7-5
「さあ、いい子たち。お腹は?」
場の空気を変えるように、ぽんと手の平を打ったマイクロフトがにっこりと私たちを見渡した。
彼の動きは非常に芝居じみていたが、私の緊張を少し和らげる効果はあった。
そういえば今日は夕飯を食べていないが、なんだか全然お腹が空いていない。
ふるふると首を振ると、彼はそうかと言うように優雅に頷いた。
シャーロックの様子を見ると、ぐるぐる巻きのブランケットから首だけ出して、私達を視界に入れない方角を向き、ぼんやりとしていた。
「じゃあ、今日は夕食はキャンセルにしようか。代わりに明日の朝沢山お食べ。ああ、温かい飲み物を淹れてあげよう。エレナの部屋は暖房はあるけど少し冷えていたからね。紅茶があったかな、エレナ?」
「うん。」
マイクロフトを先導するようにキッチンへ入り、ティーキャディーを出したり、マグカップを出したりした。
彼は初めてのキッチンではないかのように手慣れた様子で準備を始め、あっという間に良い香りの紅茶を3つ入れた。
私はシャーロックのマグに砂糖を2杯と、自分のマグに少しのミルクを淹れる。
「そういえば、エレナの母上はいつから帰っていないんだ?」
ぎくりと心臓が縮み上がり、勢いよくマイクロフトを見上げた。
「……帰ってるよ?」
「数日毎だな。ネグレクトか。」
マイクロフトは視線を細かく部屋中に動かし、確信した様子で言った。
「……おねがい。おじさんとおばさんには言わないで。」
補導されて、ママと引き離されるのもホームズ家と引き離されるのも嫌だ。
マイクロフトは、何でも無いように「OK」と頷いた。
「見守りを強化しておこう。」
「見守り?」
「……いや、こちらの話。さあ、紅茶を持って行って。」
私とシャーロックの分のマグを両手で持ってリビングに行くと、マイクロフトはシャーロックの隣に座るように促した。
言われるがままそこに座ると、彼はシャーロックに巻かれたブランケットを少し解き、広がったブランケットの中に私も入れた。
シャーロックと私がセットでブランケットに包まれた様子を満足そうに眺めたマイクロフトは、向かいのソファーに長い足を組んで座った。
「……赤ひげはどうしたんだっけ。」
まるで半分夢でも見ているようなぼんやりとした口調でシャーロックが呟いた。
「遠くへ行ってしまったじゃないか、シャーロック。」
そんな彼に、マイクロフトが珍しく穏やかな声で返した。
「遠くへ……。」
シャーロックがオウム返しのように呟く。
この兄弟は、決して仲の良い、お互いを労わり合うタイプの兄弟ではない。
マイクロフトは歳の離れた弟に事あるごとに無理難題を押し付け、それが出来ないと嘲うかのような笑みを浮かべるし、シャーロックはそんなマイクロフトを意地の悪い兄だと敵視している。
しかし、この時のマイクロフトは紛れも無くシャーロックを労わっていた。
吐き出す息でさえも目の前の弟を壊してしまわないようにと、慎重に優しく言葉を発していた。
「シャーロック、エレナ。赤ひげは遠くへ行ってしまったんだよ。」
「……どこへいったの?」
私は急に告げられた事に動揺し、衝動的に込み上げてくる涙を必死にこらえていた。
だって、赤ひげは友達だったのに。昨日までシャーロックと一緒にうちに来てたのに。急にさよならも言わないで何処かへ行ってしまうなんて。
マイクロフトは私の問いに少しの間目を伏せ、また優しい笑みを向けた。
「赤ひげは、幸せの谷へ行ったんだよ。」
「幸せの谷?」
「そう、それが彼の幸せなんだ。」
「ホームズ家に居るより?」
「そうだよ。」
「……幸せの谷は、どこにあるの?」
私とマイクロフトの会話を、シャーロックはじっと動かずに聞いていた。
動かないし言葉も発さないけど、さっきのような夢現の状態ではなく、真剣に私たちの話を聞いているのがわかった。
マイクロフトは、私の最後の質問に答えることなく席を立った。
「……帰るよ。ママに呼ばれて寮を抜け出してきたんだ。」
普段の彼ならば、帰ると決めたら他の人間など構うことなくさっさとその場を辞するのだが、流石に今日ばかりは幼い私たちをそのままソファーに残して帰る事はしなかった。
2人一緒くたに包んでいるブランケットごと私たちを立たせ、私の寝室へ移動させた。
そしてベッドに2人並べて寝かせ、羽毛ふとんをその上から掛けた。
「明日は休みだろ?ゆっくり眠ると良い。起きたらホームズ家へ電話して。パパが迎えに来る。」
マイクロフトは私の額に掛かる前髪を避けながら連絡事項を伝えた。
「マイクロフトは学校へ帰っちゃうの?」
「ああ、クリスマスにまた帰って来るよ、エレナ。」
前髪が避けられむき出しになった私のおでこにマイクロフトがキスを落とす。
彼は私の隣のシャーロックに視線を向け、少し迷うような素振りを見せた後、シャーロックの胸元を軽く叩いて部屋を出て行った。
マイクロフトが出て行って、暗く静かになった室内に、ガチャンと玄関の錠が回される音が響く。
しん、と静まり返る寝室で、真っ暗な天井を見上げる。
そういえば、ベッドに入っているのにパジャマに着替えていない。気づいてしまうと何だか落ち着かない気持ち悪さがあるが、今日は仕方がない。
隣のシャーロックを盗み見ると、黒くシルエットで浮かぶ彼の横顔が瞬きをしているのが見えた。
「シャーロック。」
返事は無かったが、彼が起きているのは分かっていたので、そのまま続けた。
「……幸せの谷って、本当にあるの?」
しばらくの間を置いた後、「ある。」と返事が帰って来た。
「マイクロフトは嫌な奴だが、間違った事は言わない。」
「……そうだね。」
なんだかんだ言って、この弟も兄を心から信頼しているのだ。尤も、本人も認めたくない事実だろうが。
「ねえ、シャーロック。赤ひげは幸せの谷で、本当に幸せになるの?」
「……なるって、マイクロフトが言ってただろ。」
「だって、谷に何があるの?」
「……チキン、とか。」
シャーロックが、赤ひげの好物を上げた。
「あと、ボール、とか。」
大好きだった玩具を上げた。
「あと、クローバー。」
「ああ……。クローバーの芝生に行くと、ゴロゴロ転がるのはなんでかしらね。」
「嬉しいからだろ。」
「そっか。」
片手に何かが触れたかと思うと、ぎゅっと握られ、手を繋がれたのだと分かった。
「じゃあ、赤ひげ、幸せだね。」
「……うん。」
短く返事をしたシャーロックの声は震えていた。
ごそりと、彼が寝返りを打ってこちらを向いたのが分かった。
「……でも、僕は不幸だ。……赤ひげが居ないなんて。」
返す言葉が見つけられず、繋がった手の平に力を込める。
彼が縋るように私の背中に腕を回した。
「...I miss you...Redbeard.」
赤ひげを呼びながら私を抱きしめるシャーロックは、暗闇の中で泣いていた。
私の体温が、少しでも赤ひげの代わりになればいい、と思った。
赤ひげはきっと、シャーロックがこうやって泣く夜は必ず寄り添っていただろうから。
それからしばらくの間、イバラに残った赤い毛や、ホームズ家の庭に転がる汚れたボールを見つける度、ひっそりと小さく涙を流した。
幸せの谷に居る、赤ひげを想って。
赤ひげ、私も寂しいよ。
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