▼お静かに
普段鳴ること自体少ない携帯が着信を告げていた。おそ松兄さんの髪を掴んでいた手を離し、バレない様そっと電話を持ち廊下に出る。部屋の中では相変わらずドタバタと争っているのが分かった。
「一松ですけど」
『…もしもし、名前です。こんばんは』
名前ちゃんから電話を貰った事は何度かあるけど、こんな時間に掛かってくるのは初めてだった。彼女は早朝から働いて、夜は割と早く寝るらしいし。となると余程重要な用事があるのか。確かに名前ちゃんの声色は決して良くはない。
『夜分遅くにごめんね…っていうか逆にごめんねして欲しいかも…』
「え?ご、ごめん…?何、どういう事」
謝れと言われてつい謝ってしまったが、心当たりは無かった。何かしたんだろうか。こないだ名前ちゃんと飲んで記憶が飛んでるからその時に何かしでかしたか。もしや酔った勢いでヤって妊娠…クズでニートの僕に責任なんて取れる訳が無い。あ、でも本当にそうなら別にもっと早い時間に言うか。
『あー……えっと、通りと反対側の…裏の方、ちょっと来てみてくれる?』
「は?裏……?」
来てみてくれる、とは。何やら違和感を覚えながら、言われた通りに兄弟達が争う部屋の反対側に向かう。するとコツコツと窓を軽く叩く音がした。
「……あ」
「…どうも」
窓を開けたら、少し離れて建つ家のベランダに、名前ちゃんが居た。窓を叩くのに使ったであろう布団叩きを転がし、通話を切る。
「え、何で居んの」
「実家松野さんちの裏だからね。んで今帰省中」
そういえば実家は同じ町内って言ってたけど、こんなに近かったのか。
「…それより何の騒ぎなのこれ…?ここまで聞こえてくるんだけど」
ベランダに立つ名前ちゃんは目を擦りながら少し不機嫌そうだった。つか寝間着。薄手の生地のワンピースみたいなのにカーディガン羽織ってるだけで、いつもは見えない首元とか素足が眩しい。
「…あー、それはごめん。今喧嘩中で」
「…喧嘩?」
努めて平静を装いながら言えば、名前ちゃんは顔を顰める。それと同時に後ろからドタドタと忙しない足音が近付いてきた。
「一松兄さん見ーっけ!あ、名前ちゃんだ!こんばんはー!」
僕が居なくなった事に気付いた十四松が探しに来たらしい。夜中でも声を張り上げる十四松に名前ちゃんは顔を引き攣らせる。
「こ、こんばんは五男くん…元気だね…自分で元気すぎると思わない…?」
「うおー!めっちゃ機嫌悪いね名前ちゃん!生理前!?」
「十四松、それ普通にセクハラ」
十四松だからまだギリギリ許されるかもしれないが随分ぶっ込んできたな。
「…いや、そのね、私の都合で知ったことじゃないとは思うんだけど…明日朝早いからほんとどうにか静かにして貰えないかな…」
名前ちゃんは十四松の問題発言に関してはそれ程気にしてない様で、寝付けないからと付け足し欠伸した。
「早いって…仕事?」
「うん…仕事始め…早めに支度しなきゃ駄目なの」
成る程、そりゃまともに働いてる名前ちゃんが僕らみたいなニートに安眠妨害されたら堪ったもんじゃないな。僕だってキレる。
「ならあいつらワイヤーとかでキュッと黙らせるからそれまでちょっと我慢してくれる?」
「う、うーん、出来るだけ穏便にならないのかなぁ…」
「多分無理」
生易しいものじゃあいつらは静かにならない。ワイヤー、確か押し入れの奥に無かったかな。問題の部屋に戻ろうとすれば、それなりにボロボロになった末弟がこっちに向かってきていた。
「ちょっと一松兄さん十四松兄さん、何二人だけ避難してん、名前ちゃん!?」
キレるトド松は名前ちゃんの姿を見て驚き声を上げた。名前ちゃんは迷惑そうに目を細める。
「また続々と…えっと、十四松兄さんって呼んでるから……トッティくん?こんばんは」
名前ちゃんから出たその名前にふっと吹き出してしまった。ほんと最高。
「ちょっと名前ちゃんその呼び方誰に聞いたの!?」
「一松くんがそう呼んであげてって前に」
「あーあーそういう事するんだ!?ほんっと大人気無いよね!十四松兄さん、卍固め……ああっ話の流れ!」
お決まりのパターンでトド松本人に卍固めが決まっている間に、懐に入れていたトド松のズリネタを取り出した。
「名前ちゃんもトッティのエロ本見るぅ?こいつこんなんで抜いてんだよ」
「え、えろ…?うひゃあ、凄いね」
「何してんだ陰湿四男!あああ名前ちゃん見ないで!忘れて忘れて!ね!」
僕の手にあり名前ちゃんが怪訝そうに注視するそれを、トド松は必死の形相で奪い返した。
「えーっと、何?一松くんとトッティくんが喧嘩?」
「まぁそれはそうだけど、割と入り乱れてる」
トッティとのは実質僕が勝ったみたいな感じはあるけど、それでも部屋は騒がしいままだった。
「上三人は何やってるの…」
「そもそもおそ松兄さんがチョロ松兄さんシコってるとこ見ちゃったのが原因だし」
「え、ちょっと訳分かんない…分かるように言って」
「クソ童貞のチョロ松兄さんがおそ松兄さんにオナニー見られて食卓で皆で弄ったらキレた」
「一松兄さんそれ女の子の前で言う台詞じゃないよね!?」
「へぇー…兄弟居るとそんな事あるんだ…」
「名前ちゃんも何で普通に聞き入れてるの!?」
トド松は信じられない物を見るみたいに僕と名前ちゃんの遣り取りに突っ込む。お前知らないだろうけど名前ちゃん割と下ネタ平気だからな。本人を巻き込む様なのは憚られるけど。
「それでどうして一松くん達も喧嘩してるの?」
「色々飛び火した結果」
「はー…難しいね」
経緯を説明するのは面倒だったし、トド松につつかれた話題を掘り返すのも嫌だからざっくりと言えば、名前ちゃんは首を傾げた。
「あっ、おいトッティてめぇコラ逃げやがって!俺まだお前のドルオタディス許してな、い………」
噂をすれば渦中のオナバレチョロ松兄さんがトド松を追い掛けてこっちに来た、かと思ったら壁に頭を打ち付けて動かなくなる。
「あっれー、チョロ松兄さん固まっちゃった!ドゥイドゥイ!」
「えー…もう何が起きてるの…」
「あ、多分これはクソ童貞が名前ちゃんの寝間着姿直視して死んでるだけ」
「私メデューサか何か!?そ、そんな見苦しかったの…すっぴんきつい?」
「いや、クソ童貞のチェリー松兄さんには刺激が強すぎるってだけだから。ちゃんと可愛いよ」
「ははは、それはどうも…」
トド松がポイント稼ぎ見え見えに褒めても名前ちゃんは社交辞令として受け取ったらしく笑い流していた。お前は知らないだろうけど名前ちゃんレズだし無駄だからな。
とは言えトド松がポイント稼ぎの前に言った事に思う所がある様で、名前ちゃんはうーんと唸ってから口を開く。
「今時アイドルとか写真集でもっと刺激的な格好してるよ?それこそ最近出た橋本にゃーちゃんの写真集だって水着いっぱいあったし。私なんかでそんなおかしくなる?」
「アイドルと身近な女の子は違うでしょ。素人ものの方が興奮するみたいな」
「ってことは身近なトト子ちゃんもそういう目で見てるの!?そういう事なの!?」
「名前ちゃんどうしたの落ち着いて!」
名前ちゃんはベランダの縁から身を乗り出した。トト子ちゃん関連となると彼女は人が変わった様にアグレッシブになるし、何がきっかけでスイッチ入るか分かったもんじゃない。知っている僕からしたら何で名前ちゃんがトト子ちゃんを好きだとバレてないか疑問なぐらい露骨な気がするんだけど。
「…あ、ご、ごめん……え、でも実際どうなの?トト子ちゃんでその……したりするの?」
「え?何をするって?」
「だ、だからその…あれ」
言わんとしている事は分かるが、何となく聞き返してみる。下ネタ耐性があると言えど流石に口にするのは躊躇している様だった。
「分かる様に言って貰わんと困りますなぁ、お嬢ちゃん」
「何言わそうとしてんの!」
うるせぇトッティ今大事なとこだろうが。
「ト、トト子ちゃんを寄って集ってオナペットにしてるのかって聞いてるの!」
「ほらぁ!およそ女の子から飛び出しちゃいけないワード出てきちゃったよ!?どうしてくれんの一松兄さん!」
何か思ってた感じと違った。
「…あー、僕はトト子ちゃんでは抜かない。つか抜いちゃいけない気がするし」
「一松くん…!さすが、よく分かってるよね…!」
「いや何で株上がってるのさ…」
名前ちゃんはトト子ちゃんが汚されてなければいい、と目で語っていた。それに気付いてないトド松は名前ちゃんがわかんない、と呟く。分かんなくていいから。
「…はっ!?パジャマ着た名前ちゃんの幻覚で意識どっか行っちゃってた気がする…」
「チョロ松兄さんおはよー!」
十四松がつつきまくって息を吹き返したチョロ松兄さんは頭を抱え込む。童貞振り切れてると現実逃避するんだなぁ。
「幻覚じゃないよ。そこの実家に帰省中だってさ。あとクソ童貞のシコ松兄さんには分からないかもしれないけどパジャマじゃなくてネグリジェだからね」
「そこ重要!?そもそもどう違うんだよ分かんねぇよ!」
トド松が訂正する。無駄に培ってきた女子力からその辺りの間違いには煩い。
「ズボン履いてるか履いてないかだよ。つまり名前ちゃん今あの下生足、もっと言えば下着な訳」
「は…!?」
想像力豊かな童貞になんて事吹き込むんだこいつ。
「おいトッティ…シコティッシュフォールド松にズリネタ提供すんな」
「あ、ごっめーん!」
兄弟に名前ちゃんをおかずにされたら流石にムカつくのでトド松の胸倉を掴めばにやついていた。確信犯かこいつ。
「シコティッシュフォールド松って誰!?猫知識交えた蔑称付けるのやめてくれる!?っていうか名前ちゃん御本人の前でズリネタとか言うお前ら何なのドン引きだよ!?」
び、とチョロ松兄さんが名前ちゃんを指差しながら声を荒げる。そういえば彼女さっきから黙ったままだった。心ここにあらずといった表情。
「…引いてる?」
「…え?あっ、あー…なんか現実味無いから特に何とも…」
恐る恐る聞いてみれば、名前ちゃんの顔に弾かれたように表情が戻る。返ってきたのは意外にも冷め気味な否定だった。現実味が無いって何だろう。チョロ松兄さんは全く対象外って事か。それはそれは。
「…じゃあ僕も名前ちゃんで抜いていい訳」
「待て待て待て!お前が言うと普通に生々しいんだよ一松!つか俺が名前ちゃんで抜く事確定みたいな言い方やめろ!」
便乗して許可でも貰っちゃおうと思ってそう言えば、対象外兄さんが騒ぎ立てる。
「ごめんね、名前ちゃん。下半身で物考えてる奴ばっかで」
「は?何それシコ松兄さんにだけは言われたくな、………名前ちゃん?」
さっきみたいに無感情で「別にいいけど」と返ってくる筈が、全然来ない。対象外兄さんは良くても僕はキモいから駄目なのか。今度こそドン引きされたのか。さっき以上におっかなびっくり様子を窺うと、
「っそ、それは、…恥ずかしい、から…無しの方向で…」
「…………は…?」
―――ちょっと待て、何で顔赤くしてんの?どういう意味の赤面だそれ?思っていた反応と全然違うんだけど。何だその不意打ち。何なんだよ。え、多少は意識されてんの?
怒涛の様に浮かぶそれらと裏腹に、あ、とかええと、とか吃る事しか出来なかった。名前ちゃんは名前ちゃんでベランダの縁に顔伏せてるし。耳まで赤いけどほんとどういう意味なんだよそれ。
「…と、とりあえず、さ。なんかあっちも静かになってるし、もう大丈夫だと思うけど」
「う、うん…ありがと…ごめんね…」
「…い、いや、煩くしたのはこっちだから。その…仕事、頑張って」
「……うん……がんばる…」
なんか幼児退行してないか。こんなぎこちない会話交わした事ねぇよ。どうしてくれるんだよこの感じ。
名前ちゃんは自分の頭を軽くぐしゃっと掻いてから部屋に戻ろうとする。
「あ、ええっと…じゃ、じゃあ、おやすみなさい…それと今日はもう騒がないでくれると嬉しい…」
「あ、うん!おやすみ、名前ちゃん」
「ほんと色々ごめんね、おやすみ」
「おやすみー!今度野球しようねー!」
僕以外とは滞り無く交わされる挨拶を聞き流しながら黙り込んでいると、十四松が何か言いたげにつついてきた。
「…………おやすみ…」
絞り出すみたいに言えば、名前ちゃんも同じ四文字を返してきて、からからと窓が閉じられた。
「………なんか…不思議な体験したわ俺…」
「あー、それ分かる。寝る前の女子と話すってファンタジーだよね」
しみじみ言ってる三男末弟には特に反応せず、古戦場(と言う名の寝室)に戻れば上二人が既に床に就いていた。道理で静かになった訳だ。
「僕たちももう寝よっか…あーあ、結局一松兄さんが役得なだけだったしー」
「にーさんラブコメしてたねー!」
「……一松、あのクソ立て看板使う?」
「うるさいな!いいよトイレ使うから!」
僕はまだ寝れそうにない。
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