001 未来に臆す




 1999年、7月30日。彼女は小学五年生になっていた。
 じりじりと照りつける太陽の下、栞は腕にぶらさげた荷物を見て、少しだけ憂鬱になるのを感じた。


「…はぁ」
「そんなに嫌ならやめればいいだろ」


 何度目かわからないため息を聞いて、一馬自身も深いため息をつく。別に強制ではないのだ、行きたくなければ行かなければいい。突き放したような言い方に、栞はじとりと一馬を見る。何か言いたげに口を開きかけ、それでも何か言うことはない。


「…仕方ないだろ、お前が行くって決めたんだから」


 事の発端は、サマーキャンプについてだ。もともと人ごみが苦手で、友達のいない栞にとって、そのような行事は参加すべきものではない。いくら一馬や両親が言っても、行きたくないと言ってきかないのである。しかし、今回に限っては本人がいたく乗り気で、行きたいというわがままを言ったのだ。両親にとって、これほど嬉しいものもなく、意気揚々とサマーキャンプに申し込みをしたのだ。初めのうちは楽しそうにしていた栞だったが、サマーキャンプに近づくにつれてため息ばかりつくようになった。


「だって…」


 そもそもなぜ栞がサマーキャンプに乗り気になったかといえば、『友達』ができたからだ。一馬は栞と同じ学校であるものの、もちろんクラスが違うので、一緒にいることはできない。その『友達』というのは、どうやらいつもの如く、一人でぽつんと座っていた時、明るく話しかけてきてくれた女の子のようだ。その女の子の名前を、一馬は知っていた。その女の子は、サッカークラブに所属していた。もちろん、サッカークラブに所属していないとはいえ、サッカーの面に関しては有名な一馬のことだ。あちら側も一馬のことを知っているだろう。
 その女の子はとても明るく、しっかりしているようだった。もちろん、サマーキャンプなど一切行く気はなかったのだが(ちょうど一馬のサッカーの試合と重なるため、一馬は参加しないので一人では無理ということだ)、その友達が一緒に行こうと誘ってくれたので、行く気になったらしい。なんとも簡単な話だ。だが気持ちがわからないでもない。一馬だって、ユースでの友達に誘われれば、ついと思ってしまうだろう。
 もう一度一馬はため息をつき、それからずい、と手を差し伸べた。


「ほら」
「…うん」


 先ほどまでの憂鬱そうな表情が一気に吹き飛んで、栞の顔に柔らかい笑みが浮かぶ。やっぱり、仕方のないやつだ。一馬の頬にも、やわらかな笑みが浮かんだ。


「一馬、栞ちゃん!」
「ん?」


 よく聞きなれた声が聞こえ、一馬は振り返る。


「結人、英士」


 サッカーボールを持った二人の少年を見て、一馬は眼を丸くした。結人と呼ばれた少年は、にっと人のいい笑みを浮かべ、栞の頭を撫でた。


「うわ、」
「あー、やっぱり栞ちゃんの髪は柔らかくていいなー」
「結人セクハラ」
「ぎゃっ」


 ぐしゃぐしゃとかき回された髪を撫でつけながら、英士に頭を叩かれている結人を見ていると、英士と目が合った。ぱちりとウインクされて、小さく笑みを漏らす。ふ、と英士もきれいにほほ笑んだ。


「ったく英士は手加減ってものを知らねえのかよー!いってー!」
「結人が馬鹿なだけでしょ。…それより一馬、今俺たちお前の家に行ってきたんだけど」
「あー…ちょっと買い物で、」


 一馬は、頭を一回かき回して、眉を下げた。二人とサッカーをする約束をしていたのだが、栞の買い物に付き合わなければいけなくなり、連絡をしようしようと思っていながら、すっかり忘れていたのだ。ごめん、と呟けば、別にいいよと短く返ってくる。
 一馬は決して栞を一人にはしなかった。自分が一緒にいられる範囲は一緒に行動している。彼女が一人を極端に嫌うからという理由がおおもとにあるのだが、ただ、自分が兄の変わりになるといった時の栞の顔が、忘れられないという理由の方が大きいかもしれない。過保護と一蹴されてしまえばそれまでだが。


「か、一馬のせいじゃないの、」


 おずおずと言ったのは栞だった。


「私が、急かしたから…」


 ごめんね、と眉を下げると、英士は首を横に振る。これが一馬や結人であったのなら、どれほどねちねち言われたかわからないが、何分、彼は栞には甘かった。優しくほほ笑み、結人がしたのと同じように、彼女の頭に手をおいて、優しく撫でた。


「それにしても二人して、すげぇ荷物だな」
「明後日、キャンプなの」
「明後日?って、一馬、試合じゃん」
「俺は行かない。栞だけ行くんだ」


 その言葉を聞くと、英士はさっと目つきを変えた。


「…大丈夫なの?」
「う、ん…」
「ウソつけ」


 先ほどまで、うだうだ言ってたくせに、と一馬はため息をついた。余計に栞の瞳に淀みが浮かぶ。


「…たぶん、だいじょうぶ」


 語尾が消え入りそうなくらい小さなもので、三人して心配になったのは言うまでもない。


「…まあ、栞ちゃんなら何とかなるよ。自信を持って堂々としてればいいんだから」
「そうそう!一馬と違ってかわいいんだから誰もほっとかないって!」
「どういう意味だよ!!」
「二人とも、変なところで同じなんだから」
「でも、私、友達できたよ」
「ほんとう?」


 うん、と頷けば、英士も結人も、まるで自分のことのように喜んでくれた。栞はそのことで、とてもうれしくなった。

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