103 その不器用さが愛し




 彼は、暗闇の中にいた。気がついたらそこにいて、気がついたら、足は勝手に動いていた。


(どこへいくの?)


 そのときだった。優しい少女の声が聞こえた気がして振り返ったが、そこには何もない。ただ、ぽっかりとした空白の闇だけが押し寄せてきていた。ぞくりと背筋が凍えた。逃げ出そうにも、足は全く動かない。
 これを恐怖だと悟る。今まで生きてきた十数年、時には些細な恐怖を感じたことがあったが、これほどまでの感情は育まれなかったものが、一瞬にして芽吹いた瞬間だった。


「行かなきゃ…“アレ”は怖い…」


 目の前に迫っていた闇が、己を飲み込んでいくのが手に取って分かる。無数の触手に絡め取られ、進むことも戻ることもできなくなっていた。必死にもがいて逃げ出そうとした時、暖かな手が、自分の体に触れた。


(だいじょうぶ。“それ”をおそれないで)


 顔をあげる彼に、そう声は囁きかける。どこか儚くて、どこか暖かくて、――どこか悲しい声だった。


(だいじょうぶ。“それ”はあなたとともにある)


 パチン、と何かが弾けて、自分を包み込んでいた闇が己の中で還元されていく。それを原点回帰だと悟った。闇が、原点である自分の中に戻ったのだ。
 彼はその場に立ちすくむ。再び暗闇の中でしかなかったが、迫りくる闇は何もない。そのとき、彼は目の前で光を感じた。暖かな光だった。


「…君は、」


 そのシルエットは自分のものよりもだいぶ小さく、華奢だった。眩い光がそのシルエットから放たれているのを感じ取り、一歩踏み出した時、彼は足元がぐらりと揺らぐのがわかった。立っていられないほどの揺れに咄嗟にしゃがみ込むと、ガラガラと音を立てて周りの闇が崩れていった。


「なんだ…これっ…」


 そのとき振り返った顔を、彼は知っていた。“彼女”はただ悲しそうに微笑んでいて、思わず手を伸ばした。


( あなたは“わたし”のともだち )

( “わたし”のなかのかけたひかりを、あなたに )


 世界が光り輝いて、暗闇の世界が崩れていった。


「――っ さな、だ―――!!」


★ ★ ★




 ヒカリが指さした空を見上げれば、相変わらず暗雲が頭上で展開され、靄が渦を巻いていた。
 ヴァンデモンは確実に倒したはず。それならばこの霧も晴れるのではなかったのか?予想だにしない出来事に見舞われ、子供たちは立ちすくんだ。


「……ッ」
「栞?」


 その影が揺らいだ――そのときだった。
 栞がぐ、と眉をしかめ、右足から崩れ落ちた。「栞!?」どさりと鈍い音が響き、子どもたちは急いで栞のもとへと駆け寄り、空は彼女の体を抱き抱えた。


「ちょっと、大丈夫!?」
「……っ、だ、だいじょ……、っ」
「! …栞さん、すみません。失礼します」


 最初に彼女の違和感を感じたのは、光子郎だった。彼は眉を寄せたまま、栞に右足に触れる。突然の行動に驚いたのは当人の栞ではなく、周りにいた子どもたちだった。だが驚く間もなく、栞は小さな悲鳴をあげた。痛みを悶える声だった。光子郎はもう一度失礼しますと呟くと、彼女の靴下をさげた。
 周囲の目に、彼女の異様に腫れたくるぶしが晒された。


「なんだ、これ!」
「ひどい熱感を持っています。それにこの腫れ…尋常じゃありません」
「栞…こレ」


 イヴモンの戦慄した声が栞の脳内でひどく響き渡る。ただの打ち身だと思っていたから何も言わなかった。それがただの打ち身ではないと気付いたのは、こちらに来てからだった。そのあとは言うタイミングが見つからなかった。激痛が右足に襲いかかってくるので、発言することさえままならず、ただ右足を抑えながら荒い息を吐くだけだった。


「いツ、」
「…っ」


 別に彼女を責めたいわけではなかった。ただ焦るあまり、有無を言わさぬ語調になってしまったのだろう、栞は脂汗を浮かべたまま自分の眼前に浮かぶイヴモンをとらえる。ごめんなさい、と小さくつぶやく声が聞こえ、ハッとして全身をふるふると震わせた。
 違うのだ、責めているわけではない。ただ、これが、彼の杞憂であればよいのだが。


「…ヴァンデモンの、城で」


 だが真実は、重たく降り注ぐ。
 栞は眉をさげ、荒い息を吐きながらそう告げる。


「吹き飛ばされたときに、右足、ぶつけたの。その時は、ただの打ち身だと思っていて、でも、こちらへ来たとき、ひどく、腫れていることに気づいて、」
「そんな…!どうして言わなかったのよ!」
「痛みもなかったし、いろいろタイミングがなくて、…ごめんなさい」
「あっ…ちがうわ、責めているんじゃない…」


 心配するあまりに、空さえも鋭い語調になってしまった。言ってからすぐに、肩をびくりと震わせ謝る所作を見て、空は後悔した。慌てて首を横に振る。その反応を見てから栞は視線を落とし、目を閉じた。


「―――考えらレルことハ、ヒトツ」


 大きく息を吐いたイヴモンの声が頭上から聞こえる。――杞憂で終わってほしかった。そっと見上げられる視線は不安に満ちていて、イヴモンは少し目じりをさげて、困った顔をした。栞は、その表情を見て、分かった。


「あいつは生きている」


 悪夢は、まだ始まったばかりでしかなかった。

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