018 あなたとなら地獄さえ楽しい




 最近、頭の中が、ずいぶんと重たく感じた。守らなければならない、そんな感情が栞の胸を占めていく。
 あの暗い部屋に置き去りにした心が、まだ栞を赦してくれない。みんなともっともっと仲良くなりたい、でもそれは栞自身が許せない。人と馴れ合って生きたって、どうせ置いていかれるのだ。執着して、奪われた時の哀しみは、諮りきれないものだった。

 喩えて言うのならば、それは一つの空でもあった気さえする。彼女の守りたいものは、いつでも掌の中に溢れていた。抱きしめるぬくもりが優しかった。傍にある優しさが心地よかった。

 振り向けば微笑んでくれる彼の存在が いつしか彼女の支えとなっていた。


「キャーッ!」


 下水道を歩いていた時、空の悲鳴に、立ち止まった彼女を見る。彼女の胸元に落ちた染みが、黄色の服にじわりと染み込み、変な具合に汚れを作った。栞はおろおろと空の服の裾を握りしめた。


「空、大丈夫…?」


 問いかけると、いつもの彼女とは似ても似つかない泣きそう顔をぐしゃりとゆがめた。


「…洗濯したいわ」
「私は冷たいコーラが飲みたい!」


 楽天的なミミの考え方に、みんなが浮かべるのは苦笑だった。――疲れていた。予想以上に心も体も疲れている。立ち止まったら、なかなか歩き出すことができず、子供たちは立ち往生した。
 バックの中に隠れていたイヴモンは、ひょっこりと顔を出して、栞の顔を見上げる。


「栞は何ガシたいノ?」
「え、私?」
「うン、僕、栞ノことモっと知リたいカラ」


 にっこりと言ったイヴモンに、栞はきょとりと目を丸くさせてから、家を思い浮かべた。したいことならたくさんある。見たいものもたくさんある。まずは、一馬に会いたい。それから約束していたサッカーの練習試合を見に行きたい。あとは、花壇で育ててるヒマワリに水をやらなければ。それから―――31日のことを思い浮かべ、栞は俯いた。何か言おうとしていた笠井。もしかしたら、このことを危惧していたのかもしれないと今さらながら考え、首を横にふる。まさか、そんなことあるわけもない。小さな笑みを浮かべた。


「…私はピアノが弾きたいな」
「ピ…ア…ノ?」
「うん、ピアノ」
「そういえば栞、ピアノ塾通ってたのよね」


 げんなりした様子の空が、小さく笑ってくれた。


「もし帰ることが出来たら、今度は聞いてみたいわ」
「僕も聞いテみたいナ」
「…うん、」


 栞がピアノに没頭したのは、兄である志貴がいなくなったからだ。何かに集中すれば、忘れられる、そう思って始めたのがピアノだった。だからなのだろうか。栞は、いつも楽しくピアノが弾けなかった。笠井が弾くピアノが軽やかで、とても綺麗で、明るい。でも栞の音色はいつだって暗かった。こんなのでいいのだろうか、と思った時もある。やめようと思った時もあった。しかし、その度に一馬がサッカー頑張ってる姿見て、諦めてはいけないのだと思ってきた。


「そうだね…。2人になら、楽しい気持ちで、弾けるかもしれないね」


 恐らくは、そうかもしれない。小さな笑みを浮かべた栞に、イヴモンはやっぱり笑顔を浮かべた。その時だった。突然ギャーギャーという耳障りな悲鳴が彼等の耳に襲いかかる。


「な、なに、この声!?」
「あの声はヌメモンや!」
「なんだよ、ヌメモンって」
「暗くてジメジメしたところが好きで、知性も教養もないデジモン!デジモン界の嫌われ者って言われてるんだ!」


 嫌われ者というその些細な言葉を聞き逃すことなく、栞の眉が寄った。しかしその声に恐怖を感じたのか、すぐに表情をもとに戻し、無意識に空の服の裾を掴んだ。ぐい、という感覚に気づいたのか、空は皺のよる一点を見つめ、それからその暖かい手を握りしめた。


「くるヨ」


 ひょっこり顔を出したイヴモンは、飄々と言ってのけた。ごくり、と生唾を飲み込む。そして地下水道から這い上がってくるヌメモンの姿を見て、子供たちは背筋が凍った。


「あれ…強いの…?」
「弱い!!…ああ、やっぱりヌメモンだ!逃げろ!」


 アグモンの声が響いた。強く響いた言葉に、子供たちは首をかしげた。弱いのに、どうして逃げなくてはならないのだろう。しかしヌメモンの見た目はおぞましかった。アグモンの言葉の通り、子供たちは逃げる体勢をとった。

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