「あー、恵くんだあ」

間延びした声で呼びかけられて、伏黒恵は足を止めた。
新宿駅から伊勢丹を通り過ぎたあたり、もう少し行ったところの何らかの店舗で釘崎が性懲りもなく服を購入しているらしい。荷物が多い、手伝えと連絡が入り、手伝う気はサラサラ無いものの、だからといって特に行きたい場所も無かった伏黒は、とりあえずと指定された店舗前まで向かっているところだった。
掛けられた声はいわゆる『ゆるふわ』というやつで、釘崎が叫びながら頭を掻きむしるようなポヤポヤ感が出ていた。振り返ってみると絶対お前の声でしかないよなと言いたくなるほどのんびりした佇まいをした少女がこれまたゆっくりと歩いてくるのが見える。薄いピンク色のふわふわしていながら丈の短いワンピース、高い位置でツインテールにされている髪。太ももの半分までを覆ったブーツ。化粧は薄いがそれとなく長い睫毛と大きなアーモンド形の瞳をアピールするようにブラウンのシャドウが入っている。全身で童貞を殺しにかかってきている。

「久しぶり。元気だった?」

「……お、おう」

中学校のクラスメイトの登場に伏黒は変に緊張して不自然に返事をする。このゆるふわ女は伏黒恵の義理の姉である伏黒津美紀の友人だったはずだ。委員長気質でそこまで友人が多い方ではなかった津美紀とよく一緒に行動していたので覚えている。当時からたびたび男子どもに下世話なオカズにされがちな風貌をしていた。小さくて細身、幼い顔つきでありながら、グラビア女優かと噂されるまでにこの女は乳がデカいのである。特別仲良くはなかった伏黒でさえ、この女のモテモテ伝説を小耳に挟んだことがあるのだ。実際は伏黒などには想像つかないほどにモテていたのだろう。

「恵くんも東京に来ていたんだね」

あざといまでににっこりとされ、どういう原理か首を軽くかしげる動きに合わせてデカい胸がぼよんと上下した。こんな往来でなんだコイツと逆にスンとなってしまう伏黒であった。

「みょうじはどうして東京に?」

慣れてくると単なる乳デカ女だ。めっっっっちゃ可愛い格好をした、ただの姉の友達。津美紀の親友とも言える女を無下に扱うことはできず、何となく会話をつなげてしまった。おおかた買い物に来たか何かだろうなと想定していた伏黒だったが、ぱちりと瞬きをしたみょうじは何か悪だくみを思いついたように口の端を軽く上げる。

「どうしてでしょう?当ててみて!」

クッソウゼェ。当てる気も会話する気もなくした伏黒は、先ほど姉の友人をどうのと考えていたことなどあっさり捨てて、みょうじを放置して釘崎との待ち合わせ場所へと歩き始めた。慌ててみょうじが追いかけてくる。

「ノリ悪くない?やだぁ恵くん、都会の荒波に揉まれて変わってしまったのね」

「俺は生まれてから今までずっとこういうノリだ」

「中学卒業以来なんだからもっとお喋りしようよお!あ、ほらスタバの新しいラテ、わたし飲みたいなあ」

「俺はいらん」

「つれないなあ〜こんなにかわいいなまえちゃんをほっとくなんて、わたしが悪い大人に連れ去られてもいいのー?」

「自衛ができねえなら東京来んなよ」

「一理ある!相変わらず恵くん頭いいねえ」

自分で言うだけあって傍から見たらなかなかかわいい部類であるからか、みょうじは周りの視線をちらほらと集めていた。悪い大人の第一人者であるだろうと思われる中年のオッサンや、ナンパ目的としか思えないほどのチャラい容姿をした青年がみょうじの揺れる髪と短いスカートと跳ねる胸をうざったいまでにちらちら見ている。マジで、自衛できないなら帰ってほしかった。面倒を持ち込まれていい気分はしない。
ちょろちょろとついてくる小柄な体が伏黒の視界をかすめる。むしろさっさと駅まで送って家に帰そうと考えて、伏黒は進行方向を変えようとした。そんな伏黒にもう一人の女が声をかける。

「おせーよ伏黒!呼んでからどんだけ経ってると思ってんの」

「……釘崎」

ゲッ、と顔が歪むのを隠せなかった。みょうじは新手に驚いたのか伏黒の背にサッと身を隠した。浮いた話のひとつもないと思っていた伏黒の後ろに立つみょうじに、釘崎は面白いものを見つけたとばかり目を輝かせる。大量の荷物もなんのそのと駆け寄ってきてみょうじに話しかけてきた。

「あらぁ!やだ、伏黒可愛い子引っ掛けちゃって!お邪魔だったかしら?」

「そう思うなら離れろ」

「いやー、伏黒こういう子が好きなのね。ゆるふわの可愛い系!そりゃ私の魅力になびかないわけだわ」

「いや、ただの姉の友人だから」

「そんなこと言っちゃって。いいのよ恥ずかしがらなくて!初めまして、私は釘崎野薔薇。あなたは……」

伏黒の背後を覗き込んだ釘崎はそこで言葉を止めた。訝しげに伏黒は釘崎に声をかける。

「おい」

「……伏黒、この子、やばいわ」

ただならぬ気配に伏黒は目を見張った。姉の関係者として最悪の展開が脳裏をかすめる。まさかそんな、呪霊の気配なんて。釘崎と目を合わせたみょうじはいろいろ諦めて、ふんわりと微笑みを浮かべた。釘崎が飛びのく。

「どうした!?」

「伏黒、この子、なまえちゃんだわ」

「……は!?」

「なまえちゃんよ!みょうじなまえ!知らないの!?相変わらずテレビ観ないのね!」

「そ、それと何の関係が」

「みょうじなまえ、最近出てきて人気うなぎのぼりの新人アイドルよ!今時テレビ観たら一日に一回はどこかで見かけるわよ。なんであんたなまえちゃんと知り合いなの?え、なまえちゃん、伏黒なんてやめたほうがいいわよ、見ての通りデリカシーないし」

「おい」

新人アイドルみょうじなまえは困ったように首を傾げた。未だに状況をつかめていない伏黒を見上げて眉を寄せる。

「恵くんは津美紀ちゃんの弟くんってだけで……」

「恵くん!?」

「いや俺の名前だよ」

「道端で見かけたから懐かしくて、お話したいなと思っただけなの。でも、釘崎さんがいるならまたの機会にした方がいいかな。恵くんもつれないし」

みょうじはポケットから小さく折りたたまれた紙を取り出して伏黒に差し出した。受け取るべきかと考えていたが、釘崎から無言の圧力を感じて怖々と紙を受け取る。ちゃんと紙が伏黒の手に渡ったことを確認したみょうじは安心したように息を吐いた。釘崎の荷物を指して笑みを浮かべる。

「恵くん、釘崎さんの荷物持ってあげてねえ。重そうよ」

「大丈夫よ、このくらい。鍛えてるもの」

「釘崎はゴリラだからな」

「そこまで言えとは誰も言ってねえよ」

「ふふ、仲良しなのね」

みょうじの笑顔が一瞬だけ翳る。伏黒は、あ、と気付いた。みょうじの友人であった津美紀は現在呪われてしまって意思疎通ができない。そんな中でみょうじに心を許せる友人といえる人物が果たして存在しているのだろうか。
どう言えばいいのかわからずまごついた伏黒を置いて、みょうじは颯爽と駅の方向へ歩いて行った。背中を見送りながら、本当に釘崎のいうような有名人なのであれば駅まで送ればよかったと伏黒は後悔した。



「知ってる、みょうじなまえだろ。かわいいよな」

「俺が思ってるよりだいぶ有名なのか?」

「多分俺たちの年代だと知らん人の方が少ないぞ。いや、伏黒は呪術師だから知らなくてもおかしくねえけどさ」

これとかこれとか、と虎杖が示してくれるサイトのページを見るためにスマートフォンを覗き込む。ツインテールで大きい吊り目気味の目をした、まごうことなきみょうじの姿がそこにあった。制服のようなブレザーを着て、椅子の背に頬杖をついて足を開いて反対向きに座っている。多少化粧が濃くはなっているようだが、先日遭遇したみょうじの姿とほぼ同一だった。虎杖は「かわいいけど、好みではないんだよな」とぽつりとこぼす。虎杖の好きな異性のタイプを知っている伏黒は、そうだろうなと適当にうなずいた。
あの時渡された紙の切れ端にはみょうじの連絡先らしい電話番号が記載されていた。丸っこい字だった。直筆だろう。アイドルがこんなもん常備するか?と不思議に思った伏黒ではあるが、だからといって何を疑うでもなかったので、何か必要なタイミングがあるのだろうなと結論づけた。もしかしたらナンパされた際に差し出す用の架空の番号かもしれない。そう考えるとこちらから連絡する気力もなく、捨てる気にもならず、ただただ財布の中に入れて保存する羽目になっている。

「珍しいな、伏黒がアイドルの話振ってくんの」

「……そうか」

「なあ何か悩んでんの?釘崎と買い物行ってから何か雰囲気変わったよオマエ」

「気にしすぎだろ」

流していながらも、思い当たる節がある。中学時代の知り合いと会ったことで、あの津美紀が当たり前に存在した中学生活を思い出すことが多くなっていた。明らかにグレ太郎であった伏黒をよく津美紀は見捨てずにやってくれたと思う。そのおかげで伏黒はこの世の善人にまで絶望することを避けられた。その津美紀を支えていたのは、当時は意識していなかったが、おそらくみょうじなのだろう。雑談くらいしてやれば良かったと今なら思える。新人アイドルとしてテレビに出たり歌番組で歌ったり、心労がたまってしまっている可能性がなくもない。

「なまえちゃんに連絡したの?」

「げほ!」

お手洗いから戻ってきた釘崎が伏黒に問う。虎杖は飲んでいたスポーツドリンクを喉に引っ掛けてむせこんだ。そんなに何を驚いているのだと、事の重大さを理解できない伏黒は癖で自らの肩に手を添える。

「しねえよ」

「え、なになに!?伏黒、なまえちゃんの連絡先知ってんの!?」

「コイツのお姉ちゃんの友達だったんだって」

「すげ―縁じゃん!付き合えよ!」

「そんな余裕ねえだろ、多分、お互いに」

「アイドルは恋愛禁止よね。かわいそうに……伏黒なんかよりいい男を紹介してあげたいわ」

「えー!俺は伏黒は普通にいいやつだと思うけどなぁ。器用だし上手く隠しながら付き合えるんじゃねぇの」

「もっとちゃんとかわいいって褒めてあげられるような人がいいわよ、だって相手はアイドルなんだもの」

「……俺とみょうじが付き合う前提で話し進んでるが、別に好きじゃねぇし好かれてもねぇからな」

みょうじが声をかけてきたのも、友達の弟を偶然見かけたなつかしさからだろう。そう言ってたし。伏黒自身も、今日みょうじに会うまで彼女のことなど思い出しすらしなかった。お互いにその程度の存在なのである。いくらアイドルだ巨乳だといっても恋愛感情がなければお付き合いには発展しない。ましてや自分は呪術師。絶対にありえない。
これ以上の追及を避けて、伏黒は外に目線を向ける。みょうじとの思い出などあっただろうか。いつも津美紀の横にいた。不良どもが乳がエロいだの腰がエロいだの言っていたな、そういえば。接点といえばその不良をボコったくらいか。別にみょうじで勝手な妄想をしていたのがムカついたわけじゃなく、それ以前に素行がクソだったから。ヒロイックに襲われているのを助けたわけでもない。そもそも、中学時代に「恵くん」とみょうじに呼ばれた回数自体少ない。両手の指で足りる数だ。

「つまんねぇなあ」

「虎杖だったらどうすんの?」

「うーん、ジェニファー・ローレンスだったら確実にアタックしまくるけど」

「ありえないわよ」

「でも似たようなことじゃね?」

虎杖と釘崎が人の気をよそにわいわい会話をしている。伏黒は溜息を吐いて、次の授業に向けて思考を切り替えた。


「あ・し・たー、雨が降ったら、君のもとに傘をとどける、きょうは、勇気がなーいから、悲しい気持ち塗り替えられないのー」

久しぶりに電源を入れたテレビでは、釘崎の言う通りフリフリの服を着たみょうじが振り付けをしながら踊って歌っていた。新宿で見たような笑顔とは違う、満面の笑みや鮮やかな表情をぼんやりと伏黒は眺めた。カッチリ固めているのか、軽く飛んだり身体を上下させる割には乳が揺れる気配はない。歌に内容もない。よくアイドルが歌いがちなふわっとしたラブソングだ。
中学のときですら見かけることのなかったみょうじの屈託のない笑顔は伏黒の罪悪感を刺激した。本当にみょうじが伏黒の助けを求めているのなら、連絡をするくらいわけもない。津美紀の弟である伏黒の役目だろうとすら思う。ただ、それほど困っているわけでもなかったとしたら?津美紀と気が合っていた以上そんなクソ女だとは思わないが、もし童貞をたぶらかして遊んでたとしたら?下手に仲良くなってしまって伏黒が身を置く呪術界に巻き込んでしまったら?こんな、ステージ上が似合う少女に呪いなんて関わらせたくない。津美紀の二の舞にはさせたくない。
さっさとテレビを消して、伏黒はベッドに横になった。みょうじのものだろうと思われる電話番号は一応自分のスマートフォンに登録してある。こちらの番号は一切教えてないので、連絡が来たら逆に怖いが。



「全然連絡してくれないなあ」

うんともすんとも言わないスマートフォンを手に、みょうじは溜息を吐いた。何週間か前に友人の弟と会ったみょうじは別れ際に彼に自分の連絡先を渡したのだが、まさか連絡を一度もしてきやしないとは思っていなかった。忙しい自分に気を遣っているのか。恵くんはテレビなんか観ないって、釘崎さん言ってたけどなあ。
新宿での遭遇は偶然だと思っている伏黒だったが、もちろんそんなわけがなかった。自分の連絡先をメモした紙を常備するわけがない、ナンパ男じゃあるまいし。伏黒恵は東京に行ったという情報しか得られなかったみょうじは、時間が空くたびに渋谷新宿原宿池袋と東京の大きな駅周りを巡回していたのだ。今回たまたま新宿で会えた。それだけのことだった。

「勘付かれは、してないと思うんだけど」

伏黒のことを思うと胸がどきどきとする。こちらから連絡してしまうのもアリかもしれないが、現時点では東京都立呪術高専という伏黒が世話になっているであろう施設の名前しかわからないから、施設に直で殴り込みをかけるはめになってしまう。国の施設らしいし、公務執行妨害とかになったら嫌だしなあ。施設の名前はわかるのに、どこにあるのかはいくら調べても出てこない。呪術というだけあって不思議である。
みょうじは呪術とはかかわりのない非術師だ。津美紀の件があるまで、そんな非科学的なことがあるとすら思ったことがなかった。今となっては自らその領域に踏み込もうとしている。ホラーは嫌いではないから、その非日常はアリといえばアリだった。
と、プルルルとスマートフォンが鳴る。みょうじはさらりと電話に出た。

「はい」

「見つかった」

「そうですか。どちらへ向かってますか」

「立川の方だな」

「こちらが仕掛けたものですか」

「違うが、ひとつの任務で敵が増えるなど高専の任務にはよくあることだ。心配いらない」

「なるほど。ではまた」

電話を切る。伏黒恵が、みょうじに連絡をしてくれないから悪いのである。こんな無茶な方法で、芸能活動で得た貴重な金を消費までしなければ会うことができないなんて。

「二度会えばそれは運命の出会いよね」

出かける準備をすでに終わらせていたみょうじは近くに置いてあったサマンサタバサのショルダーバッグを肩にかけ、急いで自室を出た。



向かった先の呪霊は倒した。多少手こずったがあの程度では伏黒の敵ではない。見る限りでは終わったが伏黒は気を引き締めたままの状態を継続する。
伏黒の足元で銃弾が跳ねた。撃たれた方向を即座に見やり、手のひらで鵺を形作って距離を取る。

「誰だ?名乗れよ」

「名乗るほどのものでもないさ」

暗がりから姿を現した黒づくめの男に伏黒はピリリと気を張る。この任務は、どこかおかしかった。呪霊のもとまで行くのにかなり道がグネグネしていた。車から降りて伏黒一人で向かった途端に一本道になり、高度な結界の存在を認識したほどだ。そのわりに呪霊が謎に弱いのも変なポイントだ。この程度の強さの呪霊がこんなに希少な結界を張れるわけがない。絶対他に敵がいる。伏黒は一人誘われたのだ。

「あんたを殺してさっさと帰ります」

伏黒はうんざりしていた。呪霊にたどり着くまでに無駄に時間がかかっている。目の前の呪詛師に手ごたえもあまり感じない。そもそも、なんで自分が誘い込まれたのかもよくわからない。人質にしたいのだろうか。五条向けの?そうだったとして捕まるつもりもないし、その程度で五条が危機に陥るとも思えないが。
目に見えて慌てた呪詛師はぐい、とこれまた暗がりから誰かを引っ張った。勢いに勝てずにその人物は呪詛師の足元に転がる。人質とは厄介だと伏黒は歯噛みした。そして呪詛師の術式は見えている景色を歪めるようなものだろうと見当をつける。やはり黒幕はこいつだ。

「この女がどうなってもいいのか」

転がった女が軽く足蹴にされた。短いショートパンツ、伏黒から見て後ろを向いていても分かるデカい胸、アイドル丸出しのツインテール。よく見たら、いやどう見てもこれみょうじでは?

「何やってんだオマエ!!!」

「……ヒッ、め、恵くん……!」

何の因果か人質にされているみょうじは、肩の部分を呪詛師に蹴られてコロリと仰向けになった。巻き込んでしまった、と伏黒は盛大に後悔をする。みょうじが東京にいる以上、伏黒を貶める目的なのであればみょうじが標的になる可能性は全くゼロではなかった。配慮が足りなかったと伏黒は自分に憤った。こんなことでは津美紀の二の舞秒読みである。意図せず呪いの感情が沸き上がる。どこまでいっても伏黒は呪術師でしかないのである。

「今すぐ殺してやるからてめえはとっととみょうじを離せよ」

「君は本当に正義の呪術師なのか?言うことが呪詛師でしかないな」

「黙れ」

「呪術にかかわる以上、穏やかでいられるはずもないよな。そうだろうみょうじなまえ」

突然話を振られたみょうじはちらりと呪詛師を見上げて、彼にしか見えない程度に口の端をまげて、笑みを作った。すべてを知っている呪詛師は背筋が寒くなるのを感じるが、最後までこの女に付き合う必要などないことを思い出して目線をそらす。金だけ受け取ってしまえばこんなくだらない案件からは手を引ける。いやはや、呪術師も呪詛師も変わらない。
しかし、このままだと呪術師に殺されてしまう。こんなに血の気が多いやつが相手になるとは思っていなかったので呪詛師は逃げる算段をしていた。そもそも、今回みょうじからの依頼は伏黒恵と引き合わせろというそれだけの内容だ。こんな女、ほっといて逃げてよい。
呪詛師は後ろ手に術式を展開し、生まれたその歪みの中に少しずつ体を浸らせていった。じわじわと闇に溶け込んでいく呪詛師の姿に伏黒は舌打ちをする。
完全に消えてしまってから、気配を探すが見つからない。もしかしてみょうじを置いて逃げたのか?いやいや、それじゃなおさら任務の意味が分からない。すでに何かをされてしまっている、とかかもしれないと伏黒は焦りを隠せない様子でみょうじに駆け寄る。
ぼんやりした表情で伏黒を眺めていたみょうじだったが、会いたいと会いたいと願った相手があちらから寄ってくる状況に嬉し気に頬を緩ませた。何を喜んでいるんだと伏黒は足を止める。立ち止まっていても仕方がないので、歩くようにしてみょうじに寄り、縛られた縄を玉犬に噛み切らせて解放してやった。みょうじはゆったりした動作で身体を起こす。

「ありがとう、恵くん」

「……ああ。というか、オマエさ」

なんなんだとそもそもを訊いてしまいそうになり、伏黒は適切ではないかと口を噤んだ。呪詛師に捕まり、死にかけたのだろうにどうしてこのように穏やかな表情ができるのか。かすかに頭に警報が鳴る。しかし、けれど、相手は津美紀の友人だぞ。疑いきれないでいる。疑惑を晴らしたいが上手な言葉が浮かばない。その伏黒の逡巡が一瞬の隙を生んだ。

「動かないでね」

肩にかけている鞄を探って何かを取り出したはずのみょうじが、なんらかのカードを伏黒に見せつけるように向けて微笑みを浮かべている。見せつけられているカードの絵柄は、人間が逆さになって吊るされているもの。呪具だとすぐ合点がいった。そして伏黒は助けたはずのみょうじに拘束されているのだ。

「何の真似だ」

「だって恵くんが連絡くれないから」

「……はァ!?自分が何をやってんのかわかってんのかよ」

「分かってるよ、だってこのためにわたしいろいろやってきたんだもん。何もわからないで人ひとり殺そうとするはずなくない?」

「こ、」

殺そうとされているのかと伏黒は息を詰まらせた。呪具のせいか?何故みょうじが呪具を持っているのか。みょうじはカードの束をポケットに入れて、そこから一枚引き出す。見てしまうことが術式の発動条件だろうと考え、伏黒は目をきつく閉じた。

「無駄だよお。『隠者』」

みょうじの声が伏黒の脳内に響き、彼は己の中から湧き上がる知識欲に歯を噛み締めた。感情を操るような術式だろうか。
正直に言ってしまえば、みょうじの術式はひたすらに力が弱かった。それは何の縛りもしていないことや、術式の開示をしていないことなど、彼女が呪術師もしくは呪詛師ではないという事実の裏付けになる。要は、呪術を使って戦い慣れていないのだ。そんな呪術界初心者の術式など、伏黒にとっては体にまとわりつく蜘蛛の糸くらい脆いものである。
引きちぎってみょうじをねじ伏せても良かった。何馬鹿なことをしようとしているのか、伊地知さんや七海さんあたりに説教してもらえばいいとすら思った。けれど、動機がどうしても気になってしまう。この気持ちがみょうじの術式によるものだとしたら、あまりにも弱すぎると言うしかない。

「俺を殺すにはその程度じゃ全然足りないぞ」

本音だし真実だった。これなら歩道を走る自転車の方が脅威である。眉を寄せたみょうじは、大きな瞳をギラリとさせて怒りをあらわにする。おおよそアイドルがする顔とは言えない。

「うるさい殺す!ずっとずっと、恵くんは自分のことばっかりだった!津美紀ちゃんの気も知らないで!どうせ津美紀ちゃんをあんなふうにしたのも恵くんなんでしょ!」

「俺がそんなことするわけねえだろ!」

「信じられない信じられない!嘘をつくな!『正義』!」

再度みょうじがカードを取り出し、伏黒に絵柄を見せてくる。みょうじの術式など全く怖くなかった。おそらく感情を多少弄る程度のものだろう。現に、この言い争いでしっかりと真実へと決着させなけばという正義感が伏黒の中に生まれる。みょうじも今は喚いてはいるが、誰がやったのかを追求したいだけなのだろう。となると、伏黒にできることはまずみょうじを落ち着かせることだった。

「みょうじ、知ってるか。呪術師同士の戦いは、縛りが強い方が単純に術式が強くなるし、手の内を晒す方が相手への効果が上がる」

「……え」

虚を突かれたみょうじが口をぽかんと開けた。他でもないみょうじの術式によって、今の伏黒は嘘がつけない状態である。信じられないなどと喚くわけにいかず、みょうじは言葉をなくす。

「よって俺は今から自分の術式を晒すが、いいか」

「……え、待って。喋らないで」

「俺は禪院家相伝の」

「やめて!」

みょうじが目を閉じて両耳をふさぐ。向けられた敵意が一気に失せたことでだろうか、伏黒の身体が急に通常通りに戻った。とはいえ、絡まる呪力の糸が薄れた程度のものである。残った呪力の糸、いわゆる残穢と呼ばれるそれをおもむろに毟りながら、伏黒はみょうじと距離を詰めた。
動機は津美紀の敵討ちとみて間違いないだろう。本当に伏黒のせいで津美紀が呪われたのであれば、伏黒にとって自分の命など全く惜しくはない。しかし、今は原因がわからないので。もし、原因が伏黒ではなくどこかのクソみたいな呪霊及び呪術師呪詛師だった場合、伏黒が自らの手でぶちのめさないといけないので。

「死ぬのが嫌なら人を呪おうとするな」

「……死ぬのはいいの。こわくない。津美紀ちゃんが元気になれるなら、わたしはどうでもいいの」

「他でもない津美紀が嫌がるだろうが」

「じゃあ恵くんは助けたい人が嫌がったらそのまま見殺しにするの?」

「……いや、無視して助ける」

「同じことだよ」

「簡単に同じにすんな。俺は憶測で容疑者を殺しにかかったりしない」

みょうじは完全に戦意をなくしている。伏黒は一応任務だったのでこのままみょうじを帰すわけにはいかず、とりあえず冷静に対処してくれそうな人物として伊地知に連絡を取ることにした。ふてくされたように膝を立てて地面に座るみょうじが、確認のためか再度問いを投げかけてくる。

「恵くんのせいではないのね?」

「……知らん、わからん。何もわからねえんだよ、津美紀にかかってる呪いのことは」

「……そっか」

納得しにくそうな顔をしたみょうじが、ポケットからカードの束を取り出した。ああそれも危ないから高専に回収させないとなと伏黒は考える。

「昔から、わたし、変なのが見えるタイプだったの。霊感ってのがあったんだろうね。他の人が見えてないところをずっと見てたり、急に怖がったり、そんな感じだったから友達がいなくて。わたしには津美紀ちゃんだけだった。私の弟も変なの見えてるタイプだからって、わたしのことを受け入れてくれたのは津美紀ちゃんだけだったの」

「まあ、なんだ。大変だったな」

「一緒に高校生になりたかったのに」

伏黒に呼ばれて現場に到着した伊地知は、今をときめくぶっちぎりアイドルがそこにいることに超絶びっくりして悲鳴を上げた。後処理の面倒くささを察したのである。そして事の顛末を伏黒からきいて、車の中でみょうじにこんこんと説教をはじめたのだった。


「あ・し・たー、雨が降ったら、君のもとに傘をとどける、きょうは、勇気がなーいから、悲しい気持ち塗り替えられないのー」

みょうじは変わらずアイドルをしている。芸能界は案外闇が深く、高専の力で大抵の不祥事を揉み消せたのである。アイドルとして金を貯めて、津美紀が起きたときに快気祝いとして差し出すのだと津美紀貯金を始めたらしい。LINEで報告が来た。どう返しようもなかったので、伏黒はひとこと「がんばれよ」と返信した。
みょうじが雇った呪詛師も順当に捕縛した。おっぱいかつアイドルであるみょうじとのワンチャンを狙って仕事を受けたが、相手がヤバい女だったので深く関わりたくなかったとのこと。更に自分より明らかに格上の呪術師に殺意を向けられて命の危機を感じ、呪詛師はやめて呪術師になりたいですと語っている。
ちなみにみょうじが持っていた呪具はタロットカードというものであるらしい。それそのものが占いの道具であるからか、多少年季が入ると呪具になりやすいとのことだった。これを回収して高専に保管すべきだと伏黒は主張したのだが、それほど力があるものではないということと、呪術界に関わってしまったみょうじ自体の自衛のためにとのことで未だにみょうじはタロットカードの所持を許されている。監視及び護衛の為に高専から補助監督が交代しながらみょうじに付くことになったが、彼女は全く気にせずに精力的に活動しているらしい。テレビでも雑誌でも女子高生アイドル兼タロット占い師としてバリバリ仕事している。

「なまえちゃんのタロット占い、引くほど当たるって評判よね」

「そうだろうな」

「なによ、俺のオンナ的な空気出して。言っとくけどね、私はまだあんたとなまえちゃんの仲を許してないんだからね」

「そもそもそんなんじゃねえし」

未遂に終わったしクソ雑魚だったが、殺されかけたのだ。みょうじを好きになるはずもない。
釘崎は納得いかなさげに表情をゆがめるが、やがて諦めたのか軽く手を振ってその場を離れていった。背中を見守ってからスマートフォンを手に取る。人気絶頂でほぼ自由時間などないであろうに律義にみょうじから連絡が来ている。

『五条さんに呪術師としての訓練をつけてもらうことになりました☆ミ』

「星、じゃねえよ」

呪力を持ち、かつ身寄りもないそうなので保護するにはそれが一番安全とは分かってはいるが。呪術界も人手不足で少しでも人員が欲しいのだとは分かってはいるが。伏黒は思った通りにいかない世の中に頭を抱えた。