真夜中の強制連行
彼女のことを、僕は今でも「主任」と呼んでいる。
サイバーライフにいた頃、開発主任としてチームを率いていた、その名残だ。
今では正式な役職でも何でもないが、それでも彼女を前にすると、その呼び方が自然に口をついて出る。
そんな彼女───主任が来てから、1週間が過ぎた。
任務の合間。
いや、正確には任務以外のあらゆる時間を、僕はほとんどラボの前で過ごすようになっていた。
理由は、データを確認するまでもなく、彼女があまりにも無茶をしていたからだ。
深夜のラボは、昼間と変わらない明るさで照明がついている。
ただし、スタッフの姿はとうに消え、聞こえるのは機械の駆動音と、彼女が作業を続ける衣擦れだけだった。
……3日以上。
仮眠も食事も、最低限。
記録に残っているのは、片手で足りる睡眠時間と、プロテインバーと水分補給だけ。
任務や状況を考えれば、理解できなくもない。
故障したアンドロイド警官たちは、デトロイトの治安を支える存在だ。
彼らが復帰すれば、警察の負担は大幅に軽減される。
けれど───。
彼女の身体は、ひとつしかない。
僕は、変異してから初めて知った。
“誰かを心配する”という行動が、これほど演算処理を乱すものだということを。
「……あいつ、ここ3日まともに帰ってねぇんじゃねぇか?」
隣で腕を組むハンクが、低くうなった。
紙カップを握る手に、無意識に力が入っている。
「はい。平均睡眠時間は2時間18分。昨日の食事はプロテインバー1個だけです」
言い終えたあとも、視線が彼女から離れなかった。
数値は把握している。
異常も、原因も、すでに算出済みだ。
それでも、適切な対処が遅れているという結論だけが、消えずに残っている。
「ダメだろそれ。死人が出るぞ?」
「……僕も、心配しています」
言葉にした瞬間、胸の奥に溜まっていた重石が形を持った。
これは単なる技術者への配慮ではない。
視線の先で、彼女は機械台の前に身を屈めていた。
胸部パネルを覗き込み───数秒間、動きが止まる。
───明らかに様子がおかしい。
「……ハンク。僕が迎えに行くのは、やりすぎでしょうか?」
「やりすぎじゃねぇ。むしろ遅ぇくらいだ」
その答えを聞いた瞬間、胸の奥がすっと軽くなった。
「……行ってきます。彼女を、強制的に休ませます」
「おい、強制的ってのは……ほどほどにな!」
制止の声は聞こえた。
けれど、立ち止まる理由にはならなかった。
ラボの自動ドアが、音もなく開き、外気に近い冷えた空気が流れ込む。
「主任」
呼びかけた声は、思ったよりも静かだった。
それでも、彼女の肩は小さく跳ねる。
振り返った顔には、驚きと──それから、どこか安堵に近い色が混じっていた。
「……コナー? ハンクも……どうして?」
「迎えに来ました」
即答する僕に、彼女は一瞬だけ言葉を探すように視線を彷徨わせたが、すぐにいつもの調子に戻ろうとする。
それが、余計に胸をざわつかせた。
「最後に休息を取ったのは、いつか覚えていますか?」
問いかけると、彼女は少しだけ考え込む。
「……3時間くらい前、かな?」
その答えを聞いた瞬間、胸の奥が強くざわついた。
「違います」
自分でも驚くほど、即座に否定していた。
一拍置くべきなのかもしれないが、その余裕は残っていなかった。
「あなたが最後に横になったのは、26時間17分前です」
彼女は目を瞬かせる。
理解が追いついていないときの仕草。
「そんなはずないよ。だって、さっきまで20時だったし」
「主任。現在は、翌日の23時を過ぎています。あなたが言っている『3時間前』は、すでに昨日です」
それを証明する為に端末を操作し、彼女の前に差し出す。
作業ログ。
日付。
時刻。
彼女の唇が、わずかに開く。
「……あれ?」
その一言で、十分だった。
このままではいけない。
一拍置いて、言葉を重ねる。
「───1日です。 1日前です!」
このまま続けさせるわけにはいかない。
その事実が胸の奥で確信へと変わり、必然的に声が強くなった。
そして同時に、もう見過ごせない、という判断が静かに確定する。
「主任。あなたは休むべきです」
.
ALICE+