夢を見た。
幼い頃の夢。


母はいつも港から海を見ていた。
今となってはそれは、2度と迎えに来ない男にか、はたまた、いつか海の向こうにという叶う事のなかった夢に思いを馳せていたのか母の心情はわからないが、娼館に客が出向く夜になる前に、いつも決まって母と並んで見つめていた夕陽が沈む海の景色は名前の脳裏に焼き付いていた。


夢の中で母は、握っていた名前の手を離すと、振り返る事もなく吸い込まれるように海に入っていく。


「行かないで、お母さん」


声を掛けたいのに、なぜか名前の声は声にならない。
その手を引き戻したいのに、まるで縫い付けられたように名前の身体はその場から動けない。


「お母さん、お母さん!」


どんどん海に浸かっていく母の後ろ姿。
行かないで
ひとりにしないで
そんな悲痛な叫びがなぜだか声にならない。
苦しい。
助けて。
誰か。


「…っ!」


ぱちり。
名前は夢の途中で目を覚ました。
視界いっぱいにうつる見慣れない天井に一瞬ここはどこだと慌てるが、昨夜の出来事を思い出して、ここが昨夜忍び込んだ海賊船の一室である事を察知し深く呼吸を整えた。


夢を見るのは久しぶりだった。
特に母の夢に関しては。
慣れない寝床で眠りが浅かったのだろうか。
夢のせいか随分と寝苦しかったのだろう、びっしょりとかいた汗のせいで、衣服と髪が肌にぴとりと張り付いて気持ちが悪かった。


「あ、れ…」


汗、衣服、髪


名前は違和感にガバッとベッドから身を起こす。
慌てて自身の身体を見ると、視界に入るのは見慣れた体。
グーパーと手を握っては開くを繰り返す。
毎日の仕事でささくれだった骨張った手は間違いなく名前自身のものだ。
その手を使って全身に触れれば、パサついたロングヘアと小さな耳もいつもの名前そのもので、たしかに人間の姿に戻っているらしい。
不思議と衣服は昨日身につけていたツギハギだらけのワンピースを身につけていた。


人間の姿に戻れた事に安堵の息を漏らすが、しかし、これはこれで困ったものである。
昨夜は猫の姿でこの船に拾われたものの、見知らぬ女児が1人乗船していたら船では騒ぎが起きるに違いない。
目が覚めた時にはすでに部屋の主であるエースはベッドを抜け出していて姿がなくなっていたが、果たして彼は名前のこの姿を確認したのだろうか。


幸い人の姿に戻れた事だし、今のこの姿であれば船を降りて娼館に帰る事はできる。
昨夜眠りにつきながら必死に言い訳を考えたが、理由を何と言おうと主人に怒られる事は目に見えているし、港に来ていた海賊に捕まっていたとでも言うしかないと結論づけた。
言い訳も考えたところで、エースが戻らないうちに見つからぬよう早く部屋を出なくてはとベッドから身体を起こす。


しかし、そう上手く事は運ばないものである。


「っと、お前…誰だ?」


名前が部屋の扉に手をかけようとした瞬間、廊下側から扉が開かれ、そこにはエースが立っていた。



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