを取っ払って、私を咎めるような険しい目付きで見下ろしている。肌に突き刺さるのは、子供の無謀を咎めなければという、大人の義務感。
「キミに何かあったら、手持ちのポケモン達だって路頭に迷ってしまう。今回のことはどうしようもない事故だったとしても、それで負った傷を隠して悪化させるのは絶対に駄目よ。二人でいたのだから、キミは自分のポケモンと残ってあの子に助けを呼びに行ってもらうべきだった」
確かに、それが普通のトレーナーとしては正しかったのだろう。天井に空いた穴は地上へはとても遠くても繋がってはいたのだから、怪我を庇ってその場に残り叫んでいれば誰かに声が届いたかもしれない。私は慎重に歩こうと言ってヒカリ達を自分の歩調に合わせさせたけど、急いで地上に続く道を見つけていれば群れで行動するズバット達に見つかる前に外に出られたかもしれない。
自分のポケモンと一緒なら、二手に分かれるというのが最善だったと思う。その時点での手持ちのポケモンでは野生のポケモンに勝てそうになくても、どちらか一方が出られさえすれば助けを呼びに行けた。どちらかが、囮になれば。
でも私はトレーナーじゃなくて、ポケモンも持っていなくて、そんな私をヒカリは絶対に置いていくなんて選択はしなかっただろう。だから私は足のことを隠した。私の足の怪我に気付けばヒカリはその場から動かなくなると思ったから。
それに本当は。いざという時は。
「まだ旅に出たばかりだから、そこまで考え付きませんでした。教えて下さってありがとうございます」
もう一度、今度は女性に向かってにこりと笑ってみせれば、女性は仕方が無い子を見るような顔をした。旅に慣れていないのだから仕方が無い。これから学んでいけばいい。逆に今こうしてどんな危険が待ち受けているかを知ったことで今後慎重に行動出来るだろう。そう思われているのだろうな、と思う。
彼女は、ちょうど昨日私が一緒に旅をするアリマサとレンゲに、いざという時は私を見捨てるように言い含めたことを知らない。私が本当にどうしようもなくなった時、置き去りにされてもいいと思っていることを知らない。今日をその日としても良いかもしれないと、あの地面の下でうっすら考えていたことを、知らない。
「本当に気を付けてね。……最近は特に、物騒なんだから」
「物騒、ですか」
「ポケモンが連れ去られる事件が多発しているのよ。トレーナーの手持ちになっているポケモンも、野生のポケモンも、関係なく」
その話はつい最近にも聞いたものだった。国際警察のコードネームハンサムと名乗る男が教えてくれた話。あの時はあまりにも怪しくて完全には信じていなかったが、彼女まで知っているということはただの噂に納まる話ではなかったのだと目を見張る。
だって、彼女は。
「アリマサ! レンゲ!」
弾む声に足元に居た二匹がハッと頭を上げた。我慢出来ないとばかりに足早にこちらに向かってくるヒカリは、服に多少の汚れはついているものの手足の擦り傷は綺麗に治っている。笑顔も眩しい少女は危ない目にあったことなんてすっかり記憶の隅に追いやって、もうこれから挑むつもりのジム戦のことで頭がいっぱいになっているように見えた。
「お姉さん、お兄さん、助けて下さってありがとうございました!」
翳りの無い笑みを浮かべたまま、女性の目の前で足を止めたヒカリは勢い良く頭を下げる。
そんなヒカリの姿に面食らったようにぱちくりと瞬いた女性だったが、すぐにヒカリのことを上から下まで眺め、それからほっとしたように目を細めた。もうキズは大丈夫そうね、と囁くような声が零れて、その言葉にヒカリはもう痛くないですと力強く拳を握ってみせる。並々ならぬ熱量が漲っているのが、青い瞳から察せられた。
そしてヒカリは足元にアリマサとレンゲが寄り添ったのに気付くと、女性へのお礼もそこそこにポケモンセンターの出入口へと風のように突っ込んでいった。「ジム戦行ってきます!」と残した言葉は、余韻だけがポケモンセンターのエントランスに長く伸びていく。
目的地まっしぐらなヒカリと慌ててその後を追うアリマサとレンゲの背を呆気に取られて見送るしか出来なかった私達は、ほぼ同時にお互いへと視線を向け、苦く笑った。
「……すみません、あの子が失礼な態度をとって」
「ああ、いえ、構わないわ。あれぐらいの歳の子なら、興奮で周りが見えなくなることなんてザラだもの。しかも初めてのジム戦ともなれば、ね」
微笑ましさ半分、自嘲半分で彼女は呟く。「懐かしいわ。あたしの時なんて……」とどこか遠くを見るような目をした彼女の言葉はあまりにも小さくて聞き取れなかったけれど、ヒカリの行動を不快には思っていないようでほっと息を吐き出した。あまり、彼女からの心象を悪くしたくはない。
一人と二匹の姿が見えなくなる頃にゆっくりとポケモンセンターの自動ドアは閉まり、まるで空気そのものが入れ替わるようにしんとした沈黙が落ちてくる。自動ドアが開いている間だけ聞こえていた街の喧騒が静けさを更に際立たせて、頭の奥が痺れているかのように錯覚した。
けれどその空白はほんの一瞬だけのもので、訝しむような小さな咳払いが沈黙を払い除けてしまう。
見上げた先で、少し険しくなった瞳がぎこちなくこちらに向けられた。
「……ねぇ、あのヒコザルとコリンクのどちらかが、キミのパートナーなんだと思っていたんだけど」
「…………ふふふ」
まさか、と嫌な予感を感じたような、違うだろう、となじるような。そんな困惑と警戒が混ざった鋭い視線に真っ直ぐと射抜かれたから、私は乾いた笑い声を零してみせた。誤魔化しも言い訳も、きっと彼女には通じない──そう分かっていて、それでも、素直に事実を告げたところで結局は面倒臭いことになるだけの気がしたのだ。明言してしまえば彼女は立場上、私を咎めなければいけなくなるだろうから。
顔だけはにこりと笑みの形にしたまま首を傾げる。明確な疑問をぶつけられていないのをいいことに肯定も否定もせず、ただただ無言を貫く。二度目の沈黙はどうにも重苦しい、と思いながらも素知らぬ顔で惚けてやる。
険しさを増していく視線。けれどそこに僅かに感じたのは、こちらを観察するような理性とそれを隠そうとするわざとらしさ。
「──あの、そろそろその子の診察を……」
「……っ」
その視線から彼女の真意を読み取ろうとした、そんな時だった。
控え目な声がするりと沈黙の隙間に入り込んで、細められていた切れ長の瞳がハッと丸く形を変える。それが美しい顔立ちの彼女にあどけなさを与えて、つい今しがたまでのしたたかさを含んだ静けさが乱れ、揺らいだ。私が視線を声の主へと向けると、そこには困ったように眉を下げたジョーイさんの姿。彼女は車椅子を押していて、私がそちらに移動させられるのを待っていたようだ。
張り詰めていた空気が緩んで息がしやすくなる。と同時に、もう少しで掴めそうだった何かが目の前で消え失せてしまったような気持ち悪さが残る。……彼女とは初対面の筈なのに、まるで私の反応を探るような色がその瞳に含まれていたのは何故だったのか。
「そろそろクロガネゲートの確認を終わらせなければ……何らかの対処が必要になれば時間が足りなくなるぞ」
「そう、ね」
男の低い声に一瞬言葉を詰まらせた女性はパチリとその長い睫毛を羽ばたかせて、私をずっと抱えたままだった男に私を車椅子に移すよう指示を出した。男はたった一歩で車椅子の前まで進み、私をゆっくりと降ろしてくれる。ずっと抱えられていたせいですっかり男の体温と馴染んでしまっていた身体の側面が、車椅子の存在しない体温を針のように感じ取る。女性と話している間は忘れていられた足の痛みが、再び冷や汗を呼び始めた。
「……今日は、助けて下さってありがとうございました」
「あたしは自分のやるべき事をしただけよ。……キミが、キミ達が、素晴らしいポケモントレーナーになれるよう手助けするのがあたしみたいなのの仕事だもの」
にこりと柔らかく微笑む姿はどこからどう見ても頼り甲斐のある大人の女性だった。どんな些細な事でも相談すれば答えへと導いてくれそうな、そんなトレーナーとしての先輩。新米トレーナーの憧れの存在。
私は、関わらなくても良い人。
「またどこかでお会いした時には、ぜひヒカリと手合わせして色々教えてやってください」
「あの子は強くなりそうだものね、もちろん──待っているわ」
お互い深く微笑み合えば、和やかな雰囲気で場を上書き出来た気がする。会話だけを切り取ればきっとおかしなものになっていただろうけどそれを指摘する人はここには居ない。
最後にジッとこちらを見て、女性は「それじゃまたね」と言葉を残すと颯爽と踵を返した。私達のせいで時間が押していたのだろう、優雅さは失っていなくても早足でポケモンセンターを出て行った速度はヒカリ達と同じぐらいだった。
「では、診療室に行きましょうか」
「はい」
乗せられた車椅子が動き出す。正面を真っ直ぐ見ると、エントランスの自動ドアはまだぽかりと口を開けていた。
二つの黒い人影。
その片方の鮮やかな紅の瞳が鋭くこちらを射抜いているのに気付いたところで、ようやくガラスの扉は私と彼等を完全に隔てた。
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