11-1
「それで?何時ごろに泳ぐ予定なの?」
バッグを肩に引っ掛けながらアビーに声を掛けると、彼女は一瞬ぽかんとしたあと、はっと気づいたように背筋を伸ばし、身を乗り出した。
「1時だけど、えっ!エレナ、本当に来てくれるの?!」
「うん。シャーロックが一緒に行ってくれるって。だから絶対に行く。」
にっこり笑って返すと、アビーは私に抱きつかんばかりの勢いで嬉しい嬉しいと連呼した。
「ママは来てくれるんだけど、パパとダニーは来れないの。寂しかったのよ!エレナ、本当に嬉しい!」
*
アビーが、学校のスポーツトーナメントの水泳大会に選手として出ることになったのだ。
元々泳ぎが好きだった彼女は、2年前にスイミングを始めてからどんどん上手く速くなっているらしく、ついに選手に選ばれた。
しかし彼女曰く、上には上が居るもので、きっと優勝には程遠いだろうという事だ。
それでも、応援に来てほしいと誘われたのが先週。
おじさんに車を出してもらえないかと考えたけど、どう考えてもその日は仕事で無理だ。
一人でバスに乗ってロンドンに行くのはおばさんが許さないだろう。
たまたま電話を掛けて寄越したシャーロックに、駄目もとで「夏休みロンドンに一緒に行かない?」と誘いを掛けたら、二つ返事で「いいよ。」と言われた。
「ああ、やっぱりダメよね。……え?なんて?」
「いいよ。一緒にロンドンに行く。」
「本当に?目的聞いてたよね?プールよ?友達の水泳大会を見に行くの。」
「一日中じゃないだろ。その子が出場する時だけプールに居ればいい。元々ロンドンには行く用事があったからついでに君も連れて行ってやる。」
「……。」
シャーロックの物言いに、途端にじっとりと初夏の暑さが身に染みていく感じがした。
私はただ一緒に出掛けないかと誘っただけなのだが、彼には私一人ではロンドンに行けないから連れてって、と聞こえたようだ。
しかも、その通りなのだ。
涼しげなシャーロックの声を受話器越しに聞きながら、不公平だと思った。
シャーロックは10歳になる前から一人でフラリとバスや電車に乗って日帰りで遠出をしたりしていた。
彼は昔から大人っぽく、マイクロフトもそうだけどシャーロックもヒョロリと背が高いから、年齢より上にみられるのかもしれない。
しかし私は、もう11歳になろうかというのに、一人で街の外へ行くことなんて許されない。
ホームズ夫妻は大好きだが、少し私に対しての過保護が過ぎるのではないかと不満に思う事も増えていた。
*
「でも、シャーロックが一緒なら子供だけでお出かけして良いんでしょ?じゃあ、いいじゃない!」
「まあ、そうなんだけどね。」
「その日は幼馴染とロンドンデートね!素敵!」
胸の前で両手を組んで瞳を輝かせるアビーに苦笑する。
近所に年の近い子供が居ないアビーは、どうやら幼馴染というものに幻想を抱いているようだ。
現実を言えば、幼馴染はある日突然王子様みたいに煌びやかになったりしないし、ある日突然私を好きになったりしないし、レディのように扱ったりなんかしない。
シャーロックが私を気まぐれに構う事は昔も今も変わらず、彼が私をいつもちょっと馬鹿にしたりすることも、きっとこれからも変わらないだろう。
「ママが会場にいるからね。エレナに会えたらきっとママも喜ぶわ。」
「私もアビーのママに会えるのが楽しみよ。」
「プールの近くに美味しいアイスのお店があるらしいわ。」
「本当?……シャーロック、付き合ってくれるかしら。行きたいけど。」
「行くに決まってるわよ!子供は普通、みんなアイスが好きなものよ。」
「……。」
シャーロックの話で「普通」を出されると、途端に不安になる。
“少し人間離れした変人だったら絶対にアイスが好きに決まってる。”と言ってくれればアイスが食べれる確率は格段に上がるのだが……。
シャーロックはアイスクリームが好きだったっけ?……考えようとして、すぐやめた。
まあ、あんまり、アイスクリームは期待しない方がよさそうだ。
小さく溜息を吐いてから、アビーと話を続ける。
アビーは水泳大会でのタイムによっては新しい靴を買ってもらう約束をママとしているらしく、ロンドンで買うならどこがいいかしらと嬉しそうに悩んでいた。
ロンドンは、イギリスで一番の都会だ。郊外に住んでいる私達にとっては憧れと言っても良い。
思春期の少女というのは、得てして大人や都会、そんなものに憧れるものだ。
とりわけこの頃の私の興味の中心は、80年代辺りから増えていたロックバンドや彼らみたいなパンキッシュなファッションだった。
私が着たいのは鋲の付いた黒のレザージャケットや体のラインにぴったりと沿ったスカート。……ヴィヴィアンウエストウッドなんか最高だ。
でも体の凹凸もまだそれほどなく、子供っぽい丸顔でブロンドの私はそんな服きっとちっとも似合わない。
なにより、ヴィヴィアンウエストウッドが買えるほど、11歳の私のお小遣いは多くない。
フワフワとしたピンクのミニスカートに薄いブルーのデニムジャケット、パステルカラーのスニーカーを「頭の悪いチアリーダーみたいだわ。」と思いながら着ていた。
嫌なら着なければ良いって?……でも、それが似合うのだ。
どんなにミセスホームズに「エリーはピンク色が一番似合うわ。」と小花の散ったワンピースを差し出されても、オフホワイトの柔らかいブラウスを体の前に当てられても、全然嬉しくなかった。
今思えば、この頃から数年間が私なりの反抗期だったのかもしれない。
とはいえ、他の子が両親に反発するように、ホームズ夫妻に口汚く文句を言ったりできるわけない。
変わらず仲良く過ごしながら、胃の辺りで燻る自分でも原因不明の苛つきを持て余していた。
アビーはこの頃、ぐんと大人っぽくなった。
ゆるい癖の掛かった黒髪に、黒く長い睫のおかげでアイラインがくっきりした瞳はパッチリと猫のように大きく、厚めの唇はセクシーだった。
私みたいに頭の足りないチアリーダーみたいな顔じゃない。
知的な大人っぽさだ。実際彼女はとても賢い女の子である。
身体だって、私よりうんと丸みを帯びている。スイミングスクールではさぞかしモテるだろう。
「じゃあ、エレナ。また明日ね!」
SeeYa!と手を振ってママの車へ走って行くアビーに手を振りかえす。
彼女はプライマリースクールの制服なんかちっとも似合わなくなっていた。
大人っぽい顔と子供っぽい制服がちぐはぐだ。
一方私は最高学年にもなるのに、いまだにこの子供っぽいピンクのギンガムチェックのワンピースがとても似合っている。
そういえば、ジミーも「この学校の制服はエリーにとっても似合ってる。」と良く褒めてくれていたっけ。
車に乗り込むアビーの後姿を見届けて、くるん、と踵を返す。
見慣れた車の窓からミスターホームズが手を上げたのが分かった。
はやく、この子供っぽい制服を脱ぎ去って、セカンダリースクールに行きたかった。
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