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沈黙を破ったのはママの声だった。


「……なにそれ。毎日一緒に寝て、あの子に何してるの、汚らわしい。」


しばらくの間の後、聞いたことも無い冷ややかなママの声で紡がれたのは信じられない言葉だった。
シャーロックと話しているのは本当に私のママなのだろうか。
本当は同じ声の違う人なんじゃないだろうか。
真っ暗な部屋の中、ドアの数ミリの隙間から洩れる細い光を見つめながら考える。


「汚らわしい?汚らわしい事をする為にエレナを放って彼氏の家に行っているのは貴女じゃないんですか?」

「……ホームズさんに連絡を入れるわ。男兄弟ばかりの家庭に大事な娘を預けるんじゃなかった。」

「どうぞ。母に報告しても状況は変わりませんよ。むしろ僕が此処へ来ているのは両親とも知っているので、貴女が何か言っても今更何をと言われるでしょうね。」


子供相手にも関わらずどんどん感情的になるママに引き換え、その相手の子供であるはずのシャーロックの声はどこまでも落ち着いていた。
最初はともかく、今となってはどちらが大人か分からない位だ。


「私はね、シャーロック。あなたのご両親を信用していたの。もちろんエレナが賢くて良い子である事を分かった上でよ。あなたも良い遊び相手になってくれていると思っていたけど。」

「ええ、その考えで合っていると思いますよ。」

「いいえ、間違っていたわ。もう、エレナを此処へ住まわせて置くことは出来ない。本当は……彼女がセカンダリースクールに上がるタイミングでと思っていたけど、近々この家を引き払って引越すわ。」


ママの言葉に声を上げそうになって思わず口を押える。


「彼氏の家へ?」


シャーロックの問いに、しばらくの間を置いて、開き直ったように「ええ。」とママが肯定する声がした。
シャーロックが、初めてそこで溜息を吐く。


「それはどうでしょうね。」

「シャーロック、これは大人の決める事なの。あなたに何を言われたって、」

「エレナが、何も知らないとでも?」


ママが息を飲む音が聞こえた。シャーロックは構わずに言葉を続ける。


「ミスノールズ、あまり子供を舐めない方が良い。エレナは、貴女が家に帰って来ない理由が赤毛の男性のせいだと6歳の頃から気づいていますよ。自分より2つ3つ幼い子供の存在もね。」

「なんで、」

「6歳の彼女が僕に何と言ったと思います?ママは余所で他の子のママをしているの?と聞いたんですよ。答えは確実にYESだと分かっていたけど、僕は答えることが出来なかった。彼女は僕が考えている以上に貴女の事を心から大事に思っていたようだから。」

「私だって大事だわ!当たり前でしょう!たった一人の娘なのよ!」

「なら分かるでしょう。自分のママを何年も自分から横取りしていた男性と子供に彼女が抱く心境が。この家を貴女の独断で引き払ったとして、転校したあげく僕や両親に会えなくなった彼女がどんなに孤独を感じるか、」

「私が居るわ。」

「ええ、見知らぬ男性や子供と愛情を分け合わなければいけない母親がね。」

「……分け合うって、家族とはそういう物ではないわ。」

「でも僕は認めるわけにいかない。」

「だから、私とエレナの問題に貴方は関係ないのよ?シャーロック。」

「3年前。貴女が帰って来ないと悟った夜に、僕とエレナはお互いが家族だと認め合った。エレナは僕の家族だ。勝手に連れて行くなんて許さない。」

「まるで小さなヒーローね。」


ハッ、とママが吐き捨てるように笑った。


「エレナを大切に思ってくれてありがとう。でも全くお話にならないわ。賢い貴方ならわかるわね?今日までは、うちに泊まる事を許してあげるわ、シャーロック。近々、貴方のご両親にお話をしにお宅へ伺うから。……さあ、もう寝なさい。」


さっきまで感情的だったママの声がすっかり落ち着きを取りもどし、シャーロックを宥める様に寝室へ促す。
しかしシャーロックは諦めなかった。


「貴女がこの3年間、エレナをネグレクトしていた証拠は此方にあるんですよ。ミスノールズ。もし、貴女がエレナを連れて行くと言うのなら、僕はそれを両親に見せる。警察にも、CSCにもだ。」

「……大人を脅すつもり?」


ママの声が僅かに低くなる。
私の裸足の足先は冷たいフローリングで冷え切っていた。
リビングで繰り広げられる会話に、胸の奥まで凍りつくようだった。


「シャーロック、私が逮捕される事になったら、エレナは貴方の前に二度と現れることはなくなるわ。」

「分かっていますよ。それよりも貴女が逮捕されることの方が僕にとっては重要だ。もちろん、今まで通りエレナをこの家に住まわせ、僕の両親に預けてくれると言うのならそんな事はしません。」


さあ、どうします?とシャーロックがママを促す。
10歳の子供のする業とは思えなかった。大人相手に遣り込める様子はまるでシャーロックが悪役のようだとも思った。
ママが大きく息を吐く音が聞こえた。


「小さなヒーローさん、こんな時間だし、今日この話は堂々巡りになりそうだわ。そう思わない?ねえ、シャーロック。おばさんに時間を頂戴。今の私にはエレナの事を考えたらやっぱり母である私と、新しいパパや弟と新しい家族を築くのが一番いい事に思えるのよ。」

「それは貴女が貴女目線でしか物事を見てないからだ。2年ぶりに、エレナに会う事をお勧めしますよ。」


そう言い残し、シャーロックがこちらに向かって歩いてくる気配がした。
慌ててベッドに戻り、布団に潜り込む。
布団の中はすっかり冷えてしまっていて、足先もすぐには温まりそうになかった。
ドアが音を立てないように開かれ、それに合わせて部屋に差し込んできた明かりはすぐに遮られて再び闇が立ち込めた。
ひたひたとシャーロックの気配が近づき、僅かな衣擦れの音の後、椅子に彼のガウンが掛けられた。
背後から彼がベッドに潜り込んでくる。
眠ったふりをしていると、彼が手を伸ばして私の腕を擦った。


「……冷えてる。」

「……。」

「今度聞き耳を立てる時はちゃんとガウンを羽織ると良い。」


シャーロックには何もかもお見通しなのだ。
寝返りを打って彼の方を向き、その薄い胸に顔を押し付けた。
彼も今さっきまでベッドの外に出ていたから、Tシャツは冷たくなっていたけど、その下から静かな鼓動と温もりの気配が感じられた。


「ねえ、シャーロック。」

「……ん?」

「ママ……老けてた?」


シャーロックは狡い。なんでも私より先に知ってしまうんだから。
私の問いかけに、彼が吐息だけで笑った。


「いいや、君の母君は相変わらずお美しかったよ。」


シャーロックが腕を擦っていた手を私の後頭部に回し、髪をゆっくり梳くのを感じながら目を瞑る。
大丈夫、頭の中はこれ以上ない位にぐるぐるしているけど、彼にくっついていればちゃんと眠れる。

深く眠れるのだ。


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