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私はここ数か月不機嫌だった。
それは、私のママとのごたごたの間も別件として恙なく進行していて『今はこんな時だから、この件はちょっとストップしようか。』なんて提案する人は一人もいなかった。


「エリー、本当に行かないの?」


困ったように私に問いかけるミセスホームズに、行かない、と無言で首を振る。
彼女は肩を竦めてからシャーロックとミスターホームズに目配せして玄関を出て行った。
シャーロックもその後に続く。


「なるべく早く帰るからね。」


ミスターホームズが、私の頭を撫でながら言った。


「お土産にエクレアを買ってこよう、何味がいい?」


拗ねた顔で上目使いに彼を見上げると「ショコラ?オランジュ?フランボワーズ?ピスターシュ?」とフランス語で続けた。
きっと、街に最近できたフランス人パティシエの店で買ってくるつもりなんだろう。


「……ストロベリー。」


唇を尖らせながら英語で答えると、ミスターホームズは可笑しそうに笑顔を浮かべ、私の前髪の上から額にキスを落とし出かけていった。

彼らは、シャーロックの制服を仕立てに行ったのだ。

なるべく早く戻ると言ったけど、それでも帰ってくるのは日が暮れる頃だろう。
私はホームズ家の一人掛けソファーに身体を縮こまらせてコロンと横になった。


去年の秋くらいから、ホームズ家に行く度に毎回違う私立学校のパンフレットが置かれるようになっていた。
リビングテーブルの端にどんどん積み上がるそれらに、当の本人のシャーロックは全く興味を示さず、ミスターホームズは「シャーロックなら何処でも大丈夫だよ!」と爽やかに笑うだけで、専らその資料たちを隅々まで読み込んでいるのはミセスホームズだけだった。

やれ校風がどうだの、やれあそこは得意科目が偏っているだの、やれあそこは寒いからシャーロックが風邪をひかないかしらだの、彼女が心配する分野は多岐に渡った。

クリスマスの帰省中、ミセスホームズに相談されたマイクロフトが集まったパンフレットの校名だけ一通り目を通し「私と同じ所では何か問題があるの?ママ。」と言った一言で、結局シャーロックはマイクロフトの母校へ通う事になった。


「僕がいつか学校に行くことなんて、ずうっと前から知ってたことだ。」

「そうだけど……。」


エクレアからはみ出たピンク色のクリームを舐めながらも尚ふて腐れる私に、シャーロックはうんざりといった視線を向ける。
その視線にイラっとし、エクレアをテーブルに置いてソファーの上に両足を上げて膝を抱え、シャーロックをじっとりと睨み付けた。


「シャーロックは嫌じゃないの?」

「何が?」

「この家を出て学校の寄宿舎に行くこと!」

「だから、それの何が嫌なんだ?」


私が言いたい事のカケラも伝わっていない彼の様子に私はヒュッと息を吸い込み目を見開いた。
酷くショックを受けたのだ。


「何がって!家を出るのよ?もう長い休みにならないと帰って来れないのよ?。」

「だからなんだ。別に誘拐されるわけじゃない。それとも学校というのはそんなに耐えられない程酷い所なのか?」

「違う!貴方がいなくなると私が嫌なの!寂しいって言ってるの!」


顰めていたシャーロックの眉が上がり、きょとんと豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。


「Oh...そうか。」


ぎこちなく首を傾げた彼は、僅かに視線を彷徨わせながらやっと口を開いた。


「アー、僕も、寂しいよ。」

「無理しなくていいの。」

「アー、君が寂しく思ってくれることは、ありがたく、」

「Shut!!!」


私が声を上げると、シャーロックが口を噤んだので、「up.」と殆ど声を出さずに言いきった。

寂しくなんかないと、自分に言い聞かせても、やっぱり寂しいものは寂しいのだ。
例え居なくなるのが憎たらしい事しか言わず、空気の読めないことしかしないシャーロックであっても、だ。
彼が居なくなった後、夫婦二人だけになったホームズ家と私。想像しただけで胸が張り裂けそうになる。
しかも、私がこんなに心細くなっているのに、彼はへっちゃらそうなのがまた腹が立つ。


「ずっと、2人で一緒に寝てたのに、これからどうやって眠ればいいの?」


立てた膝に口元を埋めて言うと、シャーロックは手に食べかけのエクレアを持ったまま動きを止めた。


「ああ、その問題があったか。」


エクレアをお皿に戻し、少し考えるように沈黙した。


「どうしても眠れなかったら、君はなにか尤もな理由を付けて睡眠薬を買ってくると良い。」

「睡眠薬?」

「軽いのならドラッグストアのOTCで買えるものがある。あとで薬の名前をメモしておいてあげよう。パパに車を出してもらう必要があるけど、君の場合はお母さんの事もあるし、ショックだとかストレスとかまあ、なんとか言っておけばうちの親には通じるんじゃないか。」

「睡眠薬……。」


子供の私には結構ショッキングな薬だと思うのだが、彼は全然抵抗なく話す。


「僕も欲しい所だけど無理だろうな。いざとなったら4・5日寝なくても平気だし、週末に纏めて眠っても良い。君が上手く薬を手に入れられたら僕にも回してくれ。」

「寝ない……って、ほんとに平気なの?」

「……湯たんぽくらいは荷物に入れていくよ。」


彼はベッドに入ると先ず暖を取るように自分より体温の高い私を抱え込むのだ。
彼にとっては眠れない事より、冷たいベッドに入る方が堪えるのかもしれない。
何にしろ、このままお互いが居なくては眠れない程依存し合っているのは非常に不都合な問題であった。


「今日から、別々に寝てみる?」


苦々しく提案をすると、シャーロックは眉を上げて首を傾げた。


「なぜ。絶対眠れないのは分かっているんだから、安眠はできるうちにしておいた方が良い。」


いや、だから、今のうちに慣れておくとか……。出かかった言葉をエクレアと共に飲み込む。
シャーロックと離れて眠る事は、私にとって、大人への第一歩なのかもしれない。
ならば、あと僅かな子供の期間、惜しむように彼と寝床を共にするのも良いのかもしれない。


「それで、君の機嫌をいい加減どうにかしたいんだけど、どうすればいいんだ?」

「……知らない。自分で考えて。」


シャーロックが、ソファーに付いた片肘で頬杖を付き、私を眺めた。

ふん、と彼から顔を逸らし、皿の上のエクレアを食べ進める。
最後の一口を頬張り紅茶と共に飲み下すと、タイミングを計ったように半分食べかけの黒いエクレアが私のお皿に置かれた。
中からオレンジソースが見えている。
自分でリクエストした手前、ストロベリー味を手に取ったが、最後までこのチョコとオレンジのエクレアが食べてみたかったのだ。
上目遣いで向かいのシャーロックを見ると、どうぞと言うように手の平を見せた。


「ありがとうシャーロック!大好きよ!」

「……なるほど、こんな事で良かったのか。」


たちまち機嫌を直し、半分になったエクレアに齧り付く私に、シャーロックは呆れたように肩を竦める。
そして、唇に付いたオレンジソースを拭いながら笑顔を見せる私に、声を出さず唇だけ動かして言った。


「単純。」


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