10.純みたる心
春島を出て6日目。
あれから船は潜水を続けている。
夜は状況確認の為に少しの間は浮上するけど昼間は基本水中。
読んでいた本を閉じて、光が差し込まない窓の外をぼんやり眺める。
私が船に乗ってからこんなに長く潜水するのは初めてで。
時計はあるとはいえ、だんだん時間感覚が狂ってしまいそうな気がする。
「レイラ、昼ごはん持ってきた」
ノック音と共に現れたのはイッカク。
私が晩ごはんを食べにダイニングに行って以来、食事は基本的にみんなと同じものになった。
違いといえば少食な私に合わせた量になっていること。
胃に負担が掛かるものは避けてあること。
それでもお粥から脱出出来た時は嬉しさがあった。
「また本読んでたの?本当に好きよね」
「おもしろいよ?」
「私はダメ。すぐ眠くなっちゃう」
イッカクはベッドサイドの椅子に腰掛けながら、私が読んでいた本をパラパラと捲る。
船長さんが買ってきてくれた本も、こうして読んでいるうちに残り一冊になってしまった。
「あのね、イッカク。お願いがあるんだけど」
ここ数日、私はどうしても頼みたいことがあった。
イッカクにしか頼めないことが。
「なになに?レイラの頼みならなんだって聞いちゃう!」
「えぇと…そろそろお風呂に入りたいかなぁ…なんて…」
そう、それはお風呂。
目が覚めてからは毎晩イッカクが体を綺麗に拭いてくれてはいるけど、流石にそろそろシャワーでも浴びたい。
でもまだギプスは外れていないし、これはダメ元のお願いだった。
「う〜ん、そうよねぇ…女の子だもの。お風呂か…う〜ん」
「イッカク…?む、難しいならいいよ?」
「ううん!レイラのお願いだもの!待ってて!どうにかしてみる!」
腕を組んでうんうん唸っていたイッカクだけど、何か思い付いたのかすくっと立ち上がり親指を立てた。
◆
昼ごはんを食べたらうとうとしてしまって、気付けば夕方だった。
晩ごはんを食べ終えて、食後の読書に勤しむ。
お粥だったときはまだしも、このままの生活を続けていたら体がとんでもないことになりそう。
お腹をふにふにと擦りながら思わず溜め息が漏れた。
時計を見ればいつもならそろそろイッカクがタオルとお湯を持ってきてくれる時間。
するとちょうどのタイミングでノックの音が聞こえた。
慣れもあってか本から視線を上げずに返事をしたものの、現れた人物に私は慌てて本を閉じた。
そこにいたのはイッカク。
後ろには船長さん。
「何かあったんですか…?」
部屋に入ってくるなり、私の言葉を気に留めることなくイッカクはクローゼットに向かい手早く着替えを用意し始めて。
船長さんはというと、こちらも何も言わずに私が掛けていたブランケットを剥ぎ取り、そのまま私を抱き上げる。
「さ!お風呂行こう!」
意気揚々に言うイッカクだけど、私の頭は混乱する一方。
何故私は船長さんに抱えられているのか。
確かにお風呂に入りたいとは言った。
それならお風呂場まで連れて行ってくれるのはベポやシャチじゃダメだったのか。
その答えは向かった先にあったみたいで、部屋を出て廊下を歩いている時に気付く。
これは船長室に向かっているのではないかと。
「お邪魔しま〜す!」
案の定、着いた先は船長室。
イッカクのお気楽な声とは裏腹に私の混乱はピークに達する勢い。
船長さんはこの前のソファーに私を下ろすと、予め用意されいたであろうものを使ってギプスに何やら処置をしてくれている。
「な、何を…?」
「風呂に入るにしてもギプスは外せねェからな」
確かに、お風呂に入るならギプスが濡れてしまうのはまずい。
それは分かるけど、この処置をするなら私がいる部屋でもよかったのでは?
何故わざわざ船長室に?
悶々としているうちにギプスには丁寧にビニールが付けられていく。
反対の足も同様に処置をすると船長さんは準備が出来たら呼べ、と言い残し部屋を出て言ってしまう。
何が起こっているのか早く説明して欲しい。
「イッカク、これは一体…?」
「あ!ごめん。言うのが遅くなった。うちのお風呂ってクルーが使う所はシャワー室しかないの。しかも入れ替え制だし。レイラはまだ立てないでしょ?キャプテンはああ見えて綺麗好きだから、唯一ここにはバスタブと洗い場があるのよね」
イッカクは洗面台の隣の扉を指差す。
船長室に入った時に何の扉だろうとは思ったけど、まさかお風呂だったなんて。
だけど今はそんな悠長なことを考えてる暇はない。
今の説明からすると、私は船長さんのお風呂を貸してもらうことになったということ。
ちょっとした願望を伝えただけなのに大事になってしまった。
どうしようと今度は頭をフル回転させている間に、イッカクは私の服をテキパキ脱がせていく。
「イ、イッカク、やっぱりいいよ」
「ここまで来て何言ってんの!頑張ってキャプテンに頼んだんだから!うーん、これをこうして…よし!これでいいかな?」
あっという間に服は剥ぎ取られ、代わりにバスタオルがしっかり巻かれる。
髪も上げられ、うなじから肩までを覆うものは何もなく、空気に触れてひんやり冷たい。
「私じゃ運べないからごめんね?バスタオル巻いてるから大丈夫よね?」
イッカクの意図してることが分かって小さく頷く。
体を流すのは私だから安心してと言うとイッカクは船長さんが出ていった方のドアを開けた。
外では船長さんが待っていたらしく、室内に戻ってくると再び私を抱き上げる。
今までと違い、肌を隠しているのはバスタオル一枚。
いくら手術の時のことがあるとは言え、意識があるときにこれはかなり恥ずかしい。
「大丈夫か?顔、赤いぞ」
そんなの当たり前。
この状況で平常心を保っていられるわけがない。
きっと船長さんは分かってて言ってるんだ。
こういう所は狡いと思う。
恥ずかしさのあまりとてもじゃないけど顔は上げられない。
お風呂場へ到着すると椅子に下ろされる。
それまでの道のりがとてつもなく長く感じられた。
「くれぐれも怪我するんじゃねェぞ」
去り際にポンと頭に掌が乗った気がした。
入れ違いにツナギの袖と裾を捲り、長い髪を一纏めにしたイッカクが入って来る。
「お客さん〜まずは髪から洗いますね」
適温にされたシャワーが髪に当てられシャンプーがつけられる。
忘れかけていた感覚。
とても気持ちいい。
「前々から思ってたけど、レイラの髪って綺麗だよね。伸ばせばいいのに」
「それは考えたことなかったなぁ」
「髪が長いとオシャレの幅も広がるし!なんなら私が教えてあげる」
「ほんと?」
「まっかせなさい!」
泡をわしゃわしゃ泡立てながらイッカクはニカッと笑った。
なんだか女の子っぽい会話をしてる。
それが私はとても嬉しくて。
オシャレもいいかもしれないという気になってくる。
そして何より、背中のものについてイッカクは一切触れてこなかった。
「イッカク、ありがとう」
「いいのよ。あとキャプテンにもお礼言っておいてね。まさか本当にお風呂貸してくれるなんて思わなかったけど。この前の夕食の時といい、キャプテンかなりレイラのこと気に入ってるんだと思う」
「そ、そう…?」
「うん!間違いない!」
そんな自信満々に言われても反応に困ってしまう。
気に入られてるかどうかなんて自分では分からないし。
ただ最初こそ怖いと思ったものの、今はその印象は遥か遠くに消え去ろうとしている。
イッカクに髪を洗ってもらっている間に自分で体を洗う。
別に髪も一人で洗えると思ったけど、お風呂場で何かあれば大怪我に繋がることもある。
足を気にしつつだからイッカクが居てくれるのは正直有難い。
◆
髪も体も綺麗になるとバスタオルでしっかり拭く。
髪はまた上に上げて、新しいバスタオルを体に巻かれた。
「じゃあ、キャプテン呼んでくる」
分かってはいるけどやっぱり緊張する。
お風呂場に現れた船長さんもまたいつものジーンズの裾を少しだけ捲っていた。
抱き上げられてソファーに移動する。
髪の毛からポタポタ落ちる水滴がパーカーを濡らさないかドキドキした。
ソファーに私を下ろすと船長さんはまた外に出て行ってしまった。
気を遣わせてしまっていてとても心苦しい。
「イッカク…あの、私…見られるの、な、慣れてるから…その…」
「っ!ダメよ!そう言うこと絶対言っちゃダメ!」
意を決して発した言葉は言い終わらないうちに全力で却下された。
言葉にするだけでこうなんだ。
当たり前だけど大丈夫なわけではない。
今まで思い出さないように閉じ込めていた記憶が甦ってしまいそうな気がする。
私は巻かれていたタオルを掴んだ手に力を込めた。
イッカクはしゃがみこんで私に視線を合わせて、ぎゅっと手を握ってくれる。
「いい?レイラ。私にこんなこと言う資格はないと思う。あなたが今までどんな扱いを受けて来たのか私は知らない。きっと私じゃ想像も出来ないし、耐えられないかもしれない。でもそんなこと、例え相手がキャプテンでも絶対言っちゃダメ。私が許さないんだから」
いつになく真剣な表情に私は謝ることしか出来なかった。
そんな私にイッカクは分かればよろしい、とふんわり微笑む。
「ほら!風邪でも引いたらそれこそキャプテンに怒られる!」
着替えのワンピースタイプの寝間着が渡され素早く頭から着る。
着終わったのを確認してイッカクは船長さんが待っているドアを開けた。
仕方なかったとはいえ、やっぱり申し訳ない。
「じゃあ私はちょっと片付けてくるね」
イッカクはお風呂場へ消えてしまい、また船長さんと二人きりの空間になる。
本を貰った時とはまた違う雰囲気で。
なんというか、気まずい。
それでもちゃんと伝えることは伝えなければと思い口を開いた。
「お風呂ありがとうございます。でもすみません。船長さんにもご迷惑を掛けてしまって…」
「いや、いい。寧ろもっと早く気付くべきだったな」
さっきのことがあったせいかまともに船長さんの顔が見れない。
俯いたままだった私の髪からはポタポタと雫が落ちて、ワンピースを濡らしていく。
すると小さく溜め息が聞こえた。
「風邪引くぞ」
足音が近づいてきて、私が持っていたバスタオルが奪い取られた。
そして後ろからガシガシと髪の毛を拭かれる。
視界には揺れるバスタオルしか見えない。
「レイラ」
どうにかバスタオルを取り戻そうと腕を上げた時、不意に名前を呼ばれた。
髪を拭く手も止まっている。
チラリとバスタオルを避けて船長さんを見上げると、今日初めて目が合った。
「明日、マリンフォードへ行く。海軍本部だ」
「海軍…本、部?」
何を言われたのか分からなかった。
私は何かしてしまったかな。
何も出来ない私を船に乗せていても得になることなんてない。
寧ろ迷惑を掛けている。
春島で流れ星を見ながら考えた願いはやっぱり叶わないんだ。
視界がだんだんぼやけて来ているのが分かる。
「ったく、泣くな。お前を海軍に渡しに行くんじゃねェよ」
「…え?」
「見ておきてェモンがある。ただ戦闘は避けられない。大将だっているだろう。きっと船もかなり揺れると思うが気にするな」
溢れそうになっていた涙は船長さんが持っていたバスタオルに吸い込まれていった。
海軍に渡しに行くのではないと聞いて私は胸を撫で下ろす。
とても、とても、安心した。
でもマリンフォードで何が起きているのか。
それはそれで不安が押し寄せてくる。
「お話、終わりました…?」
お風呂場のドアの隙間からイッカクがソッと顔を覗かせる。
船長さんがあァと小さく言えば勢いよく飛び出して来た。
ソファーまで近づくと私の隣に腰を下ろしてぎゅっと抱き締められる。
「イ、イッカク?」
「大丈夫よ。レイラを海軍になんて渡さない。あなたには私達がついてる」
「…っ!」
ベポも言ってくれた言葉。
どうしてこの人達はこんなに優しいんだろう。
引っ込んだ涙がまた溢れて来てしまう。
私はイッカクの背中に腕を回すと小さく力を込める。
その時、頭にまたあの暖かい掌の感覚を感じた。