6-2




「君のママ、帰って来なくなったの?」


夕食後、ホームズ夫妻が居ない場でシャーロックがポツリと言った。
マグカップの紅茶に落としていた視線をはっと上げる。
彼は何でもないような顔でこちらを見ていた。
まるで「今日のお弁当は何だったの?」と聞くような、「ビスケットにジャムを付けるの?」と聞くような、そんなテンションでの問いかけだった。

しばらく呆然と彼の顔を見つめた後、カクカクとぎこちなく首を動かし肯定した。
彼は、すべてを分かっていたと言うように数回頷き紅茶に口を付けた。
そして何かを思いついたように私を見る。


「何日?」

「……何が?」

「君のママ。何日帰ってない?」

「昨日で3日。」

「Hmm、今日は帰ってくる。」

「……本当?」


勿論そうであるなら嬉しいが、いつもながらなぜ分かるのか。
訝しげな視線を送っても、彼は自信満々な表情を崩さず頷く。


「君の食糧の問題があるからね。夕食はうちで食べるにしても、問題は朝食と昼食だ。君は給食の申し込みをしていないだろ?この3日お弁当はどうしてた?」

「えっと。チーズを挟んだパンとリンゴを持って行ったり。ジャムを塗ったパンとバナナとか。」

「そう。そういうもの。君はまだ小さいしお金も持っていない。だからそういうものの補充に来る。」

「補充ってどういうこと?ママはうちに帰って来たくないの?」

「さあ、そういう訳じゃないと思うけど。君の待つ家より行きたい場所があるんじゃない?」

「……それって、どこ。」


シャーロックの言葉によって、頭と心の中はぐちゃぐちゃなのに、私の表情は平坦だった。
声もどんどん低くなっていくのが分かった。疑問符の為に語尾を上げる事すら出来ない。
カチカチと小さな音がするからなんだろうと思ったら、震える私の手の爪が握りしめたマグカップと触れ合う音だった。

表情と顔色を無くす私を、シャーロックはまるで不思議な物でも見るような目で観察していた。
私は力の入らなくなった視線を彼に向ける。


「ねえ、シャーロック。ママはどこに行ってるの?」

「さあ、」

「あなたならわかってるんでしょ?」

「まあ……アー、そうだ、そんな事より、」

「シャーロック!!」


キッチンで仲良く後片付けをしているホームズ夫妻に聞こえないように、声を抑えてシャーロックの言葉を遮った。
彼はしばらく考えるように沈黙した後、渋々口を開いた。


「僕が何を言っても、泣いたりヒステリーを起こしたりしないのなら。」

「……しない。」

「どうだかね。……まあ、君のママに恋人が出来ていた事は前から知っていたよ。」

「こ、恋人?」

「ああ。」

「……いつから。」

「アー、1ヵ月前か、半年前か、1年前か……まあそれ位。」

「1年前なのね。」


彼は肩を竦めた。


「さっき、あなたは私はまだ小さいし、お金もないって言ったけど、それは間違ってたね。」

「へえ?持たせてもらったの?いくら?」


シャーロックが意外そうな顔をした。


「20ポンドくらい……それに、この間ママにキャッシュカード渡されたの。持っておきなさいって。」

「For real?それって使い放題?」

「そんな訳ないでしょ。」


口笛でも吹きそうなシャーロックを睨み付けた。


「……ママ、彼氏に私の事隠してるの?」

「たぶんね。それか相手が余程子供嫌いなのか。」

「そんなの、隠しきれやしないわ。」


シャーロックは僅かに首を傾げただけで、否定も肯定もしなかった。
さっき、泣いたりヒステリーを起こしたりしないと言った手前、鼻の奥にツンと込み上げるものや、脳みそを沸騰しそうなくらい熱くしているものを抑え込むのに必死だった。


「わたし、ままに、す、すてられる?……おかねも、カードも、そのためなの?」


色んなものを抑え込んでいるから、声が震えて仕方なかった。
シャーロックは相変わらず表情を変えずにいる。


「いや、すぐには大丈夫。君が大きくなるにつれ家を空ける日数も増えていく感じじゃないか。」


“ママが君を捨てたりするもんか!だって彼女は君のママだろう?君を世界で一番愛しているんだから!”
そんな言葉を言ってくれとは言わないが、いや出来たらそこまで言って慰めて欲しいけど、シャーロックにそれを求めるのは無理だ。
でも、もう少し他に何か言葉があるんじゃないだろうか。

堪えていたものが目尻に溢れてくるのを感じ、足をソファーに乗っけて膝を抱え、シャーロックから顔を逸らした。


「ああエレナ、この事、うちのパパとママにはもう少し言うなよ。君のママの職場に電話して説教でもしかねない。そんな事をして君のママが改心して家に帰ってくるようになったら大変だ!」

「何が大変なのよ!おばさんの電話で、そうなるんならそうしてもらうわ!」


膝に顔を埋めて涙を隠しては居たけど、私の声はヒステリックな泣き声そのものだった。


「余計な事をするな!そんな事をしたら僕のラボが移せなくなる!!」


私のヒステリックに対抗するようなシャーロックの口調で、私の涙は止まった。
嫌な予感がして、膝から顔を上げる。
案の定シャーロックが少し怒ったような顔をしていた。


「は?ラボ?なんですって?なんて言った?」

「ラボだ。合ってる。Laboratory。君のママが完全に帰って来なくなったら、僕の部屋の実験道具を君の家に移す。うちはママが解剖用のヒキガエルを冷蔵庫に入れるのを嫌がるんだ。」

「……。」

「グッドアイディアだろ?」


得意そうに口角を上げるシャーロックをパチパチと数回瞬きを繰り返しながら見つめ返す。
彼の言葉を頭の中で反芻し、理解したところで自分の体がさっきまでとは違う感情で震えはじめるのが分かった。

さっきまでは、悲しさと、不安、恐怖。


「そ……そんなの……」


今は、怒りだ。


「そんなの……うちだって駄目に決まっているでしょう!!!」

「なぜ!君の家は部屋が余っているじゃないか!」

「この家だって余ってるわ!」

「マイクロフトの部屋だ!ラボになんかしたら殺される!」

「とにかく絶対駄目!絶対お断り!おばさんが駄目というものがうちでオーケーな訳ないでしょ!馬鹿シャーロック!」

「僕は馬鹿じゃない!!」


人差し指を突き付け合いながらギャアギャアと喧嘩を始めた私たちをミスターホームズが慌てて止めに来て、私とシャーロックはそれから2日間口を利かなかった。


ママは、確かにその日の夜、帰って来たようだった。
次の日、ママが用意した朝食を食べた後に冷蔵庫やストッカーを開けたら、シャーロックの言う通り、私でも扱えそうな食材が充実していた。


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