「おっけー、じゃあこれでいこう」
新曲のレコーディングを終えてレコーディングルームから出てきたりせにお疲れ様、と声をかけてドリンクを手渡すと、むすっとした顔で若干睨まれる。どうやらまだ以前のことを怒っているらしく、なかなか機嫌がなおらない。
「もぉー、まだ怒ってるの?おこなの?」
「怒ってない」
「怒ってるじゃぁん…りせちー怖い…」
「りせちーって言わないで」
スタジオの廊下をスタスタと歩きながらプイっと顔を背けるりせの後ろを小走りでついていく。どうやら最近は名前にりせちーと呼ばれることが気に入らないらしく、その度に睨んでくる。しかし名前には怒った小動物くらいにしか見えていないので、相変わらず可愛い顔だなぁ天使かな?などと口に出したらさらに怒られそうなことを考えていた。
「今回はいつ帰るの?」
「明日の朝だよー」
「…ちょっとご飯するヒマもないじゃん」
「何か言った?」
「なにも!」
「寂しいのかにゃ?」
「べっつに!!」
少しでも機嫌を直してもらおうとおどけてみせても火に油で、今回は相当怒りが深いらしい。やはりお子様と言ったのがまずかったようだ。
「りせもたまには帰ってきなよ、おばあちゃん寂しがるよ」
「名前が行ってあげればいいでしょ」
「そりゃ私はいつもお豆腐買いに行くけどさぁ…私とりせとじゃ違うでしょーまったくー」
早足で歩くりせのほっぺたをむにむにとつついて思わず「やわらかっ!すべすべっ!」と声を漏らすと、バシッと手を叩かれる。
「りせこれからどこか行くの?」
「事務所」
「そっかぁ、ご飯行きたかったけど無理そうだね」
ちらりと名前を見ると、本当に残念そうな顔をしていたので、少し冷たくしすぎたかとかわいそうになっていたところにマネージャーである井上が走ってきた。
「りせ!」
「あ、井上さん、お久しぶり〜!」
「あぁ!苗字さん、いつもお世話になっております…」
「どうしたの?」
「追いついてよかった…!社長が活動休止の件で書類書いてって言っ」
「井上さん!」
エントランス中に響き渡るのではないかというくらいの大声でりせが井上の言葉を止める。井上は名前の顔を見て、さっと顔色を変えた。
「りせ、本当に…活動休止するの?」
「……するって言ったでしょ。今日、レコーディングもおわったし」
名前の顔を見ずに答えるりせの手は固く握られて白くなっている。
「…送った曲、聞いてくれた?」
「っ、聞いてない!!!」
パァン、と乾いた音が響く。思い切り左の頬をはたかれた、と思考が追いつくと、ようやくじんじんと痛みが広がってくる。名前はエントランスに人がいなくてよかった、騒ぎになるところだったなぁとか、小動物みたいなりせでも思い切りたたけばこんなに痛いんだとか、どうでもいいことをぼんやりと考えた。りせは涙目になっていて、反射的にたたいてしまったのだろうか、一瞬申し訳なさそうな顔をしたが、すぐに鋭く睨みつけてくる。
「名前にはわかんないよ!!完璧で、天才の名前にはわからない!!」
「何がわからないのか、わからない…。ちゃんと話してほしい」
「名前だって、本当の私のこと見てくれてない、私の何がそんなに気に入ったの?歌のうまいりせちー?仕事に一生懸命なりせちー?それとも名前の作った曲をただ黙って歌ってるりせちー?!どうせ、私のこと、ただ自分の作った完璧な曲を歌ってる機械としか思ってないくせに!」
「そんなこと、思ってない」
はたかれた左頬はどんどん熱を持ってきていて、触ると少し腫れていた。りせの手も赤くなっていて痛そうだ。
「りせは私の相棒でしょ?」
「なにそれ…そんなの知らない…どのりせが名前の相棒なの?」
「りせは全部りせだよ」
最近、りせの怒った顔や不機嫌な声しか聞いていない。でも、今のりせは怒っているというよりは何か辛そうで、見ていて痛々しかった。少しでも笑ってほしくて名前がにこりと笑いかける。
「またそうやって…余裕だね。さすが、完璧人間」
りせの大きな目からぽろりと一粒涙がこぼれ、それを袖で乱暴に拭うと名前の横をスタスタとすり抜けて行ってしまった。
「りせ!あ、あの、苗字さん…」
「大丈夫、井上さんが行ってあげて。私、とりあえず今回はこのまま帰りますね」
「はい、すいません…あの、僕は苗字さんから送られてきた曲、聞きました…。こんなこと言うのはアレですが、りせを…よろしくお願いします…あの子、本当は…いや、なんでもないです、また!また曲待ってます!」
井上はがばりと頭を下げてりせを追いかけていった。名前は左の頬を少しおさえて、少しため息をつき、その場にずるりとしゃがみこむ。頭の中では先のりせの言葉を何度も反芻していた。
▼▼
八十稲羽に帰ってきたのはもうだいぶ暗くなってからで、そろそろジュネスがしまるかしまらないかというくらいの時間だった。あのまま朝まで東京にいる気にもなれず、新幹線のチケットを買い直した。左頬の腫れは帰りの電車の中で少し引くかと思ったが、むしろ時間がたつほどにズキズキと痛くなり、ジュネスが閉まる前に湿布でも買いに行こうというところだ。
閉店間際のジュネスは人影もまばらで、安くなったお惣菜を狙ってきたサラリーマンがちらほらといるくらいだ。湿布は救急用品のコーナーにたくさん置いてあったが種類がありすぎてよくわからない。
「あれ?名前先輩?」
1人でうんうん唸っていると、見知った顔が近付いてきた。
「珍しいっスねこんな時間に…ってどーしたんすかその顔!」
「あー…やっぱ見てわかるくらい腫れてる?」
「めちゃくちゃ赤くなってますよ………痴話喧嘩?」
「誰とだよ…」
はぁ、とため息をつき、改めて湿布を見直すも、どれも値段もバラバラだ。もうなんでもいいか、と適当に目の前にあったものを手に取って立ち上がった。
「もしかして、顔に貼ろうとしてます?」
「うん」
「だったらこっちのがいいっすよ。それ、ちょっとヒリヒリするから肌荒れすっかもです」
「そうなんだー…。じゃ、そっちにしよ。ありがと」
「……てか、なんかあったんすか?元気ないですけど…」
「オトナノジジョー」
「やっぱ痴話喧嘩…」
「だから誰とだよ」
ちょっと前は珠江に恋人の話をしているみたいと言われ、今は花村に痴話喧嘩を疑われ、とんでもない尻軽だな自分、とよくわからない事を考えた。花村は覇気のない名前が珍しいのか、まじまじと観察している。
「なに」
「…自販機でも行きます?俺もうシフト終わるんで、話くらいなら聞けるっすよ」
「ん?あー…もしかして気使ってくれてる?」
「一応」
「…花村が生意気…けど、行く」
「了解っす!じゃ、着替えてくるんで出口んとこで!」
▼▼
5月ももう終わりに差し掛かろうという時期だが、やはり夜は少し冷え込む。今日は上着を持っていないので尚更だった。来ていたジャケットに少し顔を埋めながら神社の境内に座ると、石段の冷たさが伝わってくる。
「コーラでよかったっすかね?」
「おー、ありがと」
「てか名前先輩、ギター弾くんすね」
「あ、うん、大したもんじゃないけど…」
レコーディングにギターを持って行っていたため、そのまま背負ってジュネスに行っていたことを思い出した。花村は物珍しそうに名前とギターを見比べている。
「なんか意外っす、名前先輩とギターの組み合わせ」
「そう?」
「そういうセンス、なさそう」
「失礼だな!?」
「おっ、ちょっとツッコミにキレ戻ってきたっすね」
にやっと笑う花村になんとなくしてやられた気がして、少しコーラの缶を傾ける。普段いじっている後輩にいじられると、謎の悔しさがふつふつと湧き上がってきた。
「名前先輩が元気ないとかちょっと調子狂うんすよね」
「私にだってそういう日もあるんです〜」
「たまちゃん先輩と喧嘩したとか?」
「たまちゃんとじゃないけど…喧嘩は、した」
「で、ひっぱたかれたと」
今思うとひっぱたかれたというよりあれはもはやぶん殴られたに近いのではという感じだが、間違いではないので曖昧に頷く。
「名前先輩ってあんまりその…人と喧嘩したりしない人なのかと」
「友達いなさそうって言いたいわけ」
ちょっと不貞腐れたように花村を睨むと慌ててそうじゃなくて、と続ける。
「なんつーか…"友達"って概念?があったんだなっていうか…」
「花村にディスられてる…」
「あ、いや違うっス!!その…ぶっちゃけ、俺と同じタイプだと思ってて、あんまり人に興味ないっていうか、なんとなく少し冷めてる感じ、だから、それも少し意外で」
花村はバツが悪そうにはは、と笑う。名前は花村がどこか1歩引いてものを見ていたり、本人も言うように少し冷めているのは一年の頃から感じていたが、それを特に嫌だと思ったことはなかった。
「花村は変わったよね」
昔の花村であればジュネスで落ち込んでいる名前に声はかけなかっただろう。そして外でこうやってゆっくり話すこともなかったように思う。
「はは…そっすか?」
「うん、すごく明るくなった。前の花村も嫌いじゃなかったけど、今の方が好きだな」
「ま、まぁ、やればできる子なんで」
「えらいえらい」
花村のふわふわの頭に手を乗せてゆっくり撫でると、暗い中でも見てわかるほど不服そうな顔を少しだけ赤らめていた。
「お、俺の話はいーんスよ!名前先輩の話!」
「私?なんか花村と話してたら元気出ちゃったから大丈夫だよ」
「えー…なんか、俺の立場が…」
立ち上がってぐぐっと伸びをする名前の横で花村は若干腑に落ちない顔をしている。
「あ、じゃあひとつだけ聞いてもいい?」
「なんすか?」
「私って完璧人間だと思う?」
大真面目な顔で何を口走っているのかとでも言いたげな顔でじっと花村に見つめられる。
「本気で言ってます?」
「超本気」
質問の意図が読めないのか、なんと答えるのが正解なのかわからないのか、少し悩んでからおずおずと口を開いた。
「むしろたまちゃん先輩がいないと何もできない人かと…」
「ぷっ…あははは!!だよねー!!なんかスッキリしたわ、寒いし帰ろー」
先ほどまで落ち込んでいたのはなんだったのか、なんなら少し上機嫌で歩き出す。花村はその後ろを不思議そうに着いていくが、やはり名前の背負ったギターが気になるようだった。
「そういえば、なんで喧嘩したんすか?」
「その子に向けたオリジナルの超ラブソング作って送り付けて聞いた?聞いた?ってしつこくしたから」
「うわそれはドン引き」
「ドン引きとか言うな」
「今度なんか弾いてみてくださいよ」
「ん、今度ね」
▼▼
家まで送るという花村を気持ち悪いと一蹴し、名前はスタスタと1人で帰っていった。花村は帰宅してから夕飯もそこそこに自室で疲労でクタクタの体を休めている。体は疲れているがなんとなく眠る気にはなれず、携帯を見ながら適当にSNSを目で追う。それにしても、名前がオリジナルのラブソングを作って送り付けたというのは花村にとってはとんでもなく意外な話だった。そんなに大事な友達だったのか…いや大事な友達だとしても普通ラブソング、それもオリジナルの曲は送らないよな、と少し笑ってしまう。
「ん?待てよ、友達…?いや彼氏って線も…」
そういえばよく考えてみると名前の口から「友達に送った」とは一言も聞いていない。友達がいなさそうと言いたいのか、と言っていただけでそれもよく考えると微妙に話を逸らされたような気もしてくる。いや彼氏がいたところで関係ないわけだが、なんとなく、少し、気になってしまう。というかあの名前先輩に彼氏?どんだけできた人間なのだろうか考えてみてもあまりに現実味のない話で想像ができないそもそも彼氏だなんて一言も言っていないわけで…モヤモヤと考えてみるものの答えが出るわけもなく、まぁいいか、とベッドに寝転んだ。今度ギターを弾いてみて貰おう、そして例のラブソングとやらも聞かせてもらおうと考えながら眠りに落ちた。