▼乾燥する季節の話
「…あ」
猫を撫でようと伸ばした手元からばち、と一瞬痛みが走る。猫も驚いて逃げて行ってしまった。あー、もうそんな時期か。
「ありゃ、随分派手に鳴ったけど…大丈夫?」
猫が逃げて行った方向を眺める僕に影が掛かる。スーツにコートの名前ちゃんが後ろに立っていた。ここ路地裏なんですけど何で居るんですかね。まぁまだ明るいし人が居るからいいか、と深く聞かずに自分の手を見つめる。
「…僕はいいけど、猫が」
「んー、確かにあれだけ強いと猫ちゃんは辛いかも」
「………はは、笑えるよね」
猫しか友達が居ないのに、その猫にすら嫌がられるのは流石に。
「…乾燥してるからかなぁ。ちょっと手出してくれる?」
「…?」
余程分かりやすく顔に出ていたのか、名前ちゃんは僕の正面に立ち、掌を自分に向けるようジェスチャーした。よく分からないまま手を出せば、
「…っう、わ。何」
にゅ、と鞄から取り出したハンドクリームらしきものの中身を乗せられた。
「あ、ごめん吃驚させちゃった?しっとりしてれば静電気防止になるかと思ったんだけど…ほら、延ばして延ばして」
言われた通りに延ばしてみると、手から僕らしからぬいい匂いがして変な感じ。確かに静電気は起こりにくくなるかもしれない。しかしだ。
「……すげぇベタベタする」
「え?あー、ごめん。ちょっと出し過ぎたかも……」
やけにてらてら光る手の所在に困っていると、名前ちゃんは手袋を外し、
「ちょっと失礼しますねー」
「え」
「あら、一松くん手冷たい」
僕の指の間に自分の指を滑り込ませた。
「な、なん…何してんの」
「会社で女の子がやってたんだー、ハンドクリーム出し過ぎたから貰ってください、ってやつ。皆よく考えるよね」
「私にもやってくれないかなー」とか笑いながら、暖かくて柔らかい感触が手のべたつきを少しずつ奪っていく。
―――何の慈善事業だこれ。
「……何で僕にやってんだよ…」
「あ、ごめん。嫌だった?」
呆れて言えば名前ちゃんの表情が一気に曇り手を引っ込めようとしたので、咄嗟に握り返して嫌じゃないアピールをしてやった。彼女は一瞬目を丸くしたがすぐにいつもの気の抜けた笑顔になる。
「…僕じゃなくて女の子の方がいいんじゃないのって話」
「出し過ぎちゃったのは今だし、勿体無いから……っていうかやっぱり手おっきいね。男の人の手なんて初めて握ったかも」
しげしげと絡んだ手を眺めてそんな事を言うもんだから、僕も彼女の手を見てしまう。確かに僕より小さくて、指も細い。こっちだって女の子の手なんて殆ど握った事無いし、しかも例の忌々しいレンタル彼女の時ぐらいだから実質初めてなんじゃないか。そう意識してしまうと更に気まずくなって目を逸らした。
「…ん、もういいかな。まだベタベタする?」
こっちは違う意味でベタベタしたいんですけど、とは勿論言える訳も無い。首を振ると名前ちゃんの手はあっさり離れる。さっき冷たかった指先は彼女の熱が移ったみたいに暖かくなっていた。
「そういえば、手が冷たい人は心が暖かいって言うよね」
「気遣ってるだけでしょ」
「さっきまで私もそう思ってたけど、実際一松くんの手冷たかったから信じちゃうかもー、なんて」
「……馬鹿じゃん」
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