No.90
徐々に明るくなる窓の光を受けて、ぴったりと閉じたカーテンが少しずつ白く浮かび上がってきた。
部屋の扉を背にし、冷たいフローリングに直接腰を下ろしたまま、私は起きていた。
ああ、ついに朝を迎えてしまった、と動きの鈍い頭で考える。
自分でもどれ程泣いたのか分からないが、人間そういつまでも泣き続けられるものではなく、しばらくして泣き止んだ私は、朦朧とした脳みそを抱えたまま眠りにつくわけでもなくただぼんやりと過ごしていた。
乾いた涙で顔に張り付いた髪の毛を人差し指の先で除ける。
指先で触れた瞬間、頬がピリピリと痛んだ。
きっと、酷い顔になっているに違いない。
薄明りでぼんやり浮かび上がった置時計に視線を移す。
時計の針はいつも起きるより随分早い時間を指していた。
……シャワー浴びよう。
すっかり元通りになるとは思わないが、熱いお湯を浴びればぐちゃぐちゃな顔も頭の中も少しはすっきりするような気がした。
そして、今日は意地でも会社に行きたい気分だった。
のろのろと立ち上がると、すっかり冷え切った足の指先に痺れを感じた。
薄暗い部屋に電気を付けないまま、着替えとタオルを抱え込みそっと部屋の扉を開ける。
ダイニングやリビングの窓の光が届かない廊下は真っ暗で、向かい側の主寝室にに居るであろう同居人が活動している気配もなかった。
ホッとして、足早にバスルームへ入る。
脱衣室の扉に鍵を掛けて、電気のスイッチを押す。
一瞬の瞬きの後に室内を明るく照らした光に眉を顰めた。
長い時間暗い場所に居続けた人間には少々光が強すぎる。
刺激の強い光を遮るように目を瞑り、ボタンも殆ど外さぬままブラウスとキャミソールを一緒くたに脱いだ。
洋服の隙間から頭を抜き取ると、ようやく明るさに目が慣れてきた。
洗面台の鏡を見ると、この世の終わりのような顔をした女が立っている。
目や頬は赤く腫れているのに顔は青白く、ぐしゃぐしゃと乱れた髪はB級ホラー映画に出てくる幽霊さながらだ。
はっ、こりゃ不幸顔だ。
予想以上に酷かった自らの顔に自嘲して薄く笑みを浮かべてみると、沸々と胃の奥から可笑しみが湧き上がってきて、くくく、と声を殺して嘲笑った。
くつくつと腹筋を揺らしながら下着を脱ぎバスルームへ飛び込む。
蛇口を捻って頭上から勢いよく飛び出すお湯を受け止めると、一気に体中が温もりに包まれた。
「……ふっ……ぅぅ……。」
枯れたと思った涙が、また、流れた。
一度流れ始めると、なかなか止まらない。
それでも涙を堰き止めようと、瞼を閉じる。
暗い視界の中で、出会ってから今までの彼が、カラカラと回るフィルムが映し出す映像のように脳裏に蘇る。
近づいていたと思っていた。
小さな白い鳩を除いて、何人たりとも近づけることのない彼の、一番近くに居ると思っていた。
私は彼の心に触れられると、私の心に触れて欲しいと。
「……すき。」
昨日彼に告げた言葉を小さく呟いてみる。
たった2文字の言葉を口に下しただけで、途端に心臓や肺を圧迫するように痛みが湧き上がり、顔を顰めた。
こんなに、痛みを纏い、負けた気分になる言葉だっただろうか。
愛の言葉とは、もっと心に喜びや温かみを齎すものではなかったか。
少なくとも、昨夜彼に告げた時までは私にとってはそうであったのだ。
お前は、俺の恋人だ、と。
ゼロ距離にしてやるという意味の言葉を聞いている筈なのに、近いと思っていた彼との距離がとんでもない速さで広がっていくのを感じた。
彼は、きっと最初から、私を近づける気なんてなかったんじゃないだろうかと思ってしまう程に。
結局は、私は……ニホン人で、珍しいイキモノで、政府の人間でも諜報のターゲットでもない人間。
唯一彼らの事情を知っている一般人。
すなわち、非常に都合の良い女だったのだ。
頭では分かっていたのに本当の意味で重要視していなかった私の落ち度だ。
彼は、CP9なのだ。
彼は今、ウォーターセブンの島の人全員、一人残らず、欺いている。
いくら一緒に暮らしていたって、私を欺く事なんて、きっと彼には朝飯前だったのだろう。
私が彼を好きになる事は、彼の想定の一つだったのだろうか。
それなら、私の気持ちを得るために、仕掛けられたのはいつから?
どう考えても、クザンに連れられエニエスロビーに来たその日からとしか思えなかった。
心の中で相反する感情が渦巻いている。
この気持ちを都合よく使われてたまるかと、彼に対して憤り反発する自分。
恋人というポジションが得られるんじゃないかと、それでも彼と居たい自分。
通常の自分なら、より自分らしいと思えるのは前者であるような気がした。
都合の良い女など、私には似合わない。
なら、答えは簡単だ。彼から離れればいい。
この家からでて、ウォーターセブンから居なくなって、全然違う島でまた一からやり直せばいい。
クザンなら新しい生活が軌道に乗るまでのサポート位、快く引き受けてくれるだろう。
全然違う島で、……一から。
ぞわり、
彼が居ない生活がほんの少しも想像できなくて、そんな自分に熱いシャワーを浴びながら鳥肌を立てた。
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