名前はグランドライン後半にあるとある島の港町で生を受けた。
世界政府に税を納められず見放されたその国は、決して恵まれているとは言えず、これといった名産品もなく、荒れた土地でなんとか人々が生きている。そんな貧しい国だった。
港町での生業といえば海産物や地産の品の貿易を除けば、その多くがたまに島に停泊する海兵と海賊が落としていく金を当てに成り立っているといっても過言ではなく、その町も例に漏れずの小さな町であった。


名前の母親は、漁師の父とその仕事を手伝う母の元で一人娘として暮らしていた。
貧しくともささやかであたたかい幸せな生活。しかしそんな生活は、ある日突然一変する事になる。


ある日の明け方、まだ空も暗く朝日も出ない頃、いつもの通り漁に出た2人は、その日以来帰る事はなかった。
それは何ら珍しくもない、海では日常的に起こりうる出来事。
その日は嵐の後でまだ海が荒れていたからそのためか。それとも悪意のある海賊のほんの憂さ晴らしの標的にされたのか。あるいは貧しい暮らしに疲れた2人が幼い娘を1人残してどこか遠くの島へと逃げたのか。
目撃者もいなければ、当人達から聞く事も叶わず、結局理由もわからぬまま、後に名前の母親となる少女はある日突然孤児となった。


名前の祖母にあたる女性は、元来そう遠くない島の貴族の生まれだったらしい。しかし、当時海洋業を営みその島に偶然訪れていた祖父と出会い、本来約束されていた貴族同士の縁談から逃げるようにして島を飛び出て、たどり着いたその島でひっそりと暮らしていた。
そのため島には他の身寄りはおらず、行く場をなくし1人残された名前の母親は娼館に拾われ何とか命拾いした。
まだ幼かった最初こそ掃除に飯炊きと雑用として働いていたが、年端もそこそこになると客を取らされ、まだあどけなさが残る中娼館勤めの娼婦となった。


体も心もすり減れど、娼婦としての暮らしは辛さの中にほんの僅かな救いもあった。
雨風凌げる部屋と清潔なリネン、毎日の腹いっぱいの食事が約束されていたし、着飾るために上等な衣類に身を包めた。
何より、名前の母親は貴族生まれの母親譲りでそこそこに見目麗しく、娼館の中でも随分と贔屓にされていた。
時に下世話な海賊の相手をする事も0ではなく客も千差万別ではあったが、身なりの良い商人や位の高い海兵が来ればまず当てがわれ、たんまりと小遣いを貰うことも度々あった。
とはいえやはり着実に心に垢は溜まっていくもので、貧乏暮らしにも娼婦の仕事にも懲りた彼女は、金を貯めたらいつか海を渡って娼婦であった自分を知る人間のいない所で人知れず静かに暮らすという夢を胸に、毎夜毎夜客を取った。


そんなある日、彼女は1人の海賊と出会い、そして彼女は恋に落ちた。
海賊もまた、彼女に興味があるようだった。
その海賊は、ログが貯まるしばしの間港町に停泊しており、その間中毎夜2人は一緒に過ごした。
海賊はこれまでの旅の話を、彼女は自身の生い立ちを、そして互いに夢の話を朝日が昇るまで語り合った。
しかし彼は海賊。帰るべき家などなくとも、彼はまた海へと帰っていく。
ほどなくして、また彼が海に出る日が近づいた時。海賊は彼女にこう言った。
「1年後にまた必ずこの島を訪れる。そうしたら君をここから連れて行く」
まるで塔に閉じ込められた御伽噺のプリンセスを救い出すようなその言葉は、彼女の心を躍らせた。
そして海賊は彼女を残しまた海に出た。


彼女はそれまで以上に仕事に励んだ。
愛しい男を思って、一緒に海に出る日を夢見て更に金を貯めた。
しかし、男が海に出てからしばらく経ったある日、彼女の体に異変が起きた。
大切な商品に何かあってはと娼館の主が血相を変えて医者を呼ぶと、彼女の身体には小さな命が宿っていた。
しかし彼女は娼婦。腹の子供の父親は誰なのかなど見当もつかない。
主と医者は堕胎を勧めたが、彼女は脳裏に浮かぶ僅かな可能性を思うと、愛しい人との子供かもしれないその小さな命の芽を摘み取る事はできなかった。


そうしてまた季節が巡り名前が産まれた。
名前を産んだ後間もなくしてまた名前の母は仕事に戻り、また来る日も来る日もそれまで以上に客を取った。
そして、約束していた1年を少し過ぎた頃、約束通り海賊はまたその娼館に姿を表した。
2人は無事の再開を喜び、離れていた時間を埋めるようにその間の出来事を互いに伝え合った。
彼女は幼い期待を僅かに胸に抱いていた。
もしかしたら2人の間に出来たのかもしれない子供がすでに無事に元気に産まれている事を、彼も喜んでくれるのではないか、と。


しかし現実は残酷なものだった。
海賊は彼女に「それなら海には連れて行けない」とあっけなく約束を取り消した。
彼女は泣いた。薄い壁の娼館の自室で、ぐずぐずと泣く赤子の横で、声を殺して止まる事を知らない涙を静かに拭って夜が明けた。
海賊は夜明け前には島を出て、もう2度と島に姿を現すことはなかった。


元よりそこに愛などなかった、それだけの話だ。
海賊は、金になる無知でまだ幼い彼女自身と、彼女が夢のために溜め込んでいた金に目をつけただけの事。
娼婦相手に何をしたところで、政府も国もお咎めない。そうやって、行く先々の港で娼婦相手に同じような言葉で夢を見させては金を引っ張るのがその海賊の手口だった。
そして、海賊が島にまた戻るまでの1年の間に出産し子供を育てていた彼女は、働けなかった時期の事や赤子にかかる費用を思うと、もう手元にはろくに金など残っていないだろうと踏んだその海賊の読みは当たっていた。


男にも捨てられ、手元には誰の子なのかわからない幼い赤子だけが残された名前の母はその日以来飲めない酒に溺れてどんどん壊れていった。
そして名前が物心つく頃に、まだ若くしてこの世を去った。




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