No.122




数メートル先で、怖い顔で突っ立って私を見ていたルッチは、急に大股でこちらに向かってきたかと思うと、未だ座り込んだままの私の腕を取ってそのまま歩き出す。


「えっ、ちょっとまっ……、」


痛い位に腕を強く引かれ、無理矢理歩かされる形になったため、中腰のまま何度も転びそうになった。
私が躓くたびに、彼の肩に乗っているハットリが舞い上がる。
そのまま辿り着いたのは、先程出て来たばかりの私の部屋だ。
彼はドアの鍵を素早く閉めると、放るように私をソファーに座らせた。

なんなんだ一体。
乱暴な振る舞いはやはり私に対して怒っているのだろうか。
わざわざこんな所まで呼びつけるなって事だろうか。
急な事で混乱している頭で、ルッチを観察する。

彼は私がソファーで彼を見上げている様を一瞥し、小さなキッチンに向かう。
ハットリが、ルッチと別れ、電伝虫が置かれている棚に移動した。
人間並みに頭のいい鳩は、空気を読むのが飼い主より上手いのだ。

その飼い主は、ガチャガチャと棚や引き出しを片っ端から開け、ようやく何かを手に取り、またこちらに戻ってきた。
彼が手にしていたのはフルーツナイフだ。

私の部屋で何か食事を作ることはまずない。
あり得るとしたらフルーツを剥いたり切ったりする程度で、私の部屋にある刃物はこれとハサミくらいだ。

ルッチは無言のまま、私に向かい合うようにソファーテーブルに腰を下ろした。
膝がくっつく程近い位置で向き合った彼は、徐にフルーツナイフの刃を抜く。


「……な、にを……。」


戸惑う私の声などに聞く耳をを持たず、彼は迷いなくその刃を左手の甲に滑らせた。


「なっ!なに!なにするんですか!!!」


彼の日焼けで浅黒くなった手から溢れだす鮮血に、悲鳴のような大声を出した。


「なんで!!なんのために!!なにをやってるんですか!!!」


この男は自殺願望でもあったのだろうかと思うが、自傷行為にしては場所が中途半端すぎる気がした。

しかし彼の力では、引っ掻く程度にするとか甘っちょろい事ができなかったのだろうか。
小さなナイフで付けたにしてはその傷は深く、出血が多い。
次々あふれ出る彼の血が、手の甲を伝いカーペットにポタポタと落ちた。
早く止血しなくては。

血を流しながらも何を考えているか分からない、無表情を貫く男の左手を捕まえる。
何か拭くもの、と思っても手を伸ばして届く範囲にティッシュもタオルも見当たらない。
仕方なく傷口の上に手の平を直に乗せて、圧迫するように抑えた。
とにかくどんな事をしてもこの大きな男をこのまま医務室に連れて行かなくては。

ソファーから腰を浮かせようとした瞬間、ルッチの左手が薄い緑の透明な膜で覆われた。
さっき、ギャサリンの足を覆ったものと同じような膜だった。
何事かとグリーンに包まれる彼の左手に注視する。


「っ!!!」


左手の甲に刃物が当てられたような痛みが走った。
声すら出せず、ヒュっと勢いよく息を飲む。
しかし、その痛みは一瞬で消え去り、私の甲は傷はおろか赤くすらなっていなかった。

彼の手からすーっと膜が消え去る。


「……来い。」


彼がソファーテーブルから腰を上げ、私をキッチンに促す。
シンクの水を勢いよく出したルッチが私の背後に立ち、怪我をしたはずの手で血まみれになった私の手を洗う。
そして自分の左手の甲の血を洗い流し、水で濡れたままの手を私の顔の前に突き出した。

浅黒く、筋張ったその手の甲に、ナイフの傷など、どこにもなかった。


「……きずが……。」


この男は、一体どんなマジックを使ったんだろう。
目の前のルッチの左手を両手で捕まえ、滴り落ちる水を拭ってみるが、水気が少々飛んだところで彼の手の甲に切り傷が復活するわけがなかった。


「お前も、」


ルッチが私が掴んでいる手を翻した。
水気を含んだままの彼の手が、今度は私の左手を捕まえる。
その左手が引っ張られると、彼の体とシンクの間の狭い空間で、くるりと体を半転させられた。


「痛みがあったのか?」

「あ、はい。一瞬だけ。……でも、」


傷一つ無い自らの手を彼に見せた。
ルッチは差し出された私の手を一瞥してから、私と視線を合わせる。


「この能力は、二度と使うな。」


この、能力。


……能力?


彼の言葉を咀嚼し飲み込むのに時間を要した。
つまり、今の緑の光の不可思議な現象は、彼のマジックでもなんでもなく、私が起こした事。
彼の言った事を理解するに従い、体が強張り、肩が震えた。


遂に、ニホン人の能力が出現した。



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