11-3
屋根のある室内プール、賑わう観客席。
窓は全て開いているけど通り抜ける風も追いつけない程、人々の熱気と温水プールの湿気で茹だるような空気だった。
こんなに夏っぽい空気の中、隣に座るシャーロックだけがなんとなく浮いていて、まるでひと昔前の映画の下手な合成映像のように感じられた。
シャーロックと並んで座り、入口付近で買ったジュースに口を付けながら、キラキラと窓からの光を反射するプールを眺める。
今し方まで泳いでいた人たちの順位が読み上げられ、一位だった人の関係者でも居たのか少し離れた所でワアッと観客が湧いた。
レースを終えた選手たちが体にタオルを引っ掛け、退場していく。
次のレースを控えた選手たちが入場してきた。
「シャーロック!アビーが来たわ!」
いつも下ろしている髪をぴったりとしたキャップの中に入れ込み、水着の肩ひもにゴーグルを挟みこんだアビーを選手の中に見つけ、隣のシャーロックの腕を揺らす。
彼は初めて見る私の友人に特に何の反応も示さず、あまり興味のなさそうな顔で私と同じ方向を見ていた。
― 第5レーン アビゲイル・ハワード
アナウンスが彼女の名前を読み上げると、5レーンの飛び込み台の近くに立っていたアビーが一歩前に出て片手を上げた。
「キャー!アビー!頑張れー!!」
この賑わいの中、離れた場所に居るアビーに届くかは分からないが口の横に両手を付けて大声を出した。
アビーは気付いた様子を見せなかったが、3列前に座っていた女性が振り向いた。
私を振り向いた黒髪の美しい女性はミセスハワード。アビーの母親だ。
「ハワードさん!」
「エレナ!来てくれたのね!」
ミセスハワードに向かって手を振ると、彼女は嬉しそうに手を振りかえした。
「始まるわ!」
プールを指さすと、ミセスハワードは慌てたようにプールに視線を向けた。
パンッ!と銃声が響くと一斉に選手たちがプールに飛び込み、観客席の歓声も一層大きくなる。
「アビー!アビー!いけー!頑張れ―!」
周りの歓声に負けないように私も一層大声を出して親友に声援を送った。
一着の選手のゴールと共に会場が沸き返る。
自分の声も聞こえない程の歓声の渦の中、アビーのゴールを見守った。
「……4位か。」
「……4位ね。」
アビーの手がプールの壁面にタッチした瞬間、シャーロックが彼女の順位を呟き、無意識に立ちあがっていた私はストンと腰を下ろした。
3位までに入れば、準決勝に進めたらしい。
一歩及ばず、予選で敗退したアビーは電光掲示板に表示された自分の順位とタイムを見上げ、淡々とプールから引き上げた。
「エレナ!」
ごった返す観客を掻き分け、3列下の客席から抜け出してきたミセスハワードが近くまでやってきた。
「今日は来てくれてありがとう。」
「いいえ、アビー残念だったわ。もう少しで3位だったのに!」
「ええ。でもあの子全然堪えてないわよ。今の、アレでも自己記録なの。」
ミセスハワードが選手たちが引き上げたプールサイドに視線を向けながら苦笑する。
「ワオ!じゃあ、おニューの靴ね!!」
「いやだ。あの子ったら言いふらしてるの?ねえ、何が欲しいとか言っていた?高い靴強請られたらどうしようってドキドキしてるのよ。」
「分からないけど、アビーの事だから雑誌5冊は読みこんで欲しいものを決めている筈だわ。」
「オーーゥ。参ったわ。どうしましょう。」
ミセスハワードは、眉尻を下げながらも嬉しそうだった。
「エレナ、これからどうするの?」
「あ……、アビーが終ったならそろそろ帰ろうかと。彼が他に用事があるみたいなので。」
ミセスハワードの質問にチラリとシャーロックに目を向けながら答える。
そこでシャーロックの存在に気付いた彼女は、まあ!と目を輝かせ、まじまじとシャーロックを頭の先から膝下くらいまでを眺めまわした。
「なかなかいい男だわ。やるわね、エレナ。」
バチンと音がしそうなウインクを飛ばすミセスハワードに苦笑を零す。
ミセスハワードが「Hi」と言ってシャーロックに右手を差し出した。
シャーロックも握手に応じ、「どうも。」と返す。
ミセスハワードがにっこりとほほ笑んだ。
「そうだ。予定が急ぎじゃないのなら次のレースも見て行ったら?予選だけど、前大会のチャンピオンが出てくるはずよ。」
「へえ?チャンピオン?」
「そう。カール・パワーズっていう男の子よ。あなたより一つ二つ年上だったと思うわ。体も大きくてすっごく速いの。国内の水泳選手では有名よ。」
彼女の話に、へえ!と声を上げると同時くらいに会場内がザワつき始めた。
次の選手たちが入場してきたのだ。
中央のレーンの前に立った少年が一際背が高く肩幅もがっちりしていて目立っている。
彼がそのパワーズ少年なのだろう。
「じゃあ、せっかくなので見て行きます。」
ミセスハワードに告げると、隣のシャーロックが露骨に嫌な顔を向けた。
ミセスハワードがそれを見てクスクスと笑う。
「私はアビーの控室の方へ行くわ。コーチに挨拶もしたいから。」
出入り口に親指を向けながら言う彼女に頷く。
「じゃあ、楽しんで。」と言い残し傍を離れた彼女に手を振った。
「興味ない。」
「いいじゃない。チャンピオンがどれ程速いのか見て行きましょうよ。」
「予選だろ?手を抜くに決まってる。」
ぶつぶつとシャーロックが文句を零す間にも、選手たちの名前がアナウンスされ、着実にスタンバイしていく。
パァン!とスタートを告げる乾いた銃声が響き、選手が一斉に水の中へ飛び込んだ。
パワーズ少年が本気だったのか手を抜いていたのかは分からない。
しかし、2位と大差を付けて先頭を泳ぐ彼は、確かに他の人より抜きんでていた。
誰よりも早くターンをし、折り返しゴールを目指す。
観客の多くが期待通りの泳ぎをする彼を称えていた。
そして、彼がプールの真ん中まで来た頃、殆ど水飛沫を立てずにまるでサメかイルカのように泳いでいた彼の周りが波立った。
何が起こっているのか、すぐに理解する人間は居なかった。
徐々に大きく飛沫を上げるパワーズ少年の両隣のレーンの選手が彼を追い抜いて行った。
「溺れてる。」
隣でシャーロックが呟く。
それが聞こえたらしい前の列の男性が立ち上がって叫んだ。
「おい!溺れてるぞ!!」
跳ねるようにプールサイドで控えていた人達が動きだし、プールへ飛び込む。
四方から大きな大人がプールの真ん中へ向かうけど彼らが到達するより早く、飛沫を上げるのをやめてしまったパワーズ少年の体はブクブクと水の底へ沈んで行った。
彼以外の選手は皆とっくにゴールしていたけど、電光掲示板には何も表示されなかった。
プールサイドを忙しなく沢山の人が走り回る。
ブルーの生地が張られた担架に乗せられたパワーズ少年が、大人4人がかりで運ばれていくのが見えた。
呆然とプールで起こった出来事を見ていたが、はっと顔を上げて隣を見ると、そこに居たはずのシャーロックの姿が見えなかった。
救急車の音が遠くから聞こえる。
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