005 ただ、今この一瞬のために




 ブゥウウウーン、ブゥウウウーン…。
 けたたましい羽音を聞くだけで、心臓が掴まれたような気分になる。クワガーモンはあれから、林に行く間、何度も栞たちを襲った。その度に地に伏せて、草むらに飛び込んで息を殺しながらかろうじて難を逃れていた。だからと言ってこのまま逃げ切れるかどうかは分からない。自分たちのスタミナが切れた時に、クワガーモンの餌食になる時だ。小さな自分たちがクワガーモンよりスタミナがあるとは、思いたくても到底思うことはできない。
 誰かが守ってくれるとか。誰かが助けてくれるとか。心の中で兄の名を呼びながら、栞は子供たちと一緒にひたすら逃げていた。

――…おにいちゃん。たすけて、おにいちゃん。わたし、なにもできないよ。こわくて、こわくて、震えがとまらない。

 力なんてなかった。だから兄は出て行ってしまった。弱虫な自分。無力な自分。呆れたのだろうか。たくさん兄が出て行った理由を考えた。眠れない日々が続いて、それでも答えは見つからなかった。兄の変わりに、一馬がたくさん助けてくれた。いつしか、眠れるようになった。

――…おにいちゃん。わたしに、なにができるの。

 荒れる息を抑えながら下を向く。


「栞…?」
「…フワ、モン、」
「不安?」
「え…?」
「大丈夫だヨ。僕が栞ヲ守るかラ」


 ふんわりとフワモンは、微笑った。彼の空色の瞳に、栞の泣きそうな表情が映し出される。


「願エばいいヨ。ソレが、栞の力ニなル。僕は知ッてるヨ、栞は強いンだっテコト。ネ、願っテ。ミンナを助ケたいっテ、願うンダ。栞が願エば、ソの願いハ、叶うヨ」


 それが、君が在る意味なんだよ――遠回しに言われた言葉に、栞はフワモンをじっと見つめた。
 自分の『願い』。それは、この最悪な状況を打破すること。そのために、必要なもの――すなわち、祈るということ。
 ドーンっと鈍い音があたりに響き渡る。ハサミが硬い岩を砕き、再び羽音が遠ざかっていくのを聞いて、隠れていた岩(その半分は先ほどのクワガタ怪獣の攻撃でなくなっている)の陰から、栞たちは姿を現した。


「どこか洞窟があればいいんだが…」
「ごめんねヤマト、分からない…」
「いや、いいんだ」


 逆にヤマトの方が恐縮そうにツノモンを見た。


「とにかく逃げようよ。栞くんが言った、林の中に」


 丈は最初にクワガーモンと出会ったときのパニックからようやく立ち直ったみたいだった。この中じゃ年長者としての責任をあらためて自覚したのか、丈はすくっと立ち上がった。


「栞、…大丈夫?まだ、走れる?」
「…うん、平気」


 空が心配そうに栞の方を振り返った。
 体力的な面を考えると、インドアな栞に長時間走ることは大変なことだった。


「辛くなったら、言ってね」
「う、うん、ありがとう」


 心配掛けまいと控えめに笑うと、空は、その栞の手をとった。
 そして彼女たちはまた走り出した。タケルの帽子の上に乗ったトコモンが後方の監視役を務める。


「またくるー!」


 そのトコモンが目を凝らして、外見の可愛らしさから想像もつかない獰猛な牙をむき出しにして叫んだ。
 その声に先頭を走っていた太一の足が急に止まった。


「しまった!」


 何が『しまった』という意味なのか、栞にも直ぐに分かってしまった。空にも分かったらしく、手が少し汗ばんできた。行く手には道がなく、断崖絶壁が待ち受けていたのである。

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