No.57




玄関の扉を開けた瞬間、電気の明るさと、頬を掠めた暖かい空気と、オリーブオイルとニンニクの香りで憂鬱な気持ちが吹き飛んだ。


ランプの灯った玄関に立つとジワリと体に張り付いていた見えない重い鉛が溶けたように感じた。
暗い部屋に自分の手で明かりを灯し、自分一人のための食事を用意する事を覚悟すると同時に沈みきっていた心が俄かに浮き立つ。

自分以外の人が家に居るってなんて素敵。
嬉しくなり、自分の部屋に入らず直接キッチンに向かう。


「ルッチさん!!」


肘まで袖を捲くったルッチが、フライパンを煽りながら横目だけでこちらを見た。


「職長さんなのにお帰りが早かったんですね!私はまだ慣れないので自主的残業ですよ。英語の専門用語難しいですねー。ああー良い匂いーお腹すいちゃいました!」


ルッチが火を止めて、眉を顰め、ウキウキと隣でまくし立てる私を睨み付けた。


「荷物を置いてスーツくらい脱いだらどうだ。」


はっとして、自分の格好を改めて思い出した。


「……っと。そうでした……。」


途端に浮ついていた気分が彼の一言で急に冷静さを取り戻し、おとなしくキッチンから退散する事にした。


「着替えたら、この皿を運べ。」


背を向けた私に、此方を見ないままルッチが声を掛ける。


「はい。」


チラ、とイカのガーリック炒めが乗った皿を確認し、自分の部屋へ急いだ。


スーツをハンガーに掛け、ブラシで表面を擦り、脱いだカッターブラウスを籠に放り込んだ。

街の雑貨屋で可愛らしい大き目の籠を見つけ、とりあえずそれを私専用のランドリーボックスとして、自室においてある。
流石に洗濯物はルッチに見られたくない。
こちらに来て一番に困ったのが実は洗濯物の保管場所だ。
洗面所のランドリーボックスにはルッチの洗濯物……カッターシャツやTシャツ、タオル等が入っていて、もちろんそれも私が洗濯するのだが、家族でも無いのにそれと一緒に保管しておくのは抵抗がある。

部屋着用にしているダブルガーゼのワンピースを頭からスポッと被り、髪の毛を左耳の下でひとつに纏め部屋を出た。
途中洗面所に寄って手を洗い、うがいをする。
キッチンに入るとカウンターの上でワインのコルクにスクリューをねじ込んでいたルッチがまた睨みながら此方を見た。


「遅い。」

「す、みません。」


自分の事ながら帰ってきたときのテンションの高さは一体何だったのか。
すっかり意気消沈してテーブルについた。
運べと言われていた大皿は既に運ばれていて、テーブルセッティングも完璧にしてある。
湯気の立つ料理を眺めたら、改めて空腹が思い出され、少しだけ失ったテンションを取り戻した。


「いただきます。」


私の言葉に反応を示さず、ルッチがコポコポと音を立てながら自分のグラスに赤ワインを注いだ。
彼は、料理に関わらず赤ワインを好んで飲む。
イカの炒め物やアサリのたっぷり入ったパスタを前に、白を飲めばいいのに……と思い、そういえばこの家には赤ワインとブランデーしかなかった事を思い出した。
しかし前に私に付き合ってシャンパンを飲んだ事もあったし、ブルーノの店ではビールも飲んでいる。
誰かと一緒なら他のお酒も飲むのかもしれない。
今度違うお酒を買ってきてみよう。
こんなに毎日美味しいご飯なら私もたまにはお酒が飲みたい。
サクサクと緑の葉っぱをまとめてフォークに刺し、パクリと口に放り込んだ。

あ、ドレッシングも手作りだ。
美味しい。

ルッチさんが無言なので、私たちの食卓はとても静かだ。
それは私がエニエスロビーに居る頃から変わらなくて、彼は私の部屋に来た時ほとんど黙ってお酒を飲むかコーヒーを飲んでいた。
そしてたまにポツリと何かを思いついたように話す。
私たちの空気は場所がウォーターセブンに移っても一切変わる事は無かった。
無言でも彼が機嫌が悪いわけではない事は分かっていたので、この沈黙は苦痛ではない。

苦痛な沈黙……
そういえば、カクとダリアは今頃どうしているだろうか。


「今日、ブルーノの店に行かなくて良かったのか?」


丁度今頃ブルーノズバーにいる二人を思い浮かべていたところだったので思わずパスタを絡める手を止めてルッチを凝視してしまった。


「……え?」


たっぷり時間をとってから聞き返す。
此方を見ずに声を掛けてきたルッチはイカを口に入れ、ワインを煽ったところで目だけ此方にむけた。


「お前の上司だ。あの地味な女。今日は一緒に食事をして帰るのかと思っていた。」

「地味な女って……。ダリアはカクと一緒に食事に行きましたよ。私は、今日はゆっくりしたかったので遠慮したんです。」

「カクか……。」


軟派な同僚を思い出したのだろう。唇を僅かに歪め呆れたような表情をした。
彼の話で、あ、と気づきフォークを皿の上に置く。


「……もしかして、私が急に帰ってきてご飯の量の調整とかご迷惑かけちゃいました?」


日本で、付き合っていた彼氏が食事時間前に急に来て慌てて食事の量を増やしたり1品足したり……は私にも経験がある。
もともと自分ひとり分のつもりで適当に作っていた場合は、「来ちゃった♪」と玄関に立つ相手が例え愛する人物でも地味に迷惑なのだ。
しかも、目の前の彼にとって私は好きな相手でもなんでもなく、ただの同居人だ。
伺うようにルッチの顔を見ると、表情を変えることなく否定した。


「いや、お前は大して食べるわけではないし、普段からお前の量は特別計算に入れてない。」


決して私が小食というわけではない。
ルッチの食べる量が多すぎるのだ。ルッチに限らずカクもパウリーもジャブラも半端なく食べる。
まあ、動く量も半端ではないだろうし、見るからに体のほとんどが筋肉だし、食べなきゃ持たないのだろう。
仮に彼の食事から、私の普通の一食分を取り分けたところで量の内に入らないということだろう。
納得して一度置いたフォークを持ち、数本パスタを取り上げクルクルと巻き付ける。


「そっか、よかった。今日はルッチさんの美味しいご飯が食べたい気分だったんで。」


ちょっとおどけたように付け加えると、彼はフンと大きく鼻を鳴らしワイングラスを大きく煽り中身を全部空けた。


「当り前だ、バカヤロウ。ブルーノの料理は悪くは無いが俺のに比べたら劣る。」


普通の人なら照れ隠しをするところだろうが、照れるどころかどこまでも俺様な同居人が少し可笑しくなり彼に気付かれないように小さく笑った。


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