No.3
「だめだ」
キャプテンが医学書から目を逸らさずに厳しい声で言った。
「だって、あの本欲しかったんです。買ったらまっすぐ帰ってきますから……。」
「だめだ。お前を外に出したら、ろくなことが無い。」
横から彼を覗き込む私に一瞥もくれず、冷たく言い放つ。
こちらを見ない彼の横顔をしばらく無言で見詰めた。
「…………わかりました。」
静かに言って、立ち上がり、船長室を出た。
キッチンに行って、調理台の前に立つ。
コンロの上にはもう出来上がった夕食が、鍋に入ったまま置いてある。
シンクの上の棚から、小麦粉を出した。
冷蔵庫からバターと卵を取り出す。
ボウルに入れたバターがまだ冷たいまま、力任せに練り始めた。
さっきから、じんわり込み上げていた涙が、ポタッと一粒落ちた。
本屋でキラーに会った後、キャプテンは私の手首を乱暴に掴んで船に帰ってきた。
結局買いたかった本も買えず、出かけた本来の目的であったキッチンで育てているハーブの肥料も買えなかった。
手首を掴まれたまま引きずられるように船長室に入った私は、放り投げるようにソファーに座らされた。
私の隣に乱暴に腰を下ろしたキャプテンは、大きくため息を吐いた後、一言も発することなく医学書を開いた。
無言でページをめくり続ける彼に、もう一度町へ行ってきたいと告げたときのあの目と言ったら……。
心の奥が凍りついてしまうかのような冷たい瞳で睨まれた。
ベポを連れて行くと言っても、キャスケットを連れていくと言っても、首を横に振るばかりだった。
ことんと、キッチンの入り口で物音がした。
まだ硬いバターをスパチュラで無理矢理潰そうとしていた手を一瞬止めるが、振り返ることなく、またすぐに手を動かした。
物音も、気配も消したまま入ってこれるくせに、わざわざ物音を立てる時はこちらから気づいて欲しい時だ。
ふと背中に温かい気配がしたかと思うと、刺青だらけの腕が私の前に回り、尖った顎が肩に乗せられた。
「何作ってんだ?」
甘さを含んだ低い声。
でも、こんな事では、私の落ち込んだ気分は浮上しない。
「…………クッキーです。」
「へえ。……クッキー。」
キャプテンの問いに少しの沈黙の後、小さく答えた。
ボウルの中身は、まだ四角さを残したバターのみ。
キャプテンは私の答えに納得のいかない様な声だったが、それ以上突っ込んだりはしなかった。
木のスパチュラを握る私の手に、キャプテンが手を重ね、ぐっと力を入れる。
ほとんど崩れなかったバターが、ぐにっと形を変えた。
「本のタイトルを言え。酒場に行く時買ってきてやる。」
「そういう事じゃないんです!!」
バッと勢い良く振り向き、キャプテンの顔を睨む。
そういう事じゃない。
キャプテンが怒っていた理由は明確だ。
キラーと話していたからではない。彼はそれくらいで怒るような器の小さな男ではない。
おそらく、キラーが放った言葉。私を船に乗せたい。と、場合によっては攫う。と、言っていたのが気に入らなかったのだろう。
そして、私が落ち込んでいる理由。
欲しかった本が買えなかったからじゃない。ハーブの肥料が買えなかったからじゃない。
キラーに、はっきり私が返事をする前に、有無を言わさず手首を捕まれ、ここに連れ帰られたことだ。
彼も、私がキッド海賊団の船に乗ると本気で思ってはいないだろうが、100%の信用を得られていない感じが嫌だったのだ。悲しかったのだ。
そして、帰ってからも、私が拗ねて部屋を出るまで私の目を見ようとしなかった事。
好きな人に冷たい目を向けられる悲しさを、視線を向けてもらえない恐ろしさを……。
それを、彼は分かっていない。
急に声を荒げた私に驚いた顔をしたキャプテンだったが、すぐに慰めるように私の頭を撫でた。
「ハル、じゃあ。今日の夜はお前も一緒に出かけよう。その時好きなもん何でも買ってやる。」
「でも、私はお仕事が……。」
「たまには、いいじゃねえか。夕飯の準備、出来てんだろ?片づけくらいクルーにさせろ。」
子供に言い聞かせるように、渋る私の顔を覗き込む。
「夜なら、俺も、ペンギンもキャスも居る。何も不安なことはない。」
……違う。不安がってるのは、あなただ。
悲しい気持ちが拭いきれないまま、キャプテンを見つめ、頷いた。
「……わかりました。」
キャプテンが笑って私の肩を抱き、髪にキスを落とした。
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