No.109
手を引かれたどり着いたのは、私たちの部屋があるアパートメントではなかった。
古いヨーロッパ調の建物が多くを占めるこの島で、珍しく現代風な白く四角く美しい集合住宅。
紛れも無く、カリファの住むアパートメントだった。
ルッチは、迷いなくその建物に入って行く。
私も僅かに困惑はしながらもそれに逆らう事はしなかった。
見慣れた金色の装飾がある白い扉の前に立ち、ルッチがドアホンを押す。
扉の向こうでビーッと機械音が鳴っているのが聞こえ、しばらくして人の気配がした。
「……ルッチ?」
ドアスコープから彼の姿が見えたのだろう。
カリファの訝しげな声色が聞こえた。
「……どうしたのよ、こんなじかん……!……!!!!」
扉を開きながら姿を現したカリファは、あちこち擦り切れ泥や血で汚れた私の姿を視界に入れた瞬間、両手で口元を覆い、喉を引きつらせたような声にならない悲鳴を上げた。
「とにかく、……入って。」
彼女はおろおろと狼狽えながら、ドアを大きく開けて私たちを招き入れる。
ルッチに手を引かれたままリビングへ入ると、ふんわりと甘い花の香りがした。
カリファが、自分が羽織っているのと同じような白いガウンを出してきて、私の肩に掛ける。
「えっと、そう、着替えよね。……お風呂も入った方が良いわ。……入れる?お風呂。」
小さく頷くと、ここでようやくルッチの手が離され、代わりにカリファの手が背中に回った。
「バスタオルと……これ私ので悪いけどパジャマ。綿の柔らかいのを持ってきたわ。」
バスルームに着いたところで、カリファが手際よく着替えを用意してくれる。
――ありがとう。
伝えようと、口を開くけど、上手く声にはならずに、口元が動いただけに止まった。
それでも、彼女には伝わったのか、無理矢理のように口元を歪めて笑顔を作り、2・3度私の背中を擦ってバスルームを出て行った。
ここに辿り着くまでの間に頭の中はすっかり凪いで落ち着いているように思うのに、ドアノブを握る手が、タイルの上に踏み出す足が、小刻みに震えてなかなか言う事を聞かず、ようやく泡立たせたバスタブに身を沈めたのはしばらく経ってからだった。
どれだけぼんやりしていたのか、ふと気づくと、バスタブから溢れんばかりだった泡は、随分嵩が減って、お湯も温くなっていた。
お湯の表面に僅かに残った泡でなんとか体を洗い、のろのろとバスタブの栓を外して、お湯を抜きながらシャワーを浴びる。
爪先に残った泡もそのままにお風呂から上がり、バスタオルを羽織った。
ようやく震えの治まった指で、ゆっくりと一つ一つパジャマのボタンをとめていると、リビングから甲高く激昂しているような声が聞こえた。
思わずドアの向こうに神経を集中させる。
しかし、言い争っている訳ではなく、カリファが一人で声を荒げているようだった。
こんな状況で彼女が怒るのは、情けない事にいつも私のせいでしかない。
はぁ、と溜息を漏らし、着替えを終えてそろりと廊下に出る。
このままリビングに向かっていいものか迷いながら、それでもそちらに向かって行くと、あと数メートルという所で、カリファの嗚咽の間に「シッ」と沈黙を促す音が入った。
それに合わせてカリファの泣き声も止み、会話も途切れたようで、しんと静寂が訪れた。
リビングの扉を開けると、L字に並ぶソファーに腰掛けていた二人は、私が現れるのを待っていたかのように、顔をこちらに向けていた。
目の縁を赤くしたカリファが、慌てて目元を擦り笑顔を見せる。
「ナツ!上がったのね。さあ、こっちへ。今温かいものを淹れるわ。」
駆け寄るカリファに腕を取られ、今し方彼女が座っていた所に座らされる。
パタパタとカリファが駆けて行き、ルッチと二人きりになった。
彼との沈黙は慣れっこのはずなのだが、今は気まずい雰囲気が漂う。
とにかく、助けてもらった御礼だけでも伝えなければと、切り出すタイミングを窺う。
しかし面倒なことに私の唇は強力な磁石でくっついてしまったかのように開くだけでも一苦労だった。
「……お前が。」
結局、この沈黙を破ったのは彼だった。
「お前が……俺の家でもう過ごせないと言うのなら……。」
いつもの低い声を叩きつけるような力強い言い方ではなく、ゆっくりと言葉を選ぶように紡ぎだされた彼の声は、言葉途中で途切れてしまった。
そして、苦いものでも口に含んだかのように唇を歪め、怒ったような表情を浮かべた。
続きは、「他に部屋を探せ。」なのか「出ていけ。」か、まぁ、似たような言葉だろう。
続きの言葉を覚悟して待つが、しかし続けて彼が口を開くことは無かった。
「……温かいレモネードを淹れたわ。」
カリファが湯気の立つガラスマグを持って現れるまで、結局彼は再び口を開くことは無く、カリファの姿を見るやソファーを立った。
「俺は、帰る。」
「……そう。」
普段、ルッチに対し喧嘩腰な姿勢を崩さないカリファが、玄関に向かうルッチに返した声は穏やかな物だった。
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