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ある日、私がホームズ家を訪ねると、珍しくそこにはシャーロックしか居なかった。
夏も盛りに近づいていて、わたしはすっかり薄いノースリーブのワンピース一枚という姿だったが、きっちりと衿のあるシャツを着たシャーロックの方が涼しそうな顔をしていた。
「みんな、どこいったの?」
床に寝そべる赤ひげの横に屈み込み、ブラッシングをしていたシャーロックが顔を上げた。
彼の足元には赤ひげと同じ色をした毛の固まりが転がっている。
私の顔を確認すると、彼はすぐに赤ひげの体毛にブラシをを差し込む作業に戻った。
そして、せっせと手を動かしながら、口を開く。
「みんなでマイクロフトの制服を作りに行った。」
「せいふく?」
「ああ。」
赤ひげを挟んでシャーロックの向かい側に屈んだ。
私に気付いた赤ひげが少し顔を擡げて、身体を横たえたまま尻尾を控えめに数回振った。
賢い彼はシャーロックにブラッシングされている間むやみに起き上ったりしない。
はっはっはと息をしながらしばらく私をみつめていたが、そのうち目を細め気持ちよさそうにシャーロックのブラッシングに再び身を委ねた。
しばらく赤ひげのうっとりした顔を眺めた後、丹念に赤ひげの体毛にスリッカーを通し、ブラシの隙間に絡まった抜け毛を取り除いて、まとめた毛玉を大きくするシャーロックの作業を観察する。
「せいふくって何?」
一通り彼の作業が一巡したところで、丹念にブラシをかけ続ける彼に話しかけた。
彼はこちらに視線を寄越さず黙々とスリッカーを動かす手を休めずに答えた。
「マイクロフトが9月から通う学校の制服。シャツ、スラックス、ジャケット、タイ、エンブレムの刺繍が入った靴下に黒の革靴。それに冬のダッフルコート。全部指定なんだ。」
「……が、学校?」
驚き過ぎて声が裏返った。
だって、学校なんて今までの生活に全く縁がなかったのだ。
学校という施設がある事はテレビや絵本で知っていた。
しかし、自分の身の回りで学校と言う言葉を聞くことになるとは思っていなかった。
ホームズ家では現在マイクロフトが義務教育を受ける年齢であるが、ホームズ夫妻の意向で彼はホームスクーリングで学習していた。
つまり、学校に通っていない。
なので、私がホームズ家に行くと彼とミセスホームズがテキストを挟み、学習中という事はままある光景であった。
私のママは一日の殆どを留守にしていて、3歳の私の小さな世界の殆どはホームズ家だった。
そのホームズ家の彼らがホームスクーリングを選択していたとなれば、自然と自分の進む道もきっとそうなのだとぼんやり思う事は不思議な事でもなんでもなかった。
シャーロックは心底驚いている私に、訝しげな表情を見せた。
「何かおかしなことでもあるか?君だってあと2年もすれば行くだろ?今もナーサリースクールに通っていない事の方が不思議な位だ。まぁ、君んちは送り迎えが現状不可能だからなんだろうけど。」
「……そうなの?」
まさか!まさか私が学校に行く予定だったとは!
その事実をそこで初めて知った。だってママは一言も私にそんな事を話したことが無い。
学校というのは物語の中のフィクションではなかったのか。
子供は、家でママにお勉強を教えてもらいながら本を読んだり、バイオリンを弾いたり、庭の地質や虫の種類を調べたりして過ごすものではなかったのか。
「……しゃ、シャーロックも、学校いくの?」
「さあね。そのうち行くんじゃないかな。11歳になれば。」
「それってあと何年?」
「7年。」
私が学校へ行くまで2年。シャーロックは7年。
右手で2という数字を数える。頭の中で「1、2」と唱えながら親指と人差し指を折る。
次に左手の指を折り曲げながら7という数字を数える。
「1、2、3、4、5……」なんということだ。指が足りなくて7まで数えられなくなってしまった。
「7年?!!」
なんてこと!と私は両手で口元を覆った。
結局7までちゃんと数えられなかったけど、どう考えても2年の方が早い事は分かった。
7年は片手で足りない位遠い。
って、ことは!!!
シャーロックが私の様子に赤ひげのブラッシングの手を休め、目をぱちくりとさせた。
「じゃあ、じゃあ、シャーロックが学校に行かないのに、わたしだけいくの?」
「たぶんね。君については君のママが決める事だけど、100%君は5歳から公立のプライマリースクールへ行く。その方が働いている君のママにとって都合が良いからだ。僕の事はうちの両親が決める。こちらは80%ホームスクールだ。マイクロフトの前例があるからね。」
そんな……
私は打ちひしがれた。
「わたし、マイクロフトもシャーロックもいないなら学校になんて行きたくない。」
「僕が居たって居なくたって君の学校生活に何か変化があるとは思えないけど。学年も違うし。」
「そんな……マイクロフトもシャーロックもママもれっどべやも居ないなんて……。」
「それに。」
この世の終わりのような顔をしているだろう私に、シャーロックは追い打ちをかけた。
「僕と君は一生同じ学校へ行くことは無いよ。おそらく君は公立で、僕は私立へ進むから。あー、こう言ったらアレだけど、もし、君のママがお金持ちと再婚でもすればあり得るかも知れないけどね。」
3歳の私には、私立と公立の違いとか、経済状況の違いとか、そんな事全く分からなかったので、シャーロックが何を言っているのか殆ど理解できていなかった。
理解できたのは、2年後私だけ学校へ行くという事。
シャーロックが学校へ通うようになっても私と同じ学校へは行かない事。
そんなの怖い。そんなのって寂しすぎる。
「それに。」
なんだ、まだ何かあるのか。
「マイクロフトが今度通うパブリックスクールは全寮制だ。パブリックスクールを卒業したら大学へ進むし、その後は仕事に就く。たぶん、今後は彼がこの家に帰ってくるのはクリスマスと夏休みだけになるだろうね。」
僕は全然寂しくないけど。と続けたシャーロックの言葉は私の耳に届かなかった。
シャーロックは意地悪を言っているんじゃない。事実を教えてくれているだけなのだ。
1歳年上の利発な少年が話している内容は幼い私には難しすぎて所々しか理解できなかったけれど、それでも、その事実は3歳の子供が受け止めるにはあまりに酷な内容だった。
顔を必死に歪めて込み上げてくるものを抑えようとしたけど、そんな些細な努力など功を奏さなかった。
ブラッシングしたてで、ツヤツヤと光る赤ひげの首元に顔を埋め、わんわんと声を上げて泣いた。
「ちょっと、やめろエレナ!折角赤ひげを綺麗にしたのに!」
急に赤ひげに縋って泣き始めた私を見て、シャーロックは驚きの表情を怒りに変えて私を赤ひげから引き離そうとし、赤ひげは私の頬に次々落ちるしょっぱい水滴をべろべろと必死に舐めとっていた。
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