曇り空が泣いている


「あの、ありがとうございました。本当になんとお礼を言っていいか」
「よいよい、我輩も貴重な経験ができたしのう」

ホットミルクを飲み終え顔を洗いなおしてフロアに戻る。黒髪の美青年はやはりいつも隅の席で寝てる人だった。朔間零。流石にその名前を知らないほど無知ではない。何でそんな有名人がこんな喫茶店で無防備に寝てるのかと最初は不思議に思ったものだ。
しかし、そんな有名人にタダ働きなんてさせられるほど図太い神経は持っていない。いや、そもそも図太い神経を持っていられたらここでこんなにも働き続けていない。
お礼に何か、と思ったけれど私に渡せそうなものは何も浮かばないし、勝手にお店のお金を払うわけにもいかない。かといってお礼の言葉だけっていうのも申し訳なさすぎる。ああ、私はどこまでも無力だ。

「別に対価が欲しくてやったわけではないのじゃけど。そこまで言うなら……こういうのはどうじゃ?」

人好きのする笑みで提案されたそれを、私は一も二もなく了承した。



*****



指定された待ち合わせ場所に着いたのは約束の15分前。今日はあいにくの曇り空で太陽が見えない。雨が降りそうなら早めに傘袋と傘立てを用意しないと、と考えて今日はバイトじゃないからそんなこと考えなくていいんだと思い出す。そういえばこういう日の方が紫外線は強いんだっけ、なんてとりとめのないことに思考を移しながらぼうっと空を眺めた。
何か月ぶりかの休日に出かけるという感覚に浮つく心を落ち着かせようと深呼吸する。何せあの朔間零との待ち合わせ。心が逸るのもしかたないと思う。外出用のメイクも服も久しぶりだけど、普段よりは多少マシなはずだ。

「待たせてしまったかのう」
「!」

後ろからとんとんと肩を叩かれて振り返れば、サングラスと帽子を被った朔間零が立っていた。その程度では彼のオーラは隠しきれていない気がするものの、特に声をかけてくる人もいないので変装している、というポーズが大事なのかもしれない。
挨拶もそこそこにこっちじゃよ、と歩き出すので慌てて斜め後ろを歩く。

「どこに行くんですか?」
「それは着いてからのお楽しみじゃ……♪」

楽しそうに笑いながら歩く横顔を見てどきりとしつつも大人しくついていけば、やがて真新しいビルが見えてきた。あれは確か、いま最も世間を騒がせるアイドルの総本山、ESビルだ。まさかこんなところに来る日がくるなんて思わなかったな、と考えながら彼に続いてビル内のカフェに入り席に着くと、サングラスと帽子を外しながらくつくつと笑われた。

「くくく。そんなに緊張しなくても大丈夫じゃよ。ここのカフェは打ち合わせなんかでもよく使われるんじゃ」
「そうなんですね」
「さて。嬢ちゃん甘いものは好きかえ?ここのケーキは美味しいらしいぞい」
「ええっと……?」

突然のデートみたいな台詞にぽかんとする。浮き浮きした様子でメニューを広げる朔間零の真意は読めない。
そもそも私は先日のお礼をするために彼と会っているはずなのに、何がどうしてこうなった。

「甘いものが苦手ならば軽食でもよいぞ。我輩はこのクロックムッシュが気になっておる。それとも我輩の奢りでは不満かのう?」
「それは」

そうなんですけど!でもそうだと言いにくいこの雰囲気。眉を下げてしょぼんとした表情にきゅんとしてしまって、気づいたら「じゃあケーキで」と口にしていた。
そんな私を見て頷くと、また嬉しそうに店員にオーダーし始めるから性質が悪い。朔間零ってこんなキャラだっけ?テレビとかの印象と違いすぎて、加速度的にドキドキが止まらない。

「我輩、一度こうやって恋人みたいなデートをしてみたいと思っていたんじゃよ」
「でっ、でーと!?」
「うむ。しかしなかなか良い相手に出会えなくてのう。我輩アイドルじゃし、個人的なそういう話題はタブーでもある」
「それはそうでしょうね……」
「じゃから、嬢ちゃんとこうしてデートできて今とても楽しいぞい♪」

いや待って。結論がおかしい。大体何で私だと大丈夫だと思っているんだろうこの人は。
私だって普通の女子大生だし、パパラッチとかされたらまずいのでは?

「あ、我輩「あーん」とかもしてみたいんじゃが。やってくれぬかえ?」

そんな心配を他所に楽しそうな朔間零を見て思わず視線をそらす。窓の外では、静かに雨が降り始めていた。
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