No.102
カウンターの向こう側のコンロの上で、火に掛けた青いケトルがコトコトと音を立てている。
まだ湯気は立っておらず、沸騰はしていないようだ。
このケトルは私が引っ越してきたときはまだこの部屋に無かった。
元々あったのは、スタイリッシュなフォルムで、シルバーで、注ぎ口が広くて沸騰すると笛が鳴るタイプのやつだ。
それは今も調理台の下の棚にあるけれど、この青いケトルを買ってからこればかり使うようになった。
コーヒーをドリップしやすいように注ぎ口が細くなっているこのケトルは、広い注ぎ口のものでは上手く細くお湯を落とせない私がある日仕事帰りに買って来たのだ。
ルッチが嫌な顔をしたらどうしようと恐る恐る買ってきたものだったが、意外にも彼は特に何か文句をいう訳でもなく、まるでこのケトルが前からあったもののように受け入れていた。
モノトーンやシルバーの調理器具で統一されたこのキッチンで唯一の色彩だ。
シュンシュンと湯気が上がり、蓋が僅かに振動する。
ゆっくりと席を立ち、キッチンへ回ってコンロの火を止めた。
お茶の棚からティーバッグを取り出し、マグカップにケトルからお湯を注ぐ。
注ぎ口が細くて、お湯をマグに移すだけなのに妙に時間が掛かっている気がして、カップに半分お湯が溜まった所でティーバッグを投入した。
お湯の底が茶色く染まった所でティーバッグを揺らし、取り出す。
自分一人の為となると、お茶の淹れ方もこんなにぞんざいなのか、と自嘲した。
ダイニングテーブルに戻って、ひとくち紅茶を口に含み、口元を歪めた。
紅茶色なだけで、香りも味もあったもんじゃない。
ルッチのご飯はいつだって美味しいのに、目の前にあるペンネもサラダもなんだか食べたい気分にはならなかった。
別に一人で食事をすることが嫌だと言うのではない。と思う。
今まで、ルッチが残業だったり飲み会だったりで私一人で食事を済ませることも無いわけではなかった。
自分でも自分が何が気に入らないのか分からない。
釈然としなくて、胸の辺りがモヤモヤとする。
残り少なくなっていたサラダは無理矢理口に入れ、ほとんど手を付けていないペンネはラップを掛けて冷蔵庫に入れた。
サラダボウルとカトラリーを、ルッチがシンクに残して行った食器と一緒に洗う。
ダスターを持ってダイニングテーブルに戻り、天板の上を拭いた。
キッチンに戻ってダスターに食器用洗剤を落として洗いながら、視界の端にドリップ用ケトルがまだ沢山のお湯を残したままコンロの上に置かれているのが見える。
普段は面倒くさいとすら思う事もあるのに、コーヒーを淹れないのが少し物足りない気がした。
ダイニングテーブルで、ぬるくなった紅茶をゆっくり飲みながら、テレビをぼんやりと眺める。
今日の情報番組はウォーターセブン特集のようで、やたらテンションの高いリポーターが画面の向こうでヤガラに乗って大騒ぎしていた。
地元グルメをもりもり食べる画面の向こうの彼らを見ていると、なんだか一度は忘れ去っていた空腹が思い出される。
冷蔵庫の中にはペンネがあるので温め直して食べても良いのだが、なんだか気分じゃない。
時計を見ると、まだ8時を少し回った所だった。
よし、軽く飲みに行こう。
私はウォーターセブンの街並みが好きだ。
街を眺めて散歩がてら適当な酒場に行って来よう。
知っている酒場なら、女一人でも大丈夫だろう。
カウンターでマスターと話しながら軽く何かつまめばいい。
なんだかそれが凄くいいアイディアのように思えて、勢いよく立ち上がった。
テレビを消して、リビングの窓を閉め、火の元をチェックする。
自室に入り、全身鏡に姿を映す。
首元のゆるい大きめのドルマンTシャツにスリムパンツ。
適当な格好だが、外は暗いし、軽く飲みに行くだけだ。着替える必要はないだろう。
足元をスリッパからヒールの無いラウンドトゥのパンプスに履き替え、チェーンストラップの小さめのショルダーに財布を移し、肩に掛けた。
部屋を出て、再度火の元や電気をチェックしながら玄関を出る。
鍵を掛けてエレベーターに乗るころには、さっきまで沈んでいた気持ちはどこかに行き、夜の散歩への期待で胸が膨らんでいた。
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