「ちょっと動かないで」
腕を引っ張られる。驚いて顔をあげると、先程まで自分の爪にマニキュアを塗っていた女の子が掴んでいた。ぱちくり。まばたきを数度繰り返すと、残っていた涙が頬をつたった。そんな私の顔を彼女は「本気で涙する顔は酷いものだから嬉しいときだけにしなさいよ」と、さりげなく貶した。
「あ、あの」
「…………」
声をかけても無視をされる。私の腕を掴んでどうするつもりなのだろう。もしかしたらこのまま追い出すつもりかもしれない。そうしたら私はこの島で生きる術がなくなる。止むことのない後ろ向きの思考に身体が強張った。
しかし彼女はそうするつもりはないみたいで。手を自分の前まで持って行くと、オレンジ色のマニキュアを私の爪に塗り始めた。
「……。よし、完璧」
「え、と」
「オレンジ色。元気でるでしょう?」
満足いくまで塗り終えた彼女はマニキュアを閉じる。困惑で狼狽えている私に、彼女はにっと笑ってその小瓶を見せびらかしてきた。
「元気……」
「髪の毛ばさばさ、目の下にくま、肌もぼろぼろ」
「う、」
「あまり食べてないし寝てない証拠ね。女の子なのにコンディション最悪じゃない。それでよく人前に出られるわね。信じられない」
言葉の数々が胸にぐっさりと突き刺さった。否定できないところがまた辛い。でも、そんなこと言われてもどうしようもないじゃない。お風呂はドラム缶だし。愛用のシャンプーもリンス、コンディショナーもないし。食べ物だって島で採ったものを適当に焼いたり煮たりしたものだし、美味しいけど……。
何も言えず俯き始めると、むにっと両頬を挟まれ、そのまま顔をあげさせられる。長い睫毛で縁どられた目から気の強さが窺える。その目にじっと見つめられて、私は縮こまった。
「アンタ、この島にどうやってついたの?」
「そ、それが、分からなくて……」
「じゃあ別の質問。ここにきてどれくらい経ってる?」
「に、2週間くらいです」
「手持ちのポケモンは?」
「え……」
曖昧な回答をかろうじて返していたけど、その質問に私は答えられなかった。手持ちの、ポケモン。それは聞き馴染みのない言葉で、意味を知らないというわけではない。私には無縁の代物だったけど、身近にあったものだったから。
「いま、せん……」
掠れ掠れの声でようやく返せた。どうしてだろう。この質問を答えた瞬間、強烈な不快感に襲われた。ぐらりぐらりと頭の中を直接振り回されて、指先や爪先から冷たくなっていく感じ。
「ポケモンも持たずにここにくるとか怪しさしかないだろ!」
「卯月は煩いわね。そんなんだから器も身長も小さいのよ」
「はあ!?」
「ポケモンを持っていないことは確かに珍しいけれど、そこまで怒鳴りつけることないでしょう。これだから女の子の扱いを知らない童貞くんは」
「どっ!?」
彼女は私に「野蛮な男が多くてね。ストレス溜まっても仕方がないわ」と言って、頭を撫でた。優しい手つきで、ほっとした。いつの間にか涙が止まっていただけでなく、強烈な不快感も落ち着いていた。
「まだ名乗っていなかったわね。私は氷里。氷の里と書いてヒサトよ。綺麗な名前でしょう?」
「氷里、さん」
「氷里でいいわよ、堅苦しいのは嫌いなの。それでさっきからきゃんきゃん騒がしいのが卯月。可愛い顔しているけれど、一応男よ」
「一応は余計だ!」
「で、さっきからだんまりで内心アンタが泣いたことに一番焦っていたのが柔剛。厳つい顔と無口なせいで怖いかもしれないけれど、私たちの中で一番大人しいから安心しなさい」
「……否定はしない」
氷里さ、ちゃんは丁寧に残りの人を紹介してくれた。イッテツさんや喜緑はもう聞いているだろうからと省略をされたけど。その紹介を聞いて少しだけ緊張が解けた。名前も何も知らない人たちに囲われるというのは、神経が磨り減る思いだったから。名前1つ知るだけでこんなにも変わるものなんだ。
「……あ、そっか。コヨミちゃん、ポケモン持っていないから俺の説明に首を傾げていたんだ」
「……喜緑さんが人間ではなく、エルレイド? だっていう話のことですか?」
「そうそう。俺たちポケモンが人の姿になれるということ、全く知らなければ意味不明な説明になっちゃうよね。ごめんね」
ポケモンが人の姿をする、というのはどういうことだろうか。言葉としてはそのままの意味を捉えればいいのかもしれないけど、そうするには無理がある。つまり、先程から私の膝の上で心配そうな顔で見上げているリオルも、彼らみたいに人の姿になれる。ということでしょう? ……どう考えても納得なんてできない。
「百聞は一見に如かずと言うし、いいタイミングだわ。柔剛」
「……?」
「コヨミに説明するついでに、私たちをミナモシティまで運んでちょうだい」
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