No.06
「良かった、あったのか。助かったよ、ハル。」
ペンギンさんにコンパスを見せると、ひどくホっとした表情を浮かべた。
差し出された彼の手に、ずっと握りしめていたコンパスを乗せた。
「ああ、ありがとう。」
「いえ。」
私の手の平ですっかり温められたそれを見ながらクスリと笑った彼は、そういえば、と顔を上げた。
「これ、何処にあった?」
手元のコンパスを掲げながら掛けられた問いに、一瞬言葉に詰まる。
思わず嬉しそうな笑みを浮かべる彼から目を逸らしてしまったが、不審に思われなかっただろうか。
「え……っと。船長室、の、……ソファーテーブルの下に……落ちてました。」
嘘ではない。
かなり端折ってはいるが。
私が答えるとペンギンは、ああ、と納得したように頷いた。
「やっぱりそうだったか。俺の部屋にも操縦室にもなかったから、あとは船長室だけだとは思っていたんだ。」
そして、笑って私の頭をポンポン、と優しく叩く。
「他にもあるにはあるんだが、やっぱり使い慣れたものじゃないとしっくりこなくてな。手数掛けた。」
「いえ……。」
にっこり笑って去っていくペンギンの後姿を見て、思わず追いかけて彼のユニフォームの袖を捕まえた。
「……どうした?」
急に服を引っ張られたので、驚いたように振り返ったペンギンと目を合わせる。
彼に、何を言おうとしていたんだ。私は……。
「……ごめんなさい、なんでもないんです。」
小さく謝って、彼の袖を掴んでいた手の平をゆるゆると開いた。
腕を離されても不思議そうに私の顔を覗き込むペンギンの視線から逃れるように、小さくお辞儀をして逃げるようにその場から去った。
−−
キッチンに入ると、カウンターに座っていた人物が顔を上げた。
見るからに黒く濃いコーヒーを飲む彼を一瞥し、キッチンを通り過ぎて食堂に入る。
カウンターへは向かわず、テーブルの一つに腰を下ろした。
「……なんだよ。怒ってんのか?」
「……怒ってます。」
カウンターの椅子をくるりと回してこちらを向いた気配を感じるが、彼の方を見ないまま声を返す。
すると小さく溜息の音が聞こえ、悲しさが渦巻いていた胸がギリリと痛んだ。
「ベポの事か。」
「……っ、そうです!なんで……あんな言い方したんですか?盗ったなんて決めつけるんなんて!私は、ペンギンさんが落としたのをベポが拾ったのか聞こうとしただけです!」
「聞くまでもねえ。ベポが盗った。」
思わず感情的に声を上げた私に、にべもなくキャプテンが返す。
あんまりな答えにショックで思考が凍りつく。
無意識に自分が震えているのを感じた。
「……な、んの……。なんの確証があって、そんな事……。クルーを……ベポを……信用してないんですか。」
「当然している。でもそれとこれとは別だ。」
「同じことです!!」
震えを抑えて返したから、まるで自分の声が悲鳴のようになった。
「あいつが、悪い訳じゃない……。」
キャプテンが私を見つめたまま、小さなカウンターチェアの上に踵を乗せ膝を抱えた。
「初めてじゃないんだ。」
「嘘です!だって、私が来てからそんな事いままで一度も……。」
「ペンギンの道具を勝手に持ち出すことが、悪い事だと思わなかったんだろう。」
「……は?」
「ベポは、まだ人間のルールが分からない時がある。」
淡々と、静かに話すキャプテンの表情はずっと変わらなくて、怒っている風でも悲しんでいる風でも私を慰めている風でもない。
何を考えているか読めない彼の瞳を私は見つめ返すしかない。
「お前は、あいつが大分良識が付いてから船に乗ったから分からないかもしれないが……。」
彼の言葉に頭が付いて行かず、首を傾げる。
キャプテンは怪訝な表情をしているであろう私の顔を見て、ほんの少し目元を綻ばせた。
「限りなく人間に近い知能を持っているが、あいつは、熊だ。」
あまりに簡単な言葉に言い直した彼に、隠すことなく不機嫌な顔を向けた。
そんなことは言われなくても分かっている。だからなんだと言うのだ。
たとえ熊でも、ベポは普通の熊とは違う。
優しくて、頭が良くて、食いしん坊で、とても暖かい私の親友だ。
「あいつをこの船に乗せた時、あいつはもっと常識がすっぽ抜けてた。あいつの居た世界は所謂弱肉強食。
その上、“自分のもの”という概念はあっても、“他人のもの”という概念なんかこれっぽちも無かった。」
私を通して遠くを見ているようなグレーの瞳を見つめ返しながら、彼の話している“あいつ”が本当に私の良く知る優しい友人の事だとはとても思えなかった。
「あいつがなんとかこの船でやって来れたのは、船に乗せた時あいつが今よりずっと体が小さかった事と、本来親兄弟に向けるはずの愛情を俺に向けていたからだ。」
キャプテンが一瞬俯き、静かにカウンターチェアから足を下ろして立ちあがった。
「人間を、食ってはいけない。」
キャプテンが、自分の足元を見つめながら一歩こちらに近づいた。
「気に入らないことがあっても爪を立ててはいけない。」
また一歩。
「噛んではいけない。船を壊してはいけない。服を着なくてはいけない。他人の食事に手を付けてはいけない。風呂に入らなくてはいけない。」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ度に一歩、一歩、とこちらにキャプテンが向かってくる。
「クルーや俺を、決して裏切ってはいけない。」
遂に、私の目の前までたどり着き、足元を見下ろしていた彼の瞳に私の顔が映った。
「そういう、当たり前の事を一つずつ覚えながら、同時にあいつは俺への愛情以外の、人間的な複雑な感情を培ってきた。」
ぽんぽん、と彼の手が私の頭に優しく触れ、目の前のキャプテンのお腹に顔を埋めた。
「もう、今のベポは違うでしょう?優しいし、他人を思い遣る心をちゃんと持ってます。」
顔を埋めたまま私が呟くと、頭の天辺に乗っていたキャプテンの手が私の髪を梳くように撫でる。
「あいつ、戦闘以外の仕事がしたいって言った。」
頭上から聞こえたその声が、僅かに色が変わっているのを感じ、思わず顔を上げた。
キャプテンを見上げると、私を見下ろすその顔がやはり僅かに笑っている。
「……ここのクルーとして、もっと役立つ存在になりたいって……言ってました。」
私が彼の言葉に小さく頷いて言葉を返すと、彼の笑みは益々深くなった。
「原動力はなんだと思う?……嫉妬だ。……くくく、あいつはもう、人間だな。」
愉快そうに笑った彼は、もう一度私と目を合わせてから優しく額にキスを落とした。
そして、私の首の後ろに両腕がまわされ抱き込まれると、頭の上に彼の頬が乗ったのが分かった。
「……悪かった。」
溜息の後、その溜息と同じくらい小さな声で彼が呟いた。
「俺が過剰なほど怒ったのは、ルール違反だとあいつに強く思わせるためだ。お前と仲違いさせるつもりは無かった。」
きゅっと私の肩を掴む彼の指に力が籠った。
近い位置からそんな声で言われてしまったら、私は目の前のウエストに腕をまわすことで彼を許すしかなかった。
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