No.107-side:LUCCI




青白い顔で俺を見上げるナツの瞳にみるみる涙が溜まり、ふるふると小刻みに震える彼女の口が微かに動く。


「……なんで。」


小さな、小さな、その声は、物音一つ無いこの状況でやっと俺の耳に届くものだった。


−−

通りがかったのは偶然だった。


任務の手掛かりを掴むために、20年前や10年前の情報を探っていた。
情報の中にあった<カティ・フラム>が何者だったか調べていくうちに、記憶の断片をようやく呼び起こすことが出来、今日はこれで切り上げて家に戻る途中だった。

日付も変わっていないこの時間。
今なら、ナツもまだ起きているだろう。
いや、あいつのことだ。
俺の留守を良い事に、リビングのソファーに雑誌と紅茶を持ち込んで、テレビを付けっぱなしにしたまま、ソファーでうたた寝でもしているかもしれない。
もしそうなら、叩き起こして、コーヒーを淹れさせてから寝室に放り込まなければ。

それが、まさか、こんな時間に外出しているなんて。
こんな真っ暗な路地に一人でいるなんて。
思ってもいなかった。


剃と月歩で光を避け、影の中を進む。

ほんの微かな気配だった。
悪魔の実を食してから敏感になった能力だった。
猛る捕食者と、怯える被食者の気配。
そこに近づいたのはほんの気まぐれだった。
建物の中で起こっている事なら、気づかなかったことにしてそのまま帰ろうと思っていた。

路地の角。
ここまで来て、そこに在るのが、毎日生活を共にしている人間だと気づかないほど俺は馬鹿ではない。
細い黒い影が逃げるように捩る体を抑え込むようにのしかかる男の影。
その男が、旅行者なのか、海賊の一味なのか、ただの酔っぱらいなのか、そんな事はどうでも良かった。
ぶわりと体の芯から湧き上がる怒り。
血管という血管を通る全ての血液が沸騰したのかと思う程、体中が熱くなった。

殺す。

肩に止まっていたハットリが何かを察知したのか僅かに飛んで明かりの灯ってない街路灯にとまった。

その場から嵐脚を繰り出してしまいたい衝動を寸での所で抑える。
嵐脚が作り出す鎌鼬が、男もろともナツまで切り刻んでしまう。
それは、避けなければ。
かろうじてそう判断すると、ほんの少し冷静さが戻ってくるのがわかった。
気配を消し、男の背後に回る。


「……れ……か……っだ……れか……!」


過呼吸になっているのであろう引き攣るような浅く速い息遣いの中で、悲痛な声が耳に届いた。

ナツ。

男の背後で足を、振り上げる。
ナツの上に乗る男の腹を薙ぎ払うように蹴った。


――ダァンッ!!!!

「……パっ……ゥリー……!」


男が吹き飛んだのが先だったか、ナツが、同僚の名を呼んだのが先だったか。
彼女の声が紡ぎ出した言葉が、本当にそう言っていたのか、聞き間違いだったのか。
腹の中で熱く滾っていた物が、潮が引くように静かになった。

ザザザッと音を立てて、乾いた石畳の上を男が滑って行った。

急に凪いだ心で、倒れたままのナツを見る。
男の仕業だろう、まくり上げられた服が鎖骨の辺りに溜まり、その下で白い肌が浮かび上がっていた。
一度引いた怒りがまたふつりと湧いて出たが、先程の様な激情はなかった。

死んだカエルのように、無様に地べたに伏せている男を向く。
嵐脚のように肉を切ることはないが、俺の蹴りを受けた普通の人間が無事であるわけがない。
そのまま捨て置いても、数時間のうちに息絶えるだろう。
しかし万が一にでも、生き残る可能性を潰さなければ気が済まない。
呪うなら、手を出した相手が悪かった自分の不運を呪え。
静かに男に歩み寄り、指銃で男の急所を突いた。

呆気なく絶命した男に感慨も無く、未だ木箱の上で悶え苦しんでいるナツの元へ戻る。
大通りの街路灯に居たはずのハットリが俺の横を通り過ぎ、ナツの元へ飛んだ。
喘ぐように浅い呼吸をするナツの頬を撫ぜる。
薄く開いていた虚ろな瞳が少し開かれた。
迷いなく、彼女の唇に自身のそれを押し当て、隙間が出来ないよう角度を付けた。
自分の吐き出す息を彼女に送り込み、彼女の吐いた息を吸う。
合わせた唇の柔らかさと、少しずつ戻る温もりを感じ、安堵する。

早く、連れ帰らなければ。
こいつは、少し目を離しただけで、こんな目に合うのだから。
俺が居なければ、あんな小物にいいようにされるところだった。
力を持たない、道力4の女。

震える手が、俺の手の平を握る。
覚束無い足取りで、俺の後を付いてくる気配に愛おしさを感じた。
大通りまで来たら、抱いて剃で帰ろう。
こいつが剃の衝撃で意識を飛ばしたって構わない。
今日はどうせもう眠るだけだ。
なぜ、今日、この場にいたのか。どこに行っていたのかなどは、明日起きてから聞けばいい。


暗い路地を抜けた所で、ナツが足を止める。
引き留めるように軽く引かれた手の平に歩みを止め、振り返る。

乱れた髪が数本口の中に入るのも払わず、地面を見つめカタカタと震えている。
視線の先を追っても、土と埃と血で汚れた彼女の足元しかない。
ゆらりと緩慢な動きで今来た路地を振り返り、俺と繋いでいる手元を見つめる。
彼女の瞳が僅かに見開かれ、眉頭に力が込められた。
その顔はようやく温度を取り戻していたのに、みるみる色を失っていく。

−−


「……なんで。」


小さく呟かれたその後に続く言葉が図りかねた。
俺に手を引かれ、少しの安心を取り戻したはずの彼女が瞳に涙を浮かべる理由も分からない。

なんで、殺したのか?
なんで、助けたのか?
なんで、助けたのがパウリーじゃなかったか?

潤む彼女の瞳を見つめながら、ぐるぐる回る思考に叫び出しそうになる。
ぐっと抑え、なるべく感情の籠らない瞳で彼女を見下ろした。

俺を見上げる瞳からポロリ、と雫がひとつ落ちた。


「悪かったな。……パウリーじゃなくて。」


叫ぶ代わりに、喉に引っかかる棘を吐き出すように静かに言葉を発する。
水分を零した瞳が絶望するように真黒く翳った。


[*prev] [next#]

ALICE+