No.91-side:GALLEY-LA
「は、」
一服しようと屋上の扉を開けると、柵の前に座っていた女が顔を上げた。
見慣れた存在ではあるが一瞬違う人物かと思い、思わず間抜けな声が口から飛び出た。
屋上に現れたのが俺だと確認したそいつは、すぐに手元に広げた雑誌に視線を落とした。
後頭部で纏め上げている事が多い長く黒い髪は今日は下ろされていて、初めて見た赤いフレームの眼鏡を掛けている。
たったそれだけと言えばそれだけなのだが、それだけで受ける印象はこうも違う物かと瞠目した。
「なんだ、その眼鏡。」
ゆっくり近づきながら問いかけると、そいつは一瞬こちらに顔を向ける。
眼鏡のレンズが光を反射してその奥の瞳を窺い知ることはできなかった。
その顔はすぐに元のように俯かれ、膝に乗せた雑誌に向けられる。
言葉もなく無視され少し肩を竦めてみるが、そんな様子にも目を向けられることは無い。
機嫌でも悪いのだろうか。
しかし、機嫌の悪い原因が自分だとしたら彼女はこの屋上には来ない訳で。
そう思いつき、構わず彼女の隣に腰を下ろした。
ほんの少し視線を宙に浮かせ、自分が彼女にとって風下に座っている事を確認してから葉巻を取り出す。
「それ、カリファの真似か?」
葉巻のキャップを齧りとり、プッと吐き捨てながらもう一度問いかける。
「……そういう、わけじゃないけど。」
しばらくの間を置いて、掠れた小さい声が聞こえる。
なんだよ、らしくねえな。
普段より随分しおらしい声に、ライターのフリントホイールを回す手を止め、隣の人物の横顔を覗き見た。
ほんの少しだけ眼鏡のサイドフレームを指で触れたナツはその流れで頬に落ちる長い髪を静かに払った。
そこでようやく、下ろされた髪で隠されていた顔が見える。
彼女の瞼が普段より重たそうで、若干疲れているような印象を受けた。
「寝不足か?」
「……ん。まあ、そうだね。」
やっとこちらを向いて薄く笑ったナツを見て、思わず咥えていた葉巻を落としそうになった。
真っ黒な瞳を囲う白目は無残にも真っ赤に充血し、顔色も悪く、気だるそうに疲弊した表情を浮かべている。
……まるで、泣いた後みたいだ。
普段のこいつと“泣く”という行為があまりにも結び付かない。
10人もの人間に囲まれて詰め寄られても怒りこそすれ、結局最後まで涙の雫ひとつ落とさなかった女だ。
その後しばらく会社中から何となく浮いた存在になっても飄々と笑っていた女だ。
そんなこいつを見て、女だてら頼もしいと思ったし、尊敬を持って心の中で鉄の女と呼んでいた。
そんな、どこか女性という性別を超越した存在のように感じていた友人が、今、まるで普通の女性のように弱い姿を見せている。
正直、戸惑っていた。
思わずそんな彼女から目を逸らし、ライターを点けて咥えたままの葉巻の先に火を当てる。
動揺を悟られないよう、彼女に煙が行かないように気を使っているフリをしながら彼女と逆側を向く。
数回強く吸いながら葉巻の先に火が回ると、ようやく落ち着いて顔の向きを元に戻した。
チラリと横目で彼女の様子を窺うと、すでに自分からは目が逸らされ、また手元の雑誌に視線が移っていた。
しかし、自分がこの場に来てからその指は一度もページを捲ってはいない。
「飯、食ったのか。」
言いながら、いつか自分がこうしてた時に後からやってきたナツに同じことを問われたなあ。と思う。
口から吐く煙をリング状にしながら横目で見ると、僅かに首を傾げるのが見えた。
「食欲が、なくて。」
「そっか。」
逆の立場の時は、自分はこいつから食事を貰った。
無理矢理ではあったが押し付けられたパンを食べて、少し空腹が紛れた事で不思議と凍りついていた心がほんの少し融解したような気がしたのだ。
なのに掠れた声で返される言葉に、今の自分にそんな用意も無い事が何となく申し訳なかった。
自分が受けた事を同じように返せない。まるで、友達甲斐が無いような気さえしてくる。
「ま、飲みに行こうぜ。」
いつものように。
それで、少しでも隣に座る友人の心が軽くなるなら、と、なんとなく贖罪のような気持ちで呟く。
俺の言葉に、彼女が顔を上げた気配がした。
頬に視線を感じながら、左手の人差し指と親指で葉巻を持ち上げ、フゥと肺の煙を吐ききる。
そして横を向いてこちらを見上げる瞳と視線を合わせた。
「……無理。今日パウリーの分まで奢れるほどお金持ってきて無いもん。」
覇気のない顔で、それでもゆるゆると首を振りながらいつかと同じ台詞を零す彼女に、にっと笑いかける。
そしてオーバーな位に肩を竦め、心外だと言わんばかりに眉を上げて見せた。
「おいおい、俺をなんだと思ってるんだよ。これでも泣く子も黙るガレーラ1番ドッグの職長だぜ?」
少し目を見開いて止まったナツは、次の瞬間目を細め、フ、フ、フ、と息を吐き出すように笑った。
まだ弱弱しいながらもようやく浮かべられた笑みに、いくらか安堵する。
「御馳走になります、職長。」
「おう。」
ポンポンと彼女のつむじの辺りに手の平を当てる。
指に挟まれた葉巻を口端に咥えてから、ジャケットに仕舞っている時計を取り出した。
直に休憩の時間が終わろうとしている。
「あ、もうこんな時間か。お前、そろそろ行け。」
「うん。……パウリーは?」
「これ吸い終わったら行く。」
吸いかけの葉巻を指しながら言うと、そうか、と素直に頷いたナツが、少しヨロヨロとした足取りで階段に向かう。
おいおい、大丈夫かよ、年寄りかお前は。
思わず立ち上がり、階段へ向かう重い扉を開けてやる。
風で流される髪を押さえながら俺を見上げたナツは、ふ、と笑みを浮かべ扉の中へ体を滑り込ませた。
「じゃあ、夕方。」
「おう。」
軽く手を上げた後姿を見送って扉を閉める。
さっき座っていた辺りまで戻り、こんどは座らずに柵に腕を乗せて中庭を見下ろす。
ごちゃごちゃと行き交う社員の群れをぼんやり眺めながら、ふと視線を感じその原因を探した。
すぐに、船大工には不釣り合いな黒いシルクハットが目に飛び込んでくる。
俺が目を向けると、数秒視線を合わせた後すぐに踵を返して建物の中に入って行った。
……なんだ?
何か用事でもあったのだろうか。
……まあ、いいか。
空を仰いで、すう、と煙を肺いっぱいに吸い込む。
普段中庭に姿を見せることのない男の視線に違和感を感じたものの、俺はそれについて特に深く考えることは無かった。
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