9-4
ミスターホームズの車に乗っている時から、何か、あると思った。
いつも通りのお迎え。
「おかえり、宿題は出た?」車のドアを開けた時に掛かるいつもと同じおじさんの言葉。
でも、彼の笑みはどことなくぎこちなく、額に落ちてきた唇はいつもより丁寧にキスをした。
玄関の前に着くと必ず言われる言葉。
「いいかい?着替えたら夕飯前にはちゃんとうちに来ること。シャーロックもね。」
今日はその台詞が無かった。
「またあとでね。」も無く、戸惑う私にハグをして、両頬と米神の上あたりの髪の毛にキスされる。
微妙な笑顔で私を降ろしたミスターホームズが車で走り去る姿を呆然と見送った。
なんとなく、赤ひげがいなくなっちゃったあの日が思い出されて、なんだか嫌な予感がしながら、恐る恐る玄関を開ける。
いつも通り鍵は開いていて、リビングの奥に人の気配がした。
ああ、シャーロックがちゃんと居る。
ほっとしながらリビングへ向かう。
「ただいま、シャーロック。ねえ聞いて、おじさんが変なの。」
話しかけながらリビングに足を踏み入れた私は目を見開いて固まった。
肩に掛けていたトートバッグがズルリと紐がずれ、ゴトンと音を立てて床に落ちた。
「おかえりなさい、エレナ。」
リビングに入ってきた私を出迎えたのは、記憶よりも髪が短くなったママと、赤毛の男の人だった。
−−
ママと知らない男の人が並んで座る向かい側に座っていた。
私にジュースを用意しようとするママを頑なに引き留める。
この人と二人きりになるなんて絶対に嫌。
今ほど空気の読めないシャーロックが来てくれたらどんなに良いだろうと思うけど、車の中のミスターホームズを思い出しそれはきっと叶わないだろうと肩を落とした。
この家の中で一人ぼっちで居る時よりも心細くて仕方がなかった。
「エレナ、背が伸びたわね。髪も。」
「……うん。」
髪の毛は確かに小さい頃よりは伸びたけど、たまにミセスホームズが毛先を切ってくれるから精々鎖骨に掛かる程度だ。
身を乗り出して私に話しかけるママとは対照的に、私はママの顔も男の人の顔も見ず、ソファーテーブルの天板にいつだったかシャーロックが付けた小さな傷を凝視していた。
「エレナにちゃんと紹介した事なかったわね。アルバートよ。ママ、少し前から彼と付き合ってるの。」
……少し前、ですって?
チラリと、ママの横に座る男性に視線を向ける。
彼は一瞬私と目が合ったことを見逃さず「初めまして」と笑顔を見せた。
癖のある短い赤毛の下には妙に色白でソバカスの散った顔があった。
彼の挨拶に言葉を返すことも、笑顔を返すこともせず再び視線をテーブルの傷に戻した。
「ごめんなさいね、アルバート。この子少し人見知りしてるみたい。難しい年齢だから。」
「いいよ、仕方ない。」
仏頂面の私について横の彼氏に謝るママに、無性に腹が立った。
私は人見知りでふて腐れているわけではないのだ。ママなのにそんな事も分からないなんて!
「エレナ。ママね、アルバートと結婚を考えているのよ。彼、今度お仕事でマンチェスターに行くことになったの。この町よりも都会よ。大きなお家を買って、ママとエレナも一緒に住まないかって言ってくれてるのよ。」
素敵でしょうと声を弾ませるママは、笑顔の下にいっぱいの不安を隠してる。
きっと、私が首を縦に振るのが一番いいのだろう。そうすればママの不安もどっかに飛んで行ってしまうし、ママとアルバートの間に蟠りを残す事にもならない。
……でも。
ごめんね、ママ。
私は静かに首を横に振った。
「エレナ。僕はね、ずっと娘がほしかったんだ。一人息子が居るんだけどね。君より少し小さいんだけど、甘えん坊で優しい子だ。サッカーが好きで今クラブに入ってる。活発で、きっと君とも仲良くなれると思うんだよ。」
アルバートがママに助け舟を出すかのように言葉を紡ぐ。
ああ、この場から逃げ出したい。今日のホームズ家の夕飯は何かしら。
「エレナ、お願いよ。確かに小さな貴女を一人ぼっちにさせてしまっていたのは悪かったわ。でも、学校に必要なものはちゃんと揃えたし、靴もお洋服もお金も上げた。不自由にさせた事はなかったでしょう?マンチェスターに行けば一人ぼっちになる事はもう無いのよ。ちゃんとママと暮らせるの。それに新しいパパと弟が出来るのよ。」
ずっと見続けていたテーブルの傷から、ようやく顔を上げ、ママを見る。
やっと、視線を合わせた私にママが少し安心したように笑った。
私は、ママを数秒見た後、隣のアルバートを見た。
「アルバート。私の事は知っていた?」
「もちろんだよ。可愛くて賢い娘は彼女の自慢だからね。」
アルバートがママの肩を抱きながらにっこり笑う。
その様子に、そう、と一つ頷く。
「私も、6歳の頃から貴方を知っていたわ。赤毛で、6フィートちょっとあるくらいの身長の男の人とママがお付き合いをしている事。……ママの口からは今日まで一言も聞いたことないけど。」
アルバートの表情が少し強張った。
「……街で見かけた?」
何かを考えるような表情の後、彼が私に問いかける。
私は問いには答えずに小首を傾げ、肩を竦めて見せた。
「でもきっと、付き合いだしたのはもっと前ね。だとすると、4年間。……私に一度も会いたいと思わなかった?」
「……それは。」
アルバートが狼狽えるようにママの顔を見た。
「小さな息子に、新しいママが出来て幸せだった?この家にママを取られて一人ぼっちで眠っている子が居ることを知りながら?」
ママとアルバートは、きっとお似合いだと思う。
だって、今顔に張り付けている表情なんて、お揃いで、まるで血が繋がった家族みたいなんだもの。
「残念だけど、私はアルバートの家族になれない。きっと私はうまくやっていけない。」
ソファーから立ち上がり、座っているママたちを見下ろした。
「ママ。大丈夫、今までもなんとかなったんだし、この家で今まで通り暮らしていけるわ。それに……都会なら、マンチェスターよりロンドンが好きだわ。ここから近いし。」
部屋に行こうと踵を返して、ああ、と思いだしまたママたちを向く。
「ママ、結婚おめでとう。アルバート、ママをよろしくね。」
初めてにっこりと彼らに笑みを向ける。
そして私を呼ぶママの声を背中で聞きながら部屋に入った。
急いで制服を着替え、スニーカーを履く。
窓枠によじ登って、部屋を振り返った。
ママが私を呼びながら部屋のドアをノックしている。
部屋のドアが開けられる前に、窓から外に出た。
玄関と、リビングの掃出し窓以外から外に出るなんて、生まれて初めての事だった。
夢中で2軒隣の家まで走る。
毎日通って見慣れていたホームズ家の赤い壁や、白い窓枠や、壁に申し訳程度に沿う薔薇の鉢植えがこんなに愛しく思えた事は今まで一度もない。
重い扉を開けるとソファーに座っていたミスターホームズが驚いた顔で立ち上がった。
「おじさんっ」
駆け寄り、彼のお腹に抱きつく。
呆然と私をお腹にくっ付けていたおじさんが、恐る恐るといった調子で私の肩に手を掛けた。
「Oh my god……」
キッチンの入り口から、ミセスホームズの呟きが聞こえる。
顔を上げると、手で口元を覆った彼女は私を見つめたまま覚束無い足取りでこちらにやってきた。
「ああ、エリー。私の可愛い子。」
ミセスホームズがミスターホームズのお腹から私の体をはぎ取るようにして抱え込む。
柔らかい彼女の背中に両手をまわした。
「おばさん……私、ママから逃げて来ちゃったの。」
小さな声で告げると、私を抱くミセスホームズの腕の力が強まった。
「いいのよ、エリー。大丈夫。おじさんとおばさんに任せなさいね。ママと話してあげるから。」
影が落ちたと思ったら背中からも圧がかかり、ミスターホームズがミセスホームズごと私たちを抱きしめたのだと分かった。
ママの事を思う度に涙を零す私を二人はずっと抱きしめていてくれた。
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