101 眩いばかりの光の中で、いつもあなたは笑っていた
( 栞 )
ぴちゃん、と水滴の垂れる音と、聞き覚えのある優しく暖かい声に、栞はゆっくり顔をあげる。おかしいな。ここは部屋の隅のはずなのに、どうして水の音が聞こえるのだろう。
いつだって、心は、あの暗い部屋に置き去りのまま。仲間がいて、友達がいて、冒険して笑う自分を、鬱蒼と窘めるように、ねめつけるもう一人の自分。己の罪を忘れたのかと問いかけてくる。忘れたことなんてない。
母が死んだのは、自分を産んでしまったからだし。父が死んだのは、自分を迎えにきてくれたからだし。兄がいなくなったのは――自分が、弱いからだし。すべての罪が己へと還ることを、忘れたことなんてない。
( 栞 )
ざわつく心が、もういいんだよと慰めてくれた。罪を忘れ、こっちへおいで。何も考えなくていいと瞳をふさぐ手が、暗闇から無数に伸びてくる。
「――そっちへ行けば、もう、楽になれるの?」
気付いたら、声はうれしさを含んでいた。もう、何もしなくても、何も考えなくてもいい。ああ、楽になれるのだろうか。
弾んだ声のはずなのに、どこか寂しさが残されている。頬を伝う涙を止められないままに。
「…そっちへ行くのか?」
「――…だ、れ?」
そのとき、声が聞こえたんだ。少年のように高い声だった。はっと振り返れば、声に似合った背格好の少年が、こちらを悲しそうに見ていた。――自分は、彼を知っているような気がした。
「――忘れちゃだめだよ、栞」
「……ッ、」
「俺はいつでも、お前の味方だから」
ふわりと微笑むその姿は、いつだって、栞の心を占めていた。それは、愛する人。それは、愛する家族。
そう、ずっとずーっと探していたその人が栞の目の前にいた。微笑んでいた。記憶の中の変わらない、その姿のままで。
「俺はいつだってお前の傍にいるよ」
頬に手が触れて、記憶がフラッシュバックする。頬を涙が伝って、思わずその手に触れた。暖かなぬくもりに、なつかしさがこみ上げる。
( 栞! )
空間に響き渡った別の声に、彼は虚空を見上げた。何もなかった上空に、優しい光が灯り始めた。
「栞、ほら、呼んでるよ」
「いや、いやだ、もう…も、離れたくない、…っ」
「でも、行かなきゃ。世界がお前を求めてる」
子供に言い聞かすように、頬に触れていた手が頭に移動する。首を振れば、涙が伴って地面に落ちた。いつの間にか、そこは暗い部屋の中ではなくて、光あふれる世界だった。暖かな風が吹き抜ける。しゃくり上げながら周りを見渡せば――そこは、デジモンたちが笑い合う草原だった。
「――守るんだろう、この世界を」
「せか、い」
「みんなを、守るんだろう」
「みんな、」
そして――仲間の姿が、映し出される。必死に戦っている、みんなの姿。 みんな戦ってる。傷ついて、それでも、戦ってる。守るために。世界を守るために。――ああ、行かなきゃ、守らなきゃ。
だって、だって、「わたしは…」。
「私は、守人、だから…」
頭の中に刻み込まれた使命がよみがえる。気持ちが高揚し、脳内が活性化する。目の前が赤く染められた。でも――なぜだろう、不思議と悪い気はしなかった。
一歩離れて、後ろを振り返れば、その人は笑う。目の前は戦いの世界だった。
「……大丈夫、お前ならできるよ」
「…え?」
「…大丈夫だろう?」
背中を、とん、と押された。
「お前は俺の――妹だもんな」
光が差し込んだ。
それは、私の希望だった。
「――うん、おにいちゃん」
涙があふれ、栞は――ゆっくりとほほえんだ。
「……守ってみせるから」
凛と立つ背は、優しい世界の象徴。どこまでもまっすぐ相手を見つめる紅い瞳は、正しき世界の秩序。まるでその姿は聖なる母のように美しい。
時が止まったように、彼らの間はゆっくりと流れる。――ヴァンデモンは一瞬でも慄いた己を叱咤した。
「あなたの好きにはさせない」
「なぜ、守人、貴様、」
「あなたに、この世界を壊させたりしない」
彼女は、地上に舞い降りた天使だ。そう錯覚するくらい、彼女の色は美しく輝く。何色にも負けない輝きだと思った。彼女の動きすべてが洗礼されていた。
お台場に光が差し込んだ。彼女は照らし出される。彼女のすべてが、世界によって祝福されていた。
「あなたがこの世界を苦しめるなら――私はこの世界を守る。ただ、それだけ」
「―…哀れなり、守人よ。いくら抗おうとも、私の闇の前には今のお前の力など無に等しい!!」
焦燥感にかられるヴァンデモンを目の前に、ただ静かなさざ波のように、彼女はそこにいた。ヴァンデモンは吐き捨てるように表情さえも荒げた。
「……お前はすべてに絶望し、世界を捨てたのだ!!そのお前がいまさら何をするという!!世界を守るだと!!笑わせるな!!お前にそのようなことが出来るわけない!!」
「――守るよ。この世界も。デジタルワールドも。どちらも私の大切な世界だから」
自分を守るペンダントはない。でもここにはいつだって、暖かい思いがある。
「お兄ちゃんを、待つ世界だから。一馬がいる、世界だから。みんなの、世界だから」
そうして、彼女は優しく微笑むのだ。
「どれだけ闇に呑まれても、どれだけ孤独に陥っても」
一歩、前へと進む。
「私は、独りじゃないから」
仲間がいるから。
誰かが支え、誰かが叱咤し、励ましてくれるから。
「私は、もう、諦めない――!」
靄に覆いつくされた空に、更に光が差し込む。それは優しくて、暖かくて、何よりも美しく、すべてを照らしだす光だった。
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