「まず…っ、え、あれ…?」


口の中に広がるエグみと渋味。
そして手元からゴロリと転がり落ちた齧りかけの果実と、急にどんどんと低くなる視点。
どさり、と肩からかけていたバッグが床に落ちる。
特に倒れたわけではない、意識も朦朧としてはいないのに、これは一体どういう事か。
しかし迂闊に長居するわけにはいかないしとりあえず早くこの場を去らねばと落としたバッグを再度手に取ろうとした時、視界に入った自身の手に名前は声にならない声を上げた。


「‼︎?」


ふわふわの長い被毛に包まれた、右手もとい右前足。
随分と小さいそれは日頃見慣れた自分のそれとはだいぶかけ離れている。
掌を見れば、ピンク色の肉球がついている。
先程の果実に幻覚作用でもあるのかと思考を巡らせるが原因などわかるわけもなく、突然の出来事に名前の頭は処理が追いつかない。


どうしたものか。
鏡こそ近くにないため自身の現在の姿は確認できていないが、視界も低くなった事からおそらく何かしらの獣の姿になった事は想像できた。
この姿ではカバンを持てないし、そもそも扉を開けて食糧庫から出る事や船から降りる事すら叶わない可能性の方が高い。
元に戻るまで少し待ってみるべきか。
しかしそんな悠長に過ごしてられる時間はない。
慌てふためく名前の元に、災難は重ねて訪れた。



「おーい、誰か残ってるのか?」


食糧庫の外から、男の声と段々と近づいてくる足音。
先程名前がカバンを落とした時に物音を立ててしまったせいだろう。
これだけ大きな船であれば船番を置いているのは珍しい事ではないし、金目の物を積んでいるであろう海賊船なら尚の事そうだ。
盗んだ物はたかが食糧とはいえ、海賊から盗みを働くなんて命の保証はないかもしれない。


どうしよう、隠れるべきか。
息を潜めて必死に思考を巡らせるが、そんな名前の努力も虚しく、近づいてくる足音は食糧庫のドアの前でぴたりと止まり、ドアが開いた。


「…猫?」


開いた扉の外には、黒髪で上半身に服を纏わない男が立っていた。


男が溢した言葉から想像するに、どうやら自分は今猫の姿をしているらしい事を冷静に感知する名前。
しかし不幸中の幸いか、大きなあくびをしながら頭をかいているこの男は特に武器も手にしていない。


「どっから紛れ込んだんだ?」


名前の前まで近付いて、目線を合わせる様にしゃがみ込んでくるその男からは、殺意や悪意の類が感じられない事に名前の全身を巡っていた緊張の糸はほんの少し和らいだ。


「綺麗な猫だし野良猫じゃあなさそうだが…っと、なんだ?このカバン。お前のか?んなわけねぇよなぁ」


男は床に不自然に落ちたカバンに気が付くとひょいと持ち上げて中身を確認して名前にペラペラと1人で語りかけてはカラカラと笑っている。
結局男は、買い出しに出た料理人が雑に荷物を投げ入れたんだろうと1人でに疑問を消化したらしい。
だらしがねぇな、と呆れた様に溢しながら、カバンに入った食糧をそれぞれ棚と木箱に戻していく。


「(ああ、私の当面のごはん…)」


そんな心の声を漏らしながら元あった場所に戻されていく食糧を見つめていると、男と名前の目があった。


「なんだ?お前腹でも減ってるのか?」


そう言って、ニカっと歯を見せて笑った男は、わしゃわしゃと名前の頭を一撫ですると、ひょい、と名前の身体を片手で抱き上げた。
その手は大きくて温かかった。



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