漣の群青を捕える
「海に行きたい」
名前が呟いた。突然の発言に顔を向けるが、名前は視線を落としたままこちらを見ようとしない。それが今すぐなのか、夏になったらなのか、意図が読み取れなかった。だから、そうかと素っ気ない返事をしてしまう。
「今から行けば日の入りまでに間に合うかなあ」
「東京なら間に合うんじゃねぇの」
学校を終えた帰り道ではあるものの、今は日の長い時期であるから近場であれば間に合うだろう。
「じゃあ、着替えたら駅集合ね」
「は、おい待て」
言うや否や、名前は俺を置いて家の方へ走って行った。拒否する間もなく、住宅街へ消えていく背中を見送るしかない。今更文句も届かないし、行かないと言えば名前だけで行くだろう。それはそれで何かあったらと思うと目覚めが悪い。結局、選択肢なんてあってないようなものだった。どうせ遅くなってたところで誰も咎める奴はいない。少しずつ津美紀のいない生活が日常になりつつあることに気付かない振りをしている。
「あれ、恵の方が早かったんだ」
「さっき着いた」
ふうんと呟く名前は、花柄の柔らかそうな素材のブラウスに膝上の短いスカートを穿いていた。制服より心許無いそれに寒くないのかと言えば、へーきと返された。
「どうせ砂まみれになるんだからいいんだよ」
改札を通って電車に乗る。ラッシュ前の、それも上り線の人はまばらだ。とりあえず上り方面のそれに乗ったが、具体的な行先は聞いていない。
「どこに行くつもりなんだ」
「お台場」
名前がスマホの画面を見せてくる。表示された写真は海というよりは橋やビル街の印象が強いものであったが、確かに海の向こうに沈みかけた夕日が映っていた。時間も一時間程度で着く距離で、ちょうどいい。途中、乗り換えたモノレールの先頭車両に乗りたいと言い出したために数本見送る。物珍しいと先頭車両の眺めを撮影する名前は心底楽しそうだった。
お台場海浜公園駅から海辺までは十分足らずで着いた。躊躇わず砂浜へ降りて行く名前を追いかける。波打ち際でしゃがみ込む彼女の隣に立つ。どうやら水の温度を確かめているようだった。
「冷たい」
「そりゃそうだろ」
名前から伸びる影はゆっくりと砂浜の色を黒に染めていく。夕日がさざ波に反射して一等眩しい。それでも、名前は沈みゆくそれをぼうっと眺めている。辺りが薄暗くなって、街頭が付き始めても微動だにしない。まるで夕陽に魅入られているような、そんな不安がよぎった。
そうしている内に日はビルの向こうへ消え、完全に見えなくなる。そろそろ帰ろうと名前に声を掛けようとしたとき、ポケットの中のスマホが震えた。画面に表示された名前に、何で今と思いつつも通話へ指をスライドさせる。
「何の用ですか」
「今どこにいるの?」
家に居ないじゃんと言う声の主は事実上の保護者、五条さんだ。神出鬼没のくせになんでこういう時に限って家に来るのか。
「ちょっと出かけてます。任務ですか」
「いや、違うけど。何、家出?」
「だったら電話に出る訳ないでしょう」
「まあ別にいいけど、名前もいるなら早く帰んなよ」
「……分かってます」
なんでいるって分かるんだ。あたかも居て当然の言い方が腑に落ちないが、否定するわけにもいかなかった。
「へぇ、一緒にいるんだ……デート?」
「要件はそれだけですか切ります」
迷わず通話終了ボダンを押す。くだらない。からかわれているだけだと分かっていても切らずにはいられなかった。
「五条さん?」
さすがに電話もしていれば名前もこちらに気が向いたようで、何かあったのかと聞いてくる。
「大した要件じゃない」
「そう」
「……帰るか」
「そうだね」
名前の手を引いて立ち上がらせる。
「手、掴んでろ」
「うん」
名前の右手が俺の左手を掴む。駅に着くまでの僅かな間だけ、妙な緊張感があった。名前を家に送り届けてアパートに戻れば、部屋の明かりが点いていた。結局あの人は帰らずいたようだ。
「おかえり〜で、何してきたの」
「別になにもないです」
「いいじゃん。隠すことでもないでしょ」
「はあ」
言われてみれば何も隠し立てすることでもない。ただ名前の思いつきで海辺の夕焼けを見に行っただけ。ただそれだけなのだが、どうも素直に言えなかった。
「……夕日を、見ただけです」
「そっか」
五条さんはそれ以上何も言うことはなかったが、包帯に隠されているはずのそれから生暖かい視線を感じてむず痒かった。
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