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くすんくすんと鼻を啜りながらベッドの上に座っていた。
マイクロフトは形式的に泣いている私を慰めるかのように隣に寄り添い、髪を撫でている。
撫でる手に誘われるように彼に頭を凭れようとすると、彼はさり気なく私から遠のいた。
マイクロフト・ホームズとはそういう男である。

それでも顔を見上げれば、ちゃんと口元に笑みを浮かべて見つめ返してくれる。
形式上、そうすべきだと分かっているからである。


「マイクロフト。」

「なんだい?」


声を掛ければ穏やかに聞き返す。本心で笑っていなくても、だ。

たった15歳の彼は、この頃から既に世の中を渡る為の術を心得ていた。
シャーロックには、マイクロフトという天才である人間の見本があった。
学校へ入ったら、周りの子供は馬鹿なんていう生半可な言葉で形容できるものじゃないぞ。まるでゴールドフィッシュだ。と教えてくれる人間が居た。
しかし、マイクロフトにはなかった。自分で切り開いていかなくてはならなかった。
それが例え形ばかりであろうとも、15の頃には既に確立していた彼の処世術は社会で渡って行くには十分な物だっただろう。

しかし私にはそれが作り物の笑顔だと見抜けるから、少し寂しい気持ちになる。
マイクロフトの手を握ると、彼は逆の手で私の甲を慰めるように撫でてくれた。


「マイクロフト、シャーロックは今何をしているの?」


私の甲を撫でるマイクロフトの手が止まった。
彼の顔を見上げると、何か考えるように一点を見つめる。
しばらくそうしてから、また優しく微笑み私を見下ろした。


「エレナは、昔の事を思い出すときどうしてる?」


彼の質問の意図が分からず、少しぽかんとして見上げた。
マイクロフトはたまにこういう突飛な、人をぽかんとさせる質問をする。
それでも、彼の質問を少し考えて、首を振った。


「わかんない。あの時どうだったかな?って思って、思い出すときもあるし、どうしても思い出せない時もあるよ。」

「……そうか。……じゃあ例えば、今とても怖い思いをして、忘れたいと思ったらどうする?」

「そんなのわかんないよ。思い出さないように気を付けても思い出すこともあるし、一晩寝たら忘れちゃうことだってあるもの。」


ふむ、とマイクロフトは一つ頷いた。


「羨ましいね。君のように単純な脳を持って生まれていたら、多少馬鹿である事を引き換えにしても、私もシャーロックもこんなに面倒な事はなかったのにと思うよ。」


言葉にしている事は失礼千万なのだが、彼は本当に心から私を羨ましいと思っているらしかった。
彼は、私の手の甲を撫でる動きを再開させながら言葉を続ける。


「君たちのような人間は顕在意識として脳の3%しか使ってないんだよ。あとの97%は潜在意識で、私達はその常人の潜在意識である部分を常に、」


マイクロフトはちゃんと英語を話しているんだろうか。
まったく意味の分からない言葉を紡ぐ彼の口を凝視すると、彼ははっと気づいたように口を噤み、数瞬考えた上で仕切り直した。


「私たちの脳は一つの記憶装置なんだ。物事を忘れるという事を基本しなくてね。意図的に不要と判断した情報をデリートする事もあるが、必要な知識を忘れることはない。
君のようにちっぽけな脳だと新しい情報が入って容量がいっぱいになると古い要らない情報を押し出すようにして捨てる。そうやって段々昔の事を思い出せなくなるね。常に引き出せるアイテムが少ない君たちはそれで良いだろう。
しかし私達は違う。じゃあ、どうするか。情報を整理する必要があるのだよ。この中で。」


マイクロフトが、人差し指でとん、と自分のこめかみを突いた。


「日常必要な情報は、君たちと同じように取り扱っている。それでも君たちより随分多い情報量だと思うけどね。
しかし、もっと深く詳しく思い出さなければいけない時、私達は集中して記憶を引き出す作業をする。
私たちのこの中には、沢山の部屋があるのだよ。その中には記憶の光景が広がっていたり、今まで読んだ本が置かれていたりする。
廊下があって、階段があって、また部屋がある。そして、その部屋にはまた知識や思い出が置かれている。自在にその部屋を行き来でき、すべての記憶を自在に呼び起こす事が出来る。
精神の宮殿(マインドパレス)だよ、エレナ。……マインドパレスの方法は、3年前、私がシャーロックに教えた。」


彼の話は私の理解の範疇を軽く超えていて、逆に私の頭の中は冷静だった。

彼の話を聞いて思った感想は、なんだか言葉選びが仰々しいなって事くらいだ。
普通に記憶の館とか、そういうのでは駄目だったのだろうか。
「精神(マインド)」の後によりにもよって「宮殿(パレス)」を持ってくるあたりマイクロフトらしい。
それとも、私が見る事の出来ぬ彼らの頭の中の部屋というのは、バッキンガム宮殿のように煌びやかで豪華なのだろうか。

ああ、この話を聞いて持つ感想がこれとは、やっぱり混乱しているのかもしれない。


「しかし、シャーロックのマインドパレスはまだ完全ではない。8年の人生で知識をデリートしたことは無いだろうし、忘れらない事に苦しめられる事もある。」


一貫して穏やかな微笑みを浮かべていたマイクロフトの表情が曇った。


「今、彼は、ある記憶をマインドパレスの奥の奥に仕舞う作業をしている。……とても奥に。箱に入れて、鎖を掛けて、南京錠も掛けるだろう。……エレナ、悲しい事があったのだよ。とても悲しい事がね。」

「……何があったの?」


あのシャーロックがあんなに取り乱し、学校に居るはずのマイクロフトが急遽戻ってくる事態だ。
なにかとても大変な事が起こったのだという事は、私にも予測できた。
しかし、マイクロフトは肝心な部分を口にすることは無く、ゆるゆると首を振った。


「マイクロフトと一緒に来たひとは?」

「ドクターだ……。ある組織の、ある分野に特化したプロフェッショナルだよ。シャーロックの悲しすぎる記憶を厳重に仕舞う手伝いをしに来てくれた。」


マイクロフトは、一緒に来た人の説明の時、眉を僅かに顰め、少し苦しそうな表情を見せた。

頭の中で、大きな重たい宝箱に鎖と南京錠を付けるシャーロックを想像するが、それで物事を思い出さないように仕舞ったりできるなんてやっぱり信じられなかった。


「催眠術とは違うの?」

「違うよ。」


私の純粋な疑問に、マイクロフトは即答しながら少し可笑しそうに笑った。
今日初めて見た、彼の本当の意味での微笑みだった。

コンコンコン、と部屋の扉がノックされる。

緩めていた表情を一瞬にして引き締めたマイクロフトが素早く立ち上がり、細く開けた扉の隙間からドクターだという大人の人と小声でなにやら言葉を交わした。
ドクターはそのまま帰って行ったようで、玄関が開閉する音が聞こえる。

マイクロフトが、部屋の扉を少し大きく開けて私を振り向いた。


「おいで、エレナ。3人で少し話をしよう。」


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