No.73




−バサリ


「……ごちそうさまでした。」


ダイニングテーブルの上でルッチが新聞を捲くる。
私の言葉に反応がないのはいつもの事で、それを気にすることなく食器をシンクへ運ぶ。
全くいつも通りの光景だ。

なんだか、私一人が気まずい思いを抱えて生活しているようだ。
出来るなら彼に会わないようにしたいところだが、目の前の彼が普通にしているのにそれも癪だ。
酔った勢いとはいえ普段、今みたいに私に無関心のように振舞っておいて、あんな風に急に感情を露にされたら、そりゃ戸惑ってしまう。むしろ怖い。

そして、この世界に馴染んで、暮らしてきたのに、彼の傍に居ると自分がこの世界の異物なのだと、思い出してしまう。
元の世界に居る母を、父を、友人を、考えないように生活しているのに、自分が肉親をも忘れてしまう薄情な人間だと……。

ぎゅっと、スポンジを握って水気を切り、手を洗って蛇口を閉める。
タオルで手を拭いて、キッチンの中からカウンター越しにダイニングテーブルの彼に声を掛ける。


「コーヒー、どうします?」

「ああ。」


私の問いには、短く一言。
拒否じゃないって事は、要るって事だ。
これも全くいつも通りの光景。
フィルターに、コーヒーの入ったキャニスター、マグカップを取り出し、やかんを火に掛ける。
シュンシュンと音と湯気を上げて沸騰を知らせたら火を止め、やかんの蓋を開けてお湯からボコボコ泡立つのが治まるのを待った。
落ち着いたお湯をマグカップの上にセットされたドリッパーに数回に分けて細く注ぎいれる。
コーヒー好きな人なら、もっと美味しいこだわった淹れ方があるのかもしれないけれど、普段自分で飲む分としてはこれで十分だ。
ドリッパーを軽く洗ってから、両手にマグカップを持ってダイニングへ向かう。
ダイニングテーブルに座ったままのルッチにマグカップをひとつ置き、もうひとつを持ってリビングのソファーへ向かった。

気まずい気まずいと思いながらも、こうやって繋がった空間に居ようとするのだから、私も大概図太い人間だと思う。
一口コーヒーを口に含んでからマグカップをソファーテーブルの上に置き、代わりにタウン情報誌を取り上げた。
ペラ、と頁を捲る。
NEW OPEN!の見出しの下に、最近ウォーターセブンに出来たレストランや小売店の情報が写真付で載っている。
斜め読みで軽く目を通しながら、ペラ、ペラと頁を捲る。
今月のお勧め新商品。
映画俳優のインタビュー。
今月のイベント情報。
カルチャー情報。
新刊本の書評。
求人情報。
不動産情報。

思わず、頁を捲る手が止まる。

1ページが9分割された小さな升目の中に、間取り図や地図と共に設備や家賃が書かれている。

築12年1K45,000ベリー
築5年1DK68,000ベリー
築3年風呂トイレ別オートロック1K80,000ベリー

あまりに現実的で生々しい数字が並ぶ。
大体がこんな条件の良すぎる広い部屋で35,000ベリーなんて普通じゃないのだ。
古い1Kのアパートだって借りれないじゃないか。

それもこれも、彼が私を此処へ置いておく為の策だったのだ。
最初から何かあるとは思っていなかったわけではない。
カリファにだって忠告された。
それでもまんまと嵌って抜け出せないでいるのは私だ。

明日にでもこの不動産屋に連絡を取って近いうちに引っ越そうと思えば出来るのだ。

大して使い道がないのに、不相応な程頂いている給料だ。
10万ベリー位出したって生活していく事ができる。
6・7万の部屋にしておけば、今の半分くらいになるけど、貯金も十分していけるだろう。

だけど、この不動産情報に全然気持ちが入らない。
紙の上に並ぶのは全く問題のない普通の物件だ。
彼がなんと言おうと私の生活は私のものだ。
引っ越したい時にいつでも出て行っていいはずなのだ。


−バサッ

情報誌を閉じて放り投げるようにテーブルの上に置く。
マグカップを手に取り、少し温くなったコーヒーをごくりごくりとマグカップの半分ほど飲んだ。
息を吐いて、映画俳優が笑いかける情報誌の表紙を眺めた。

それでも本気で引越しをしようとしないのは、私が、この生活に縋り付いているからだ。
広い部屋や、安い家賃、設備の整ったアパートメント……ではなく……。

チラ、とダイニングテーブルに目を向ければ、未だに真剣に新聞を読み込む姿が目に入った。

この、食えない男との生活に、縋り付いているのだ。
自分でも理解できない感情に溜息をつく。
これは、刷り込みの類だろうか。
生まれたヒヨコが、最初に目に入った猫を親と認識して付いて歩くような。
猫は、ひよこが育ったらペロリと食べてしまうだけかもしれないのに。


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