No.106
そうだ、パウリー。
彼なら、もしかしたら、まだ近くを歩いているかもしれない。
もう、口は塞がれていない。
大声を出せば聞こえるかもしれない。
パウリーじゃなくても、誰かが気付いてくれるかも、しれない。
はぁはぁはぁ。
はぁはぁはぁはぁ。
相手は、興奮して。
私は恐怖で。
真っ暗な路地に響く荒い息遣いはどちらのものか。
「……っくん……。」
何とか声を絞り出すために、少しでも気を落ち着けようと唾を飲み込む。
力が入りすぎたようで喉が鳴った。
「……けて……たす……て……。」
ひくひくとした呼吸の間に上げた声は到底誰かに届くようなものではなくて、絶望する。
くつくつと笑う男の息が耳に吹き込まれた。
「はは、だれも、きてくれねえよ……。」
躊躇無く私のTシャツをたくし上げた手が胸や腹を弄る。
耳元の笑い声は止まない。
「震えてるねぇ……。」
くくくくく、と堪え切れないというように笑った声が「……かわいいなぁ。」と囁き、耳たぶを食む。
ひぃっ、と喉が鳴った。
誰か。
「……れ……か……っ。」
誰か。誰か近くに……パウリー。
「だ……れか……!」
まだ、近くに、いる?
「……パっ……ゥリー……!」
ダァンッ!!!!ズシャァァァ!!!!
大きな衝撃音と何かが地面を滑る音が響き渡り、私を囲っていた生温かい拘束が無くなった。
大通りの薄明かりが再び細く私の視界に届く。
震える手を木箱の上になんとか付いて、僅かに体を起こすと、黒い大きな人影が私の前に立っていた。
その先には地面に伏せた人影が見える。
どうやら、誰かが助けてくれたらしい。
それだけは、なんとか理解した。
人の近づく気配も足音も感じなかったのだけど、とにかく、誰かが助けてくれた!!
ひぃひぃとうまく呼吸の出来ない喉が鳴る。
苦しくて、意識が遠のいてしまいそうだ。
「……だ……れだ……。どこ……から……あ、あらわ……れた?」
地面に伏せている人物が呻く。
私の前に立っていた人物が、数歩、声の主に近づいた。
「……闇より。」
暫くの間を置いて、助けてくれた人物から発せられた声に、心臓がとくん、と鳴った。
……ああ、この声は。
ひぃひぃ。過呼吸は収まらず、起こしていた体も保てなくなってきた。
ずるりと倒れこみながら、二人の黒い人影を見つめる。
地面に伏せて動けない暴漢の影にゆっくり歩み寄った人影が、覗き込むように腰を折った。
そして、人差し指を立てた腕をゆっくりと引き、一瞬の動きで伏せている人物に向けてその腕を突き出した。
ドン!!!とも、バン!!!とも言えないまるでピストルのような大きな音が響く。
今まで首を擡げていた暴漢は、カクッとその首を地面に落とした。
バササッ
今までどこにいっていたのか。
闇の中から羽音を立てて白が私に向かってきた。
ひぃ。。。ひぃ。。。。
喉をひくひくと引きつらせながら、霞む視界で闇に浮かぶ白い影に微笑む。
「クルッポー。」
夜目は利かないと思っていた鳥が、鳴いた。
安心感のある温もりが頬を撫ぜる。
ひくひくとままならない呼吸に喘ぎながら、私の顔に手を添えてくれる人を見上げ目を凝らす。
黒い影が近づき、口が覆われた。
埃や、鉄や、夜の匂いの中に、嗅ぎ慣れた彼のコロンの匂いが微かに混じる。
口に触れる熱く柔らかいこの感触には覚えがある。
なされるがままに唇を塞がれ、彼の口内の空気を吸っているうちに、胸の痛みが溶けていくのを感じた。
じわじわと息苦しさが解消され、体中の感覚が戻ってくる。
ゆるりと手を持ち上げて、彼の体のどこかに触る。
手に触れた布地を掴むと、私の唇は解放された。
木箱の上に横たわったまま、はぁ、はぁ、と息を吐く。
「立てるか。」
掛けられた声に、こくこくと小刻みに頷いた。
暴漢にまくりあげられたままのTシャツをそっと直してくれた。
腕が取られ、少し力を込めて引かれる。
引かれるがままに、体を起こし木箱から降りた。
足の裏が地面についたが膝に力が入らず、すぐに腰を支えられる。
縋りつくようにすぐ傍にある彼のジャケットを握りしめた。
かくかくと震える膝に力を籠め、無理矢理自力で立つ。
一歩踏み出してみれば、なんとか歩けそうだった。
暗い闇の中、彼の腕を探る。
手探りで彼の手の平を見つければ、私の気持ちを察したように手を握って引いて歩きだしてくれた。
ゆっくりと、薄明りに浮かぶ大通りに向かう。
途中、地面に伏せたままの暴漢の横を通る時、足元で水が跳ね、急に濡れていた地面に滑りそうになった。
そのまま、大通りに近づくにつれ、周りの物が見えるようになってきた。
ただの黒い二本の影だった自分の足が浮かびあがり、デニムの青が認識できるようになると、パンプスが何かで汚れているのが気になった。
よく見れば、その汚れはデニムの裾にも飛んでいる。
さっき、足元で跳ねた水は泥水だったのかもしれない。
そう思いながら、そのまま足元を見つめ、歩を進める。
大通りに出れば、月の明かりで色味がはっきりとみえた。
足の汚れが泥水にしてはやけに赤い色をしている。
――これは……血だ。
そう気付いた瞬間、ざわりと背筋に寒気が走った。
思わず足を止めて、少し前を歩く男を見上げる。
黒いシルエットが顔だけ振り向き、振り向きざまに彼の瞳がキラリと光った。
抜けてきた路地を恐る恐る振り返ると、気を失っているだけと思っていた人物の傍に色の付いた水溜りが広がっているのが暗い中でも一層黒々として見える。
倒れている人物は、きっともう、呼吸をしていないのだと確かめずとも理解した。
彼と繋いでいる手に視線を向けると、私の手を包むように握る彼の手の人差し指が、私の靴と同じ色に染まっていた。
「……ルッチさん。」
あなたが……あの人を。
じわり。
ここで初めて、自分の目に涙が溜まっていくのを感じた。
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