010 離れる前に指切りを




―――…俺がお前に嘘ついたことあったか?


 うそつき。


―――…すぐに戻ってくるから。


 うそつき。


―――…おじさんやおばさんに、迷惑かけるんじゃないぞ。


 うそつき。――うそつき!
 戻ってなんか、こなかったくせに。ずっと、ずっと待っていたのに!
 桜が舞い散る日も、太陽が燦々と照り付ける日も、紅葉が枯れてしまった日も、雪が吹きつける日も。毎日、毎日、ただ帰ってきてくれるのを待っていたのに。

 ああ。
 ――…ああ。“わたし”がいけないのだろうか。

 自分がこんなにも兄の枷になっていたことは、当時の彼女には知る由もなかった。
 幼くて、甘えてばかりで、泣き虫な自分。おそらくは、自分が煩わしくなってしまったのだろうか。兄が、そんなことを思うはずもないとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。
 ずさり、と音がした。笑顔の兄が、そこにいた。栞は急いで駆けよるも、兄の姿は遠ざかっていく。待って!大きな声で呼びとめようと手を伸ばした。待ってよ、待って!―栞が近づけば、その分だけ兄も遠ざかる。やがて、栞は立ち止まる。するととたんに兄もその場に立ち止まった。


―――…大好きだから。


 俯いた栞の耳に、兄の柔らかな声が届いた。彼女は顔をあげる。そこには、やはり笑顔の兄がいた。


 栞は小さく目を開け、ぎゅとちょうど胸の上にあるペンダントを握り締めた。何も兄の夢を見るのは初めてではないし、むしろ頻繁に見ることなので特に不思議に思ったりはしない。しかし、兄の夢を見るにはまだ栞の心は弱いままだった。あの日の記憶を仕舞いこむように、栞はそっと目をつむった。
 ふ、と左手に暖かな毛質を感じ、栞はそちらの方を見た。真白の毛が、息をすることにより上下している。イヴモンだった。彼を見ていると、なぜだか暖かな気持ちになれる。栞は小さく笑みをうかべ、それからそっと起き上った。もちろん、起こさないようにそっとだが。
 周りを見回すと、太一とヤマトがいないことに気付く。寝る前に、見張りがどうとか話していたような憶えがあるので、おそらくは見張りに出ているのであろう。…だめだ、目が覚めてしまった。少し、外の空気を吸ってこよう。そうして、みんなを起こさないように路面電車から抜け出すと、まだ幼い少年の声が栞の耳に飛び込んできた。


「いつも…、こうだから。…だからタケルもおまえの方に懐くんだろうな」
「あのさ、おまえとタケルって」
「兄弟だよ。親が離婚したから別々に暮らしてるんだ…」


 少しだけ、悲しげな瞳。栞はその瞳を知っていた。大好きな家族と一緒に暮らせない苦しみや悲しみ。自分も、よくわかるものだからである。
 しばらくは沈黙が続いたが、耐えきれなくなったのかヤマトはその場から逃げだした。みんな、いろいろなことを抱えているのか。自分だけが、特別ではないのだ。再び胸元を握り締め、栞は路面電車に帰ろうと踵を返した時、跳んでいた薪を力を入れて踏んでしまったせいか、ばきという小さな音が響いた。


「だれだ!?」


 太一は急いで振り返る。敵だと思ったのかもしれない。しかしその正体が自分の仲間であると知ると、彼は小さな笑みを浮かべた。 ずきん、と心が痛む。その笑顔が、とても近かった人に似ていた。


「真田かよ。あーびっくりした!」
「ご、ごめんね…」
「なーんで謝るんだか。ほら、こっち来いよ。どうせ目が覚めたとかなんかだろ?」
「うん…、あ、ありがとう」
「…なあ、今の聞いてた?」


 焚き火を見つめる瞳を一瞬だけ見て、栞は小さく頷いた。


「俺さ。みんな一緒だって思ってた」
「一緒…?」
「普通の家庭で育ってて、普通に生きてるもんだってな」


 彼には到底不釣り合いの笑みを、少しだけ寂しそうな笑みを、太一は浮かべた。


「けど、違ったんだな。みんな、違うんだよな。…あー!だから、俺って駄目なのかな…」
「そ、そんなこと…」
「ヤマトもさ、離婚してるからこそ、余計にタケルが心配なんだって言ってた。だから、あんま危険なことはしたくないって。でも、俺にはよくわかんなくてさ」
「仕方ない、ことだよ」
「え?」
「人はみな、違う生き物。だからこそ、成り立ってるんだって、お兄ちゃんが言ってた」
「お兄ちゃん…?ああ、そのペンダント、くれた…。えーっと、真田一馬、だっけ?」


 あの時は特に気にもしていなかったが、そういえば彼女には同じ歳だが兄妹がいたはずだ。むしろ太一の中ではそっちの存在の方が大きく感じていたといっても過言ではない。

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