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 思わず顔を埋めた背中は思っていたよりも広くて、男の人ってこうなんだって新鮮な気持ちと、私の煩い心臓の音が伝わってなければいいけどって願望が頭をぐるぐる回っていた。


「…あのさ、名前ちゃん」
「っひゃ、ひゃい!?」
「動揺しすぎだから…めっちゃバクバク言ってるし」
「え!?ご、ごめんね煩くて!」
「いや、謝んなくていいけど…」


 普通にバレてた。恥ずかしくて身体を離すと、一松くんはやっとこちらを振り向いた。暗がりでも何となく分かる程度に顔が赤くなっている。一度彼の気持ちを知ってしまうと、その赤面の意味を理解出来てしまって、また恥ずかしくなる。顔がまともに見れない。


「あっ、そ、そうだ。カラ松くんに荷物預かって貰ってるから橋の所まで戻らないと!」


 この雰囲気が居た堪れなくて、何とか抜け出せないか、と思い浮かんだのがそれだった。一松くんを追い掛ける時に私の背中を押した彼の兄、そして預けた荷物。


「あいつにィ…?」
「そ、そんな露骨に嫌な顔しないでよ」


 当然ながら一松くんの顔が嫌そうに歪む。彼の言う所の嫉妬してもいい立場―――恋人になったって認識で良いんだろうけど、それにしても順応性が高いと言うか何て言うか。私が苦笑いをすると、彼は歪めていた表情をいつもの気怠げなものに戻し、少し考え込む。


「…じゃあ、これで」


 そして私の手を上から握り締めた。意識がある内に一松くんから接触してくるのは多分初めてで、ドキリとする。今日は暖かいんだな、といつかの冷たさを思い出す。


「あいつが名前ちゃんに変な気起こさない様に見せ付けてやる」
「……案外子供っぽい事するんだね」
「嫌だったらやめるけど」
「そうじゃなくて、ええっと…こうじゃない?」


 一度するりと手から抜け出すと彼の顔が曇ったけれど、私が彼の五本の指の間に自分のそれを滑り込ませれば、はっとして顔を背けた。それに頬が緩みながら、来た道を引き返す為に歩き出す。


「……名前ちゃんさぁ、僕への対人距離っていうか、スキンシップっていうか…おかしいでしょ」
「え、そう?」
「好きでもない男にやったら駄目だから。無駄に勘違いさせるだけだから」
「でも一松くんにしかしてないし。結果的に勘違いはさせてないよね?」
「…さっきまで好きとか思ってなかった癖に」
「人間的には最初から好きだったんだと思うよ。でなきゃ頼らないもん」


 先程までの投げやりな態度から一転して強気につついてくる一松くんに、負けじと言い返していく。多分口でならまだ負けない筈で、彼は口を噤んでしまう。それでも無言が苦じゃなくて、カラ松くんが待つ橋の上までずっとそんな感じだった。


「……よぉ、クソ松」


 兄への第一声がそれなのか一松くん。


「…無事帰還を果たしたかブラザー。狂気の夜は終わったかい?」
「意味わっかんね」
「ふ、どうやら俺は恋のクピドになってしまったようだな…」
「うるせぇ喋んな」
「あっ、はい」


 一松くんとカラ松くんの会話を見るのは初めてだけれど、傍から見てると一松くんが噛み付いているだけに思う。攻撃的な一松くんはこれまた新鮮で面白い。二人の間に何があったのかはその内知る事が出来るんだろうか。
 その前に、忘れない内に彼に預けた荷物を受け取っておかないといけない。


「カラ松くん、待たせちゃってごめんね。荷物ありがとう」
「いや、こっちこそすまなかったな…大丈夫か?」
「え、あー、大丈夫…」


 滞り無く荷物を返して貰い、自分の額を指しながら心配そうな顔をするカラ松くんに、そういえば額擦ったなぁと思い出す。痛みは引いているけれど、そんなに見た目酷いのかな。


「それで、これからどうするんだ?」
「…名前ちゃん送って帰る」
「ああ、分かった。そろそろ銭湯も閉まるからなるべく急いでな」


 腕時計をそっと見ると短針が八と九の丁度真ん中を指していた。一松くんを呼んだのが六時ぐらいだったから、たったの二、三時間程でこんな事になったのかと、感慨深い様な現実味が無い様な。


「いきなり送り狼はいけないぞー」


 別れ際、背中に掛けられた兄からの茶化しに一松くんは「分かってるっつの」と鬱陶しそうに吐き捨てた。


「…クッソ余裕そうで腹立つ」
「はは、面白い人だよねカラ松くん」
「あいつの事褒めないでくれる」
「…はぁい」


 繋いでいた手は自然に離れ、代わりにスーパーの袋を持ってくれている一松くんは、足元を蹴りながら本当に面白くなさそうな顔で言う。妬いて貰えるのは正直嬉しくて、頬が緩んだ。


「……名前ちゃんはこれからどうしたいの」
「え?送ってくれるって」
「そっちじゃなくて今後。僕は名前ちゃんと…そういう事もしたいって思ってるけど」
「…そ、そっちですか…」


 一松くんはじとりとこちらを見て聞いてくる。トト子ちゃんについての相談でも出てきた、所謂肉体的な接触の事だとはすぐに分かった。


「……別に強要はしないから。嫌われたくないし」
「い、嫌じゃないよ。そりゃ急には難しいけど…」


 今まで自分が男の人とそういう事をするなんて考えた事も無かったし、想像もつかない。けれど、決して嫌だとは思わなかった。


「…一松くんがしたい事には応えたいし、ただ、こう、順を追ってくれると有り難いなぁ、とは思う」
「……ん」


 普通に本音で言えば、一松くんはとりあえずは納得してくれたみたいで、頷いて前を向く。私の住むマンションが見えてきた。丁度、松野さんちとの別れ道。


「あ、ここまででいいよ。送ってくれてありがと」
「別に…」
「…あの、ね。こんな事頼むのはおかしいかもしれないけど…また、相談にも乗ってくれる?」


 今後もトト子ちゃん絡みで悩みは尽きないだろう。それを恋仲になった一松くんに相談するのは変だとは思う。それでも、やっぱり話せるのは彼にだけだから。


「………主観的な意見多くなるけど、それでもいいの」
「…うん。これからも宜しくお願いします」


 彼からの返事は芳しいものではなかったけれど。奇妙な関係は、少しだけ形を変えて続くらしい。




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