先ほどから受話器を片手に、何やら緊張した面持ちの栞を見て、こちらまでハラハラしてくると一馬はテレビを見たいのに集中できなかった。仕事から帰ってきたおじ―“父”もご飯を食べながら栞の様子を気にしているし、おばも心配そうに栞を見ている。…おば同様、“おじ”のことも“父”とは呼べない。
 意を決したようにナンバーを押したかと思えば、すぐに電源ボタンを押して消してしまう。顔が見えない分、電話というものは緊張するのは仕方ないし、それが人見知りの激しい栞ならなおさらだ。


「……ふう」


 みんなで栞の様子を見守り、どれくらいの時間が経過したのだろう。おそらく、おじが帰宅してから30分はとうに経過していた。しかし栞がその前から受話器を持っていたのは明らかなので、軽く1時間くらいは経っているのではないだろうか。だとしても、誰も何も言わなかった。否言えなかった。これが栞にとっての大きな一歩になるという確信があったからだ。自ら何かをするということが苦手な栞にとって、電話をする、という行為は飛躍的な一歩なのである。
 ピ、というボタンを押す音が聞こえ、一馬は再び栞に目を向ける。顔は少しだけ蒼白していたが、それでも頑張ろうとしているのがわかった。ピ、ピ、 ピ。小さな指が、どんどんとボタンを押していく。そして、最後のボタンを押し終え、栞は受話器を耳元へと持って行った。家族みんなで固唾を飲んで見守る。
 いくつかの接続音の後、プープーという音が聞こえ、栞は心臓がバクバクするのがわかった。しかし、後には下がれなかった。プツッと電話越しに鳴った。


「はい、武之内です」
「え、あ…あの、真田栞、といいます。空ちゃん、いますか…?」
「ええ、いますよ。…少々お待ちください。……空、お友達ですよ」


 丁寧な口調に、心地の良い声音。おそらく、空の母親であろう。第一関門突破、栞の肩から力が抜けおちるのを見て、家族全員もほっとした。


「はい、もしもし」
「空、ちゃん…?あの、栞、です」
「あら、栞ちゃん?こんばんは!」
「う、うん、こんばんは…。あの、今日、電話…」
「あっ、それで電話かけてくれたのね。ありがとう!…あのね、キャンプのことで、ちょっと謝っておかなきゃなって思ったの」
「え…?」


 電話越しに、空が申し訳なさそうな顔をしているのが、栞の脳裏に浮かんだ。


「ほら、私、無理に誘っちゃったんじゃないかって。…栞ちゃん、あんまり人ごみとか好きじゃないでしょ?けど私が無理に誘ったから、行くって言ってくれたんじゃないかって思って…ごめんなさい」
「ち、ちがうよ。いやじゃ、ないよ」
「ほんとう?」
「う、うん。えっと、あの、空ちゃんと、一緒にいくの、楽しみだから」


 栞の内からあふれる思いは、空に通じているだろうか。言ってしまったあとで少し後悔をしてる栞の耳に、やがてくすりという笑い声が聞こえてきた。


「私も、栞ちゃんと行くの楽しみよ」
「ほん、と?」
「嘘なんか言わないわよ。…あと、それとね、“空”って呼んでほしいな』
「え、あ、呼んでる、よ?」
「えーっと、そうじゃなくて、…呼び捨てで呼んでほしいなって。私、もっともっと栞ちゃんと仲良くなりたいから」
「あっ…う、うん!私も!…あ、私も、“栞”で、いいよ…?」
「本当!?わー!嬉しいわ、じゃあ…栞!」


 ほかほか、と栞の胸はあったかくなった。胸に手をあてる、高鳴る心臓と、感じる暖かさに、戸惑いを感じた。たぶん、これは一馬が兄の変わりになると言ってくれた時に感じたのと同じものだった。


「う、ん。…え、と、空、ちゃ…じゃなくて、そ、空…」
「うん。へへ、なんだか照れるね」
「…照れちゃうね」


 先ほどまでの死んでしまいそうなくらい蒼白していたのはどこの誰だったのか。一馬はふ、と笑ってから、視線をテレビへと向けた。今日は贔屓しているサッカーチームの中継をしているのだ。


「じゃあ、また明後日。一緒に行きましょう!」
「う、うん!」
「時間は……」

「一馬、先にお風呂にはいっちゃいなさい。ね」
「ん、」


 ちらりと栞を一瞥し、とても楽しそうに話しているのを確認すると、一馬は一回その頭にぽんと手をおいてから、お風呂場にむかった。その際栞がきょとんと一馬を見ていたが、すぐに話に集中するようになった。おじおばも、そんな栞の様子を嬉しそうに眺めていた。


「うん、それくらいかな。じゃあね、栞。明後日ね!」
「うん!ばいばい、」
「おやすみなさい!」
「おやすみなさい」


 さよならの挨拶だろう。栞は徐に受話器を離し、それから深く深呼吸をしていた。今更緊張がほぐれたのだろう。くすりとおばは微笑み、それから栞の頭を撫でた。


「よかったわね。一緒に行くの?」
「う、ん」
「良いお友達みたいね」


 優しく微笑まれて、栞も小さな、本当に小さくだったが笑みを浮かべた。彼女が“母”になってから、おそらくは初めて浮かべた笑みだろう。おばは、本当にうれしそうに笑った。


「栞、明日はピアノ塾だろう?お風呂に入ったら、すぐに寝なさい」
「はい」


 いつもより、すっと壁がなくなった気がして、両親は見知らぬ『空ちゃん』に感謝したのだった。


17/07/22 訂正
10/05/28 訂正
08/01/10 

back next

ALICE+